「今宵、秘密の扉が開かれます」
凛とした少女の声が場内に響き渡る。
ウテナは顔を上げ、暁生もその視線の先を見た。
ふたりはいま、偽の決闘広場へと続く花道の袖にいるのだった。
拡声器から響く少女の声は続けた。
「部外者には決して見る事が許されなかった…選ばれた者のみの儀式、デュエル!」
「今宵の宴にお越しいただいた方にだけ…その真実が明かされるのです」
場内アナウンスはキララだった。少し幼さの残るその声は、記念すべき第一試合の対戦者を告げた。
「青龍の陣より、剣家お庭番、托塔月子」
「白虎の陣より、鳳学園生徒会、有栖川樹璃……、とその薔薇の花嫁」
ウテナと暁生の視線は偽の決闘広場の中央へと注がれる。
「始まったな」
「うん…」
観客席から低く唸るような歓声が沸き上がった。
東西のコーナーからそれぞれのデュエリストが進み出たのだ。
剣家の者たちが鳳学園に転校して来たその日のうちに、デュエリストとお庭番は衝突していた。
遠からず、こういう日が来る事は判っていた。
むしろ遅すぎたと言えるくらいだろう。
けれど、とうに覚悟を決めていたはずの月子と樹璃にさえ、思いもよらない出来事が起こっていた。
それはこのデュエルの場に於いて、樹璃の後ろに影のように寄り添う人がいること。
しかもそれが、剣家お庭番参の矢、南方水晶であることだ。
月子の鋭い切っ先のような視線は、対戦相手の樹璃ではなく水晶に向けられていた。
樹璃がそれを遮って立ち塞がる。
うねる亜麻色の巻き髪と、滝のような黒髪が激しく鬩ぎあった。
「何処を見ている。対戦相手はわたしだ」
「わたしが勝ったら、水晶を還してもらう」
「勝ったら…な」
額が触れるほど近くで睨み合うふたりの間に、キララが体をねじ込んだ。
長身のふたりを、見上げるようにしながら引き離す。
両者の距離を十刀足以上に空けると、それぞれの胸に薔薇の花を留めていった。
薔薇が留められている間も、月子は水晶を睨み続けていた。
「月子お姉様」
キララは普段なら、決して月子を『お姉様』などと呼びはしない。
けれどいま、必死の表情で月子の顔を見つめ、押し止めるように両腕を掴んで語りかけて来る。
「ミツルちゃんは『水晶を咎めない』ッて言ったよ」
お庭番にとって主命は絶対だ。
月子もミツルの言葉は直に聞いていた。
しかし、どうしても許せない。
…水晶、おまえの天稟(てんぴん)はわたしの遥か上を行くものではないか…
…11歳になるかならぬかのうちに奥義を掌中に納めたおまえには…
…わたしが、どれほど悔しかったか判るまいッ!…
…それを今更、惚れたはれた程度の事で己の剣を棄るなど!…
…その性根を叩き直してやる…
「樹璃お姉様、どうか気をつけてください。月子さんは並の使い手ではありません」
「君たちお庭番は誰であれ、皆、恐ろしい手練ばかりじゃないか?」
「あの人は別格です。わたしには絶対に辿り着けない世界にいる人です。本人は判っていないみたいですけれど…」
「フフッ、それは楽しみなことだ…。だが、ひとつ気に入らない」
「えッ?」
水晶は樹璃の渋面に驚き慌てた。なにがお気に召さなかったのだろう?
