サンジが食事をする光景は、あまり見ない。船の上では給仕ばかりが多い男は、いつ食べ物を口にしているのか、疑問に思うほどに食べる姿は珍しい。
 ゾロの注意が惹かれた最初の理由は、たぶんそれだった。だが、そのまま剣士の意識を引き寄せたのは、もはや好奇心が原因とは断言できないものがあった。
 淡く灯るランタンが壁にかけられた小さな店は、さして珍しくもない港町によくある酒場だ。
 この島でも有名なレストランに行くナミに、サンジは違う店に行くとだけ告げた。大抵の場合、サンジは高級レストランには行きたがらない。
『この島の郷土料理が食いたいんだ。悪いけど、俺は別行動をさせてもらいますよ』
『じゃ、集合は明後日だから準備はよろしくね』
 ナミは簡単にコックを解放すると、他のメンバーを引き連れて去っていく。それを見送るサンジの隣には、ゾロの姿が当然としてあった。
  
 サンジがナミたちと行動を共にしないワケは、ゾロもなんとなく知っていた。
 ひとつにはゼフの知人がいるかもしれない煩わしさもあるらしい。
 表面的にはゼフとサンジの関係は最悪だった。
 ゼフを慕っていた連中は一概にサンジにはイイ印象がない。
 バラティエに長くいたコックたちは、口では悪し様に言いながらも、サンジに信頼と好感を抱いていた。だが一時期しかいなかった連中に、あの荒くれコックたちと同じ感情を持てと望むほうに無理がある。
 気に沿わない人間と、ばったり出くわすよりは気楽に飲み食いできるほうがいい。
 それは存外に面倒くさがるコックの本音でもあったが、それすら些細な理由だ。
 ゼフとの隔絶があろうが、犬猿の仲に他人に見えようが、そんなこと知ったことじゃない。

 コックが別に動こうとしているのは、立ち寄った島にしかない郷土料理に興味があるからだ。
 女好きな料理人の意識は、大半が料理で埋め尽くされている。

 サンジは実に多種多様な料理を拵える。
 立ち寄った島々の料理は、全てこの男の頭の中にある。乗員の好みに合わせ、探り出したレシピに手を加えては、忘れた頃にひょっこりと食卓に上る。
 個々人の好みまで把握しているコックの作る郷土料理は、本場で食い散らした食事よりも断然美味い。
 だから、ナミはルフィという多少どころか大変に厄介な荷物を引き受けてでも、サンジを無理に自分の側には引き寄せようとしない。聡い女だ。サンジが言わなくても理解する。

 ゆっくり視線を上げたサンジと目が合った。喧騒に掻き消されているというのに、コックの手が静かに皿へ置いたフォークとナイフのかすかな音が聞こえた錯覚に陥る。
 蒼い、真っ青な視線が、真っ向から人の目の奥まで貫き通った。
 目元を眇め、ゾロを睨みつける直後には、さも楽しげに口角を引き上げた。いやな顔だ。
「てめぇ、なんてツラしてやがる」
 顎先でゾロを示す。
 鼻先でせせら笑う男の顔つきは、いつもの柄の悪いものだ。先刻までゾロの意識を奪っていた表情は欠片もない。それがゾロを安堵させた。
 無視して酒が並々と注がれたゴブレットを飲み干す。
 それには頓着せず、サンジは無駄に長い脚を組み、美味そうに紫煙を辺りに撒き散らした。
 蒼い双眸は、きっちりゾロに固定している。いつもの喧嘩の始まりにも似ている。相手をしないと、嫌味ったらしい態度のまま、ゾロの神経を苛立たせることに全力を注いでくれるだろう。
 困ったことだが、これがサンジのひねくれた愛情表現だ。諦めるしかない。

