キッチンに行くと、サンジが眠っていた。
 テーブルに片腕を長く伸ばした上に頭を乗せて、すっかり熟睡している。ゾロが近づいても、人の気配には半端でなく神経質な男が起きる気配もない。
 どうしたものだろう。
 しばらくゾロは困り果てた。
 酒をくすねるためにサンジと激突する心積もりでやってきた。
 それなのに、サンジは寝入っている。
 これで要らない体力を削がないでも済んだのだが、完全にバトルモードでいたゾロは、とても物足りない気分になった。遊ぶ約束が反故にされて、気落ちした子供の心境だ。
 面白くない。頭のどこかで、そう思う自分がいる。
 反対側では、コレはどうすりゃいいんだと。腕組みして眉間に皺を寄せて、真剣に考えている。
 酒を持っていくはずだった当初の目的も、眠る男を前に完全に消し飛んでいた。

「おい、サンジ」
 試しに肩の辺りを揺すってみた。
 ふっと目は開いたが、焦点が合ってない。
 こりゃ駄目だな。
 ゾロが思う間もなく、サンジは蕩けるように瞼を下ろし眠りに戻る。
 疲れているだろうと思う。
 この船は、人数の割りにエンゲル係数がべらぼうに高い。料理人にとっては、過酷な仕事場だ。
 眠いのなら寝かせておくに限る。サンジなら、朝までココに置いといても大丈夫だ。
 見た目は単なる小奇麗な顔した優男だが、なかなかどうして頑丈な体の造りをしている。
 比較すればゾロよりもルフィより、サンジには体力がある。
 口の悪いサンジは、底無しの体力を持つ船長にはバケモノと言い、ゾロには筋肉体力馬鹿と言う。しかし、本当にバケモノで馬鹿はサンジだ。こっそりと、ゾロは思っている。
 
 毎食の料理の量だけでも、二十人分くらいある。主にはルフィに食われるが、全部が全部、船長の胃袋に納まるわけじゃない。年齢が若い海賊団の乗員は、そろいも揃って健啖家ばかりだ。
 女のナミにしても、あれで普通の女の二倍量はぺろりと平らげている。ルフィの凄さに隠れて見えないだけで、島で食事でもすれば、ナミがいかに食べる女かが良くわかる。
 それだけの量の食事を毎日三回。殆ど欠かさず作り続ける。
 簡単なようだが、とんでもない重労働だ。
 しかも、サンジの担当分野はコックだけで終わらない。
 主翼戦闘要員としても充分に役割を担っている。そうかと思えば、仲間の出入りの激しいキッチンを居心地いいように整えていたり、使った食器や調理器具を片付けたり。デザートを作り、スパイスを調合し。いつの間にか紛失する食料の在庫チェックを毎日しつつ、新しいレシピを生み出し、仲間たちの話も聞いてやったりもする。
 いったいどこで、サンジは休む時間を取っているのか。コックが休憩する姿は、思い返せば日常生活のどこにもない。
 疲れないほうがどうにかしている。
 ゾロが眠っていても、仲間たちが寛いでいても。コックの仕事は山積みされていて、それを手伝わす考えもサンジにはない。ときどきは、ルフィやウソップを使っているが、それすら盗み食いの罰だ。
 基本的に、GM号の料理人は全部の仕事を一人で切り盛りしている。
 サンジが休む間は、無いに等しい。
 到達した結論に、ゾロの眉間の皺はますます深くなっていった。
 すうすう寝息を立て、随分とガキっぽい顔つきを晒しているサンジだが、その顔色には疲労が濃い。
 どうせ眠るなら身体を伸ばした方がいいだろう。
 思って、また揺すり起こそうとしたゾロだったが、目にした疲れた顔色が不憫に思えた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・チッ」
 舌打ちして、バリバリ意味も無く頭を掻いて。
 うろうろ視線まで彷徨わせた揚句、ゾロは魂が抜けるほど溜息をついた。
 放置しておけばいい。分っている。分っているが、どうにもそうしたくない。
 このまま置いておけば、数十分でサンジは目を覚ます。本人もそのつもりで、寝苦しい体勢で眠っているのだろう。目覚めれば、細々した雑事を片付けるつもりでいる。
 こんなに疲れているのに気付けもしない。他人のことは良く見えていても、自分のことは欠片も労わってやらない。口では自分に甘く、他人にキツイ男に取れる。女ばかりが大切で、サンジにとって男の価値観はゼロだとまで公言して憚らない。
 その割に、男だろうがサンジは助ける。自分の身体を呈してでも、あっさりとソレを為す。