「わたしではなく『わたしたち』だ。それに『ふたりなら、どれほどの高みも望める』そう言ったのは君だぞ」
「樹璃お姉様ッ!わたしを信じてくださるのですね!」
「でなければ『薔薇の花嫁』などいらぬ!」
「嬉しい!」
樹璃の袖をそっと掴んだ水晶は、顔を赤く染めた。
キララは広場の中央から退くと、鋭く煌めく声でデュエル開始を宣した。
「特別デュエル第一試合」
「始め!」
瞬く間に、偽の決闘広場を、縮尺された嵐が覆っていく。
人の背丈ほどのところで、稲妻が舞い、雲が千切れ飛んだ。
観客席がどよめく。
「世界を革命する力を!いでよ!我が刃!小烏丸」
「古式剣流禁呪式解放!我が問いに応えよ!数珠丸」
広場中央に出現するふたりの麗人。
樹璃はくるぶしまである艶やかな深紅のマントと、細い腰を金糸の帯で絞った純白のブラウスを纏っていた。
流麗なドレープがしなやかな体の線を浮き上がらせる。
美しい王子様そのものだった。
「小烏丸は樹璃お姉様の心の有り様に合わせて、レイピアの姿をとりました」
「お姉様の戦い易い戦術が使えます」
「良し!」
樹璃は競技フルーレの握りでははく、銃の引き金のように鍔の握り環に指をかるルネサンス風の握りを選んだ。
左肩を前に出し、前影面積を出来るだけ小さく、剣は頬の横に構え、切っ先をピタリと相手に向ける。
マントを絡めた左手は、軽く前方へ突き出し、相手の視界を遮って距離感を乱す。
所謂、闘牛士の構えに近い。
一方の月子は例によって、漆黒の烏帽子と煌めく綾織りの狩衣をまとっていた。
大上段を斜(はす)に崩して、右肩に担ぐような構えで大太刀「数珠丸」を構える。
女物の薄衣(うすぎぬ)で顔を覆っているため、その表情は見えなかったけれど、牛若丸もかくやという凛々しい美丈夫ぶりは隠せない。
ふたりは観客席の騒ぎなどまるで意に介さぬように静かだった。全く動いていないように見えた。
だが、その氷のような静けさの下では、火を噴く戦いが既に始まっていた。
それが見える者にとっては、瞬きさえも許されない戦いが。
…樹璃お姉様、そのままお聞きください…
薔薇の花嫁と王子の間のみに可能な、声を使わない意思の伝達で水晶は樹璃に話しかけた。
…わたしの見ているモノを樹璃様にお伝えします…
…判った…
樹璃もそれを理解し、返事を返す。
樹璃の視覚に重なるように、もう一つの情報が投影された。
それは、光によって描かれた幾何学模様。太古の文明の解読不能の壁画のようだった。
月子を中心にして放射状に構築された『何か』というほかに形容のしようがない。
…月子さんが、結界でこの広場を縛ったのです…
…わたしたちのどちらかが、あの光に触れただけで、ふたりとも動けなくなるでしょう…
…ではどうする?…
…小烏丸も結界を創り出し、一瞬の間だけあれに穴を開けることは出来ます…
…その一瞬に突きを捩じ込むのか!…
…いいえ!それでは月子さんの思う壷、向こうはその打突を待ってます…
…ならば、どうしろと…
…結界に穴を開けたら、わたしが突っ込みます。お姉様はわたしを楯にして真の攻撃を…
樹璃は決闘中にも拘らず、構えを解いて後ろを向いて、ツカツカと水晶へと歩み寄った。
背中はガラ空きだ。
月子がその気であれば、その瞬間に勝負は決しただろう。
けれど月子は、呆気にとられた訳でもなく、十分に闘気を維持したまま、樹璃のその行動を見送った。
パンと、小さな音が決闘広場に響いた。
樹璃が水晶の頬を引っ叩いたのだった。
「水晶!わたしは君を信じた。君はわたしを信じないのか?」
「樹璃お姉様ッ!!」
水晶の瞳は壊れたように涙を溢れさせたけれど、その光は濁る事なく、より強く樹璃を見つめ返した。
「判れば良い」
何事もなかったかように樹璃は元の位置に戻り、寸分の変わりなく同じ構えをとった。
「お待たせした」
「仔細無い」
月子は背中を曝した相手が構え直すまで待った。
陽子なら「愚か」と断じたろうけれど、月子は自分の信じた通りに振る舞った。
決闘とは、ある種の信義の上にのみ成立する戦い。
それを重んじないのであれば、最初からここに立たなければ良いのだ。
水晶は月子の愚直さが好きだった。
尊敬していたのだ。
そして、樹璃がその心根を理解する人であった事が堪らなく嬉しかった。
同時に、デュエリストとして対峙した瞬間に、ここまで理解し合うふたりに嫉妬を覚えた。
本当ならあそこに立っていたのは自分だったかも知れないのに。
…それを自分で手放した…
そんな水晶の心の乱れを、月子は今度は見逃さなかった。
…結界の拘束密度が…
一気に高まる重圧。水晶も樹璃も鉛を詰め込まれたように、体が重くなった。
「樹璃お姉様!わたしと共に唱えてください!」
「気高き公達の剣、汝の魂魄を顕わせ!!!!」
「気高き公達の剣、汝の魂魄を顕わせ!!!!」
樹璃の手の中で小烏丸が震えた。
…承知…
…我が魂魄を見よ…
光が右の掌の中に集い、激しい奔流となって小烏丸から吹き出した。
体全体が押し潰されるような圧力が、どこからか抜けていく。
…結界に穴が開いたんだ…
…目を凝らせ…
樹璃は見た。
月子の周りに張り巡らされた一部の隙もない構造物を貫通する光の道。
…例え相手のお膳立て通りだとしても…
樹璃は躊躇うことなく、小烏丸が作り出した回廊に突進する。
周囲の全てが虹色にぼやける中、月子の姿だけがピタリと像を結んでいた。
樹璃の突きは精密に薔薇を目指した。
全ての動きが蜂蜜の中のように、ゆっくりと進む。
月子の上体が、信じ難い角度に捻られて、その突きを躱す。
樹璃には、月子の上半身が無くなったようにさえ感じられた。
…下から斬り上げがきます…
跳躍ッ!!!