「どんなんだって?」
「おいおい、自覚なしかよ」
 適当にあしらおうと思うのだが、上手くはできない。むしろ、嬉しそうにされた。
 サンジに乗せられてやるのも、けっこう疲れるものだとゾロは思う。
 対して、サンジはゾロが反応してきたのが面白くてならない。
「いやらしい目つきしてるぜ?」
 なので、思いっきりに言ってやる。意図的に、唇にかすかに残るソースの香りを舌先で舐め取れば、ゾロの剣呑な目つきはいっそうに凄みを増す。
 こんなに楽しい展開を、見逃すなんてことできるはずがない。
 船の上であれば、たぶんゾロは切れた。馬鹿にする態度に出ると、必ずゾロは怒る
 短気で好戦的な剣士は、サンジが売りつける喧嘩は片っ端から買い捲る男だ。だが、こんな夜だけは違う。何故かゾロは困り果てたように、そっぽを向いてしまう。
 面白くもあり、すこしばかり物足りなくもある。
 どうして、ゾロは上陸して二人で食事をすると、こんなにも初心なガキみたいになるのか。
 そのくせに、二人きりになった途端にサンジに喰らいついてくる。多少の痛みを肌に感じて蹴り上げても、気にせずに劣情をぶつけてくる。ギャップが可愛らしいゾロを、サンジは気に入っている。

 弱い明かりを弾く青い目の奥が楽しげにゆれていた。
「がっついてるんじゃねえぞ、クソミドリ。ココがどこだか分ってんだろうな、ああ?」
 嫌味ったらしく煙を吐き出し、これだからケモノは困る。そうまで言う。
 分かっていないのはサンジだ。
 理不尽な怒りが湧き起こり、次には言っても無駄だと諦めが怒りに蓋をする。人離れした重量の鉄棒でも持てるゾロの両肩に、ずっしり疲れがめり込むのを感じた。

 サンジは全く気付いていない。
 ソースの香りを味わい、楽しむ表情がどれほどに危ういかなんて、分かっていない。

 コックの金髪の頭の中では、ソースが出来上がるまでの過程が、逆戻しのフィルムのように流れている。火加減に始まり、順番に入る食材の隠し味までもサンジは一発で見抜く。
 元来、料理に従事しているものたちは安易にはレシピ外に出さない。どうしてもその味が欲しければ、強引に盗み出すしかないのは鉄則だ。
 分かっている。ゾロも承知している。
 だが、先刻までのサンジの顔つきはどうだ。
 調理法にすっかり意識が奪われて、どこか恍惚とさえしていた。
 咀嚼する唇が、ぼんやりした灯りの中で淫猥だった。
 宙に浮かせた視線の色が、ひどく艶めいていた。僅かな光を跳ね返す豪奢な金糸に縁取られたサンジは綺麗だった。
 男の劣情をたまらなく煽りたてる存在だ。
 ゆらりと視線が揺らぐ気配すら腰にクる。向かい合って座っている、簡素なテーブルなんぞひっくり返し、シャツから覗く首筋に噛み付きたくなる。そして、そう思うのは何もゾロだけでもない。
 灯りよりも、暗さが目立つ店内だからなのか。いつもは物騒な空気を振りまく二人に、大概の人間は目を逸らすのに。
 今夜はそんな空気すら薄められているらしい。
 それが証拠に、ゾロの視野に入った数人かは、サンジを明らか凝視していた。値踏みをする目つきが、スーツに包まれたサンジの引き締まりすぎた腰や、見た目の優男ぶりにひきつけられている。
 
 コックの本能とサンジの料理にかける情熱が、レシピを探り出そうとしているだけなのだが。 
 そんなときのサンジは強烈にセクシュアリティな匂いがする。
 優男といっても、女に間違われるような面構えではない。体つきだって、ごつごつとして到底、滑らかなラインを描く女たちとは違う。立ち居振る舞いとて、けっこう粗雑であったりするのに。
 男の欲情をどうしようもなく刺激する。
 あまりにサンジは男らしすぎる。男っぽすぎて、女には決して保持できない色が纏いついている。強く男性的な波動を放っているというのに、逆にその強さが妙な色香まで呼び込んでいる。
 この男を組み敷いて喘がせてやりたいと。腕に自信のある者ならば、一度ならずとも思わせる匂いがする。
 半端でない艶が、ふとした弾みで零れ落ちる。