 だからゾロは腹が立つ。サンジ相手に苛立ちが募る。

 整頓され尽したキッチンをぐるりと見回してみても、ゾロには何が残された仕事なのか見当もつかない。雑然とした場所が多いGM号で、唯一、規則正しく整えられている室内は、いっそ冷たいまでの印象を残しかねない。
 毎日、使われているとは思えないほど、どこもかしこも物が無い。
 昼間にはあれほどあった調理器具やスパイスの瓶。個人の私物は姿を消して、硬質な印象が強い。
 がらんとしたキッチンは、よそよそしく近づき難い雰囲気だ。
 この部屋を活気付かせるサンジがいなければ、こんなにも冷たく硬い場所になるのかと。
 ゾロは改めて見回した室内に、ぞくりと背筋に寒気を伝わせた。

 サンジが居なくなる。
 誰よりも頑丈で底力もあり、簡単には命を落とすような男ではない。
 馬鹿げた危惧だと頭では理解しているのに、唐突に目の前に広がる寒々しい光景がゾロに怖さを感じさせた。
 手を伸ばしたそこには、眠るサンジが居るというのに、覚えた不安は簡単には消えなかった。
「サンジ」
 喉に声が絡みつき、掠れた音で名前を呼ぶ。
 腕を伸ばし、かなり乱暴な動作でもって深い眠りを貪る男を引き寄せていた。
「・・・・・・・・ん・・・・ぅ・・・・」
「おい、起きろ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ゾロ・・・・?」
 ぼんやり目覚め、舌足らずな口調が胸元であった。
 あからさまに安堵したゾロの顔つきに、目覚めたばかりのサンジが訝しげにする。
「どしたよ、てめぇ泣きそうなツラしてんぞ」
 半ば以上は眠りに居るらしく、精彩に欠ける笑いを滲ませる。力が抜けた片手が持ち上がり、ゾロの頭をゆるく抱き締めた。
「大丈夫だ。何も心配するんじゃねえ」
「おまえ、まだ寝惚けてんな」
「うん?・・・・・・・・・うん」
「どっちなんだよ、まったく・・・・」
 殆ど応えになっていない返答に苦笑が漏れた。
 それでも、子供に対するように頭をぽんぽんと撫でる手は、痛いほど優しかった。
 たったそれだけで、発作的だった不安が消えていく。
 どす黒く広がっていた感情が、穏やかなものに取って代わる。
 
 まったくとんでもない男だ。
 意識もしないで寄越される労わりは、簡単に複雑に絡んだ気持ちを解してしまっている。
 よくも寝惚けながらも、そんな器用な真似ができるものだ。
 
 ゾロの懐に具合良く納まり、サンジは既に眠りに戻っている。
 ときどき、思い出したように掌が頭を撫でる。
「さっさと寝ちまえ、アホ」
 子供扱いをされて非常に悔しいのに、胸が騒ぐほど嬉しい。
 素直になるには、難しすぎる状況に憎まれ口を叩くと、聞こえたのか短い髪を強く引っ張る。
 いてぇだろと文句を言えば、満足したらしくズルズル指が滑っていった。
 

 俺は・・・・何してんだろうな・・・・・
 
 目的だった酒も飲まず、床から丸窓越しの夜空を見上げ、ゾロは嘆息した。
 あれから、どんなに揺さぶろうがサンジは目覚めない。椅子の上で長身の男を支える無理を感じて、安定のある床へ移動する際に明かりを落としたキッチンで、ゾロはサンジを抱いたままだ。
 穏やかな夜の波に、船は柔らかに揺れている。
 月明かりに浮かぶテーブルや椅子、薄い月光を鈍く反射させる酒瓶に順々に目線を転じる。
 やがて落ちた視線の先は、ゾロの腕に囲われたサンジに戻る。
 長いコックの腕はゾロの腰に回され、添う身体は温かい。近い距離からは、タバコとスパイスと料理の匂いがした。
 そして、同じ匂いは暗い室内の空気にも分散している。
 仄かに暖かい温度が、ゾロの肌に触れている。
 無機質に見えたキッチンは、明かりを落とせばサンジとそっくりにゾロを包んでいる。
 
 ありふれた夜なのに、なんということも無い日だったのに。
 こんな些細な物事が幸せに思えた。
 腕にしている温もりが、なんとも大切すぎて離せなかった。
 忘れられない夜になりそうだった。
 忘れてはいけないと強く思った。
 サンジを胸に抱き締めながら、理由もなく滲む涙を誤魔化すために、きつく目を閉じた。
 今夜は眠れそうになかった。
 


                                                       END




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