月子の身体が、膝の高さにまで仰け反った状態から、弾ける。
目眩ましに使ったマントが切断された。
着地ッ!!!した瞬間に逆方向にさらに跳躍。
しかし、それは読まれた。
空中で体を捩り、数珠丸の軌道から逃れる。だが、月子の追撃はまだ続く。
…疾い…
次の着地点で、反撃できなければ。
…樹璃お姉様ッッ!!!…
樹璃は自分より先に着地点に到達する月子を見た。とてつもない歩法!瞬間移動のようだ。
…負ける…
…小烏丸を感じてッ!!!…
樹璃は絶叫した。
「汝の魂魄を顕わせッッ」
月子の斬撃が微かに鈍った。
…ここだッ!…
その一瞬で樹璃は、空中で姿勢を変え、着地点を変更した。
どうにか、間合いを取り直すことに成功したのだった。
肩で息をする樹璃に、月子がニヤリと笑む。
「良い太刀筋。そして小烏丸の力をこれほど早く引き出す感受性」
「水晶の見る目は、確かなようだ」
「………」
樹璃は無言のまま、更に退く。
いまの攻防の間に月子の結界はより厚く、重く、のしかかって来ていた。
例え光の条に触れずとも、いずれ動けなくなってしまうだろう。
小烏丸の力でスペースを作っても、月子の剣が樹璃を凌駕する限り、勝ち目がない。
…わたしが楯になります。樹璃お姉様。次こそ、この戦法で…
…ダメだ…
ダメだダメだダメだ。樹璃は断固として水晶の戦術を拒絶した。
…以前、デュエリストとして戦った時、決めたのだ…
…もう、自分の心に適う戦いしかしないと…
…君には悪いけれど、ここから先は見ていてくれ、水晶…
…はい…
月子の重心は、より低くなり、数珠丸は腰だめに、刀身を身体の後ろに隠すように構えられていた。
「ハッ!!!!!」
樹璃は裂ぱくの気合いとともに、再度、月子に突進した。
低く、疾く、鋭角に。
しかし、その突破経路は、予め月子が仕掛けておいたもの。これでは前回と同じ結果を招くだけだ。
…万策尽きたか?…
それでも、樹璃は全力で突き進む。
…愚かな…
地表スレスレに突っ込んで来る樹璃に対して、更に腰を落とし、ほとんど真正面からその突進を迎え撃った。
「ティィーーーーーーーーーーーッッ」
小烏丸の切っ先を目の前まで引き付けてから、身体を半回転させて軌道の下へ入り込む。
さらにその勢いのまま、自分の胴に極めて近い最小の軌道で、数珠丸を振り抜いた。
…そのか細い刀身で受け太刀してみろ!真っ二つに叩き折ってやる…
「ガキン」
鋼の打ち合う鈍い音が響き、月子の狙い通り受け太刀した樹璃は、小烏丸をへし折られたかに見えた。
が、しかし、そうはならなかった。
小烏丸の主が消えていた。レイピアだけが宙に浮いている。
小烏丸に打ち込まれた数珠丸の斬撃は、巨大な岩に食い込んでしまったように、ビクとも動かない。
空中の一点に静止していた。
王子の剣の力だ。
月子は常人ならばあり得ない姿勢のまま、見事にバランスを保った。
けれど、それは樹璃の狙い通り。
後ろを取られていた。
…しまった…
「もらったァッ!!!」
長い腕が月子の懐から左胸へと伸びていた。
月子よりも更にあり得ない姿勢から、樹璃が薔薇を抜き取ったのだった。
そして、引き抜かれた薔薇の花は、樹璃の手に握られて月子の目の前にあった。
ふたりは縺れ合ったまま、ゆっくりと決闘広場の地面に崩れ落ちた。
樹璃が小烏丸をその身から離してさえ、これだけの力を揮えるとは、対戦前には思いもしなかった。
…薔薇の花嫁を得るとはこれほどのものなのか?…
月子の負けだ。
「それまでッ」
開始の合図と同じく鋭く煌めく声が、勝敗の決したことを告げた。
その37
その39
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