「ねえさまッ!ねえさまッ!」
ウテナをこう呼ぶ人はひとりしかいない…。
その声に導かれて、ウテナの意識は深い深淵の闇から上昇していった。
身体の感覚が戻って来るにつれ、頬に触れる夜露の冷ややかさに背筋がゾクリとする。
その寒気は、何かの記憶を呼び起こそうとするのだけれど、どうしてもそれを思い出すことは出来なかった。
まるで、その部分だけがキレイに切り抜かれたように…。


ウテナは目を開くより先に、右手を自分の冷たい頬へ持って行った。
すると、先ほどの声の主がウテナの手を掴んだ。
「ミツル?」
ウテナは漸く目を開く決心をした。
自分がミツルの膝の上に抱え込まれていることに、もう気付いていた。
…ミツルを助けるつもりだったのに、かえって心配をかけただけ…
細い三日月のような視界いっぱいに映ったミツルの顔は、思っていた通りに悲痛に歪んでいた。
…ボクのせいだ…
それだけは間違いない。自分がミツルを悲しませたのだ。
「良かったッ!ねえさまが目を覚まさなかったら、わたしは何のために…」
ミツルはそこで言葉を詰まらせた。
「ボクは平気だよ」
ウテナは跳ね起きた。
そして気付いた。
自分とミツルを取り囲むように立っている人たちに…。
「えッ?!」


それはとても奇妙な集まりだった。
以前決闘広場でミツルを襲ったグレースーツの男。
その側に、自分を連れ出したアンシーに良く似た少女。
千唾馬宮に支えられた御影草時。
皆、綺麗な夜会服がズタズタだった。
…なにッこれ?…
「驚かせてご免なさい。ねえさまが気を失っている間に集まってもらったの…」
「わたしたちの陣営です」
「陣営ッて?!」
「少し人手がいることになりそうなのです」
「なにをする気なの?」
「皆で、そう、ちょっとしたゲームを…」
「ゲーム?!」
「心配いりません。ただの『遊び』ですから」
ウテナは妹の顔を正面から見た。
その瞳の中に映るのは、虚ろな永遠。
綺麗に切り取られたはずの記憶の断片…。


この時に至ってウテナは初めて妹の真意がどこにあるのか判らないという不安にかられた。
少なくともウテナが見てきた中では、ミツルが人を使って何か企てようとすることなど無かった。
お庭番という立派な部下を持ちながら、決して彼女たちを使おうとしなかった。
そのミツルが、他の誰かを使って何かをさせようとしている。
それもとても尋常とは言えない人たちだ。
「ゲームには相手がいるよね?」
「ミツルは誰と『遊ぶ』というの?」
ミツルはとてもうっすらと笑った。
「ねえさまのお友達の方々ともっとお近づきになろうと思いまして…」
ウテナはミツルの両手を掴み胸に抱き寄せながら叫んだ。
「お願いだ。止めてくれッ」
「突然どうされたのですか?ねえさま」
ウテナは鼻と鼻が触れるほどミツルに顔を寄せた。
「アンシーには、手を出さないでくれ」
ミツルはとてもゆっくりウテナから離れると、立ち上がった。
「誰も傷つけたりしません」
「先ほどもある人に約束したのですけれど、もちろんねえさまにも約束します」
「ねえさまのお友達を傷つけたりしません」
「本当に?」
「ええ!」
前にも感じた。
ミツルは嘘を吐かない。
なぜかは判らないけれど、それはこの世界の無条件の理と言えるほどの確信だった。


「石岡室長、御影さんをお願いしますね」
「判りました」
長身の男は馬宮から御影を預かると軽々と抱き上げた。
「主催者が会場を空けたままには出来ませんから、わたしたちは夜会に戻ります」
「暁生(あきら)さん、一緒に来て頂けますか?」
「判った」
そう言われた少女は、ウテナに手を差し出してエスコートした。
「では夜会に戻りましょう」
ミツルが先に立ち、ウテナと暁生が並んで後に続く。
さんざめく夜会の気配は、まだまだいつ果てるともなく続いていた。
その30 その32
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