 男の目からすれば、これほど征服欲を煽る存在も珍しい。そのくせに強さも半端でない。余計にそそられる存在だ。
 しかしサンジ本人は、男たちに嘗め回すように見られていても、その理由が分かっていない。凶悪熾烈なコックの言い分では、全員が喧嘩を売りつけているになる。
 天然なのかボケているのか、単に鈍いのか。
 おそらくはその全部だ。差し向けられる欲情の視線を“挑戦”と変換したコックは、あまさず不埒な連中を秒殺で蹴り倒して生きている。
 ゾロは運がいい。サンジが気紛れであっても、剣士の欲だけは敏感かつ正確に受け止めている。ゾロが同行するのは、単に高いレストランでは酒が思うように飲めないのと。
 自分に惚れているからだと処理されている。
 それは、存外に鈍感なサンジにしては、奇跡的な正しさだった。

 いやらしい目つきだと、そのサンジに指摘された。
 そりゃなるだろう。あんな顔を見せられて、誰が黙っていられるのか。
 店中の男どもがサンジを見ている。数人の男は、スーツの下にある裸体を思い、舌なめずりしそうな勢いだ。それがゾロの癇に障る。
 タバコを持つ手が、灰皿へ伸びていた。満足に笑っているサンジは、まさか性的な視線を浴びているとは思ってもいないのだろう。神経質に煩いようで、無神経なところもあるサンジらしい。
 逆に、普段は朴念仁の名を冠せられている剣士は、得意な風情のコックに神経質になる。
 あの男も、この男も。店の隅のテーブルでカードをしている男たちも。全員が許せない。
 このクソ生意気なコックを振り向かせるだけでも、どれほど自分が苦労したことか。生半可には触れさせない男を腕にするに、いかほどの忍耐が必要だったか。
 ゾロひとりが、多大に骨折った日々が、怒りと共に鮮明に浮かび上がる。
 簡単になびくような男じゃない。
 だが、なびかせれば、どれほどに魅惑的な顔を晒すかをゾロは知っている。
 肉体的な関係しか接点がない自分たちであっても、時間をかけていけば鈍いサンジにだっていつかは通じるものだろう。
 ゾロは長期戦を覚悟している。待つのは苦手じゃない。妙なところで人間不信のコックであるからこそ、落とし甲斐もある。
 今のところ、サンジがもっとも近くまで接近を許しているのはゾロしかいない。
 そんな特別の位置を見せ付けたい。唐突に思った。
 ガキの独占欲だ。構うものか。
 
 視線を戻した先でサンジがゾロだけを見ている。
「まだ腹減っているような顔しているぜ?」
 飽食したネコに似た笑いだ。至極満足そうにしながら、サンジはまた鼻先で笑う。
 ナニを指しての空腹か。
 分っていてわざと言っている。
 ゾロが晒す餓えた色に、サンジは敏感だった。言い換えれば、ゾロにしか勘が働かない。
 性的な色合いを濃くして笑うサンジは、意地の悪い性悪な目つきをする。そう思った。
「ああ、そうだな」
 灰皿から口元へ。
 往復する指先に目が引き寄せられる。
 言い返しもせず、同意したゾロに少しだけサンジの顔に疑問が浮かんだ。片側の眉を引き上げ、探る目つきでゾロを見る。
 それほど灰が長くないタバコが、小刻みに灰皿へ延びていく。
 唐突にゾロは手を伸ばし、サンジの手指からタバコを抜き取った。少しばかり指先に熱さが走ったが、気にならない。
 いきなりのゾロの動きに、瞬間、動きを止めた。
 呆気に取られているサンジに目線を固定し、ゾロは取り上げたタバコを深々と吸い込む。
 キツイ紫煙は、肺に染みて溶けていく。たゆたう蒼の煙は、サンジに似ていた。口にしたフィルターに、サンジの歯型がうっすらとある。
 口付けるようにフィルターに唇を寄せて、ゾロはにやりと笑った。
「腹が減って、死にそうだぜ。サンジ」
 言ってやると、淡い光の中で、サンジはゾロとそっくりの笑い方をする。
 テーブルの下で足を組んだままの革靴の先が、がつんと椅子を蹴る。
 空になった皿が、かすかに悲鳴を上げて抗議した。





ZORO.ver 




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