恋に狂うなんて、マンガやドラマの中だけの話だと思っていた。
それさえも、いまではあまり流行らないネタだ。
色恋ごときで物事の判断も出来なくなるなんて、そもそも鍛錬が足りないのだ。
少なくとも自分には縁のない事だと水晶は思っていた。
昨日までは…。
けれど、いま。
水晶には、何も見えない。見たくない。
何も判らない。判りたくない。
ただ。
…樹璃様を勝たせたい…
樹璃に勝利の快感を味わって欲しい。
それだけだった。
そのために、西の控え室へ走った。物心ついた時から共に修行して来た同志を置き去りにして。
…有栖川樹璃は勝利の栄光を知らない娘だ…
…剣の道でも、恋でも…
…おまえならば、その両方を樹璃にもたらす事ができる…
…おまえだけが…
夜会の最中に聞こえて来た不思議な声はいまだに心の奥底で囁き続けていた。
実のところ、どうすれば樹璃の力になれるのか、水晶には見当もつかなかった。
不思議な声も、それをハッキリと示すわけではない。
けれど、水晶の中の何かが『行動せよ』と叫ぶのだ。
樹璃の元へ急げと。
「あら、あなた、さっきの娘ね」
「まだ、樹璃に付きまとう気?」
「枝織、さん?」
根室記念館の中庭、西翼の控え室に指定された部屋の窓の下、そこには高槻枝織がいた。
水晶を待っていたのは、その枝織の氷のような言葉。
「『突然の好意は、相手を驚かせるだけだよ』って言われた意味が判らなかったのかしら?」
「それとも、もっとハッキリ嫌いだと言われないとダメなの?」
「鈍感って、それだけで犯罪よね」
枝織は夜会での出来事を、樹璃の口調を真似て再現した。
傷口に塩を擦り込むように。
水晶は歯を食いしばった。本当は悲鳴を上げたいほど傷ついた。
縋り付いた水晶を、樹璃が素気なくあしらったのは、つい先ほどの出来事。
普通なら、とてもではないが、あわせる顔はない。
それでも水晶は、風車に突貫するキホーテのように、思春期の汚物をまき散らして進むよりなかった。
…樹璃様に勝利を…
水晶の心は、身動きもならないほど、その妄執に縛り付けられていたからだ。
その瞳の色は、既に現実を映してはいなかった。
開き切った瞳孔は、ポッカリ開いた暗い穴のよう。
…その娘は、樹璃の心を弄び、影で笑っていた…
…樹璃の純真を踏みにじった娘だ…
枝織は、漸く自分の置かれた危機に気付いた。
けれどその時には、もう逃げ場がなかった。
羨望や嫉妬や、時には殺意さえも含んだ視線を、飽きるほど浴びて来た枝織も、こんな目で見られるのは初めてだった。
感情が全くない自動化された殺意。
先ほどまでとは、まるで違う。
とても、人とは思えなかった。
確定した死の定め。
少女の姿をしたギロチンだ。
剣お庭番に選抜される娘たちの実力は、野生の肉食獣に匹敵する。
1対1の条件なら、お庭番の全員が鍛えられた屈強な兵士を、完膚なきまでに破壊する事が可能だった。
華奢な少女の身体を、ズタズタにするなど雑作もない。
水晶は、何の構えを取る事も無く自然に立っている。
何も起こっていないように見えたが、枝織との間合いは、既に半分に詰まっていた。
枝織の体は強張って、動く事も声を上げる事も出来ない。
…いや!恐い!来ないで!…
間合いはさらに詰まる。
…いや!いや!いや!…
水晶の呼吸を読む事は常人には不可能だが、それでも微かに予感は漂った。
弓弦は引き絞られたのだ。
古式剣流神速の抜き手が放たれる刹那、それは起きた。
『世界を革命する力を』
水晶と枝織の頭上で閃光が炸裂した。
控え室の窓から溢れる光束がふたりを貫いた。
その瞬間まで、殺戮機械だった水晶の中へ、それは突き刺さった。
そして、水晶は強制的に革命された。
どうすれば、樹璃に勝利をもたらす事が出来るのかが、突然、理解出来たのだ。
水晶の意識内に激しく情報が流れ込んで来る。
デュエリストに力を与える者、薔薇の花嫁という存在。
薔薇の花嫁を奪い合うデュエルという儀式。
水晶だけに許された樹璃への献身。
…わたしは樹璃様の『薔薇の花嫁』になるんだ…
樹璃に心の剣『小烏丸』を捧げ、樹璃の薔薇の花嫁になる。
それが、仲間を棄てまで、水晶がここへ来た理由なのだ。
その36
その38
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