理由なんて、ない。
朝の夢見が悪かった。ルージュのラインがきれいに引けなかった。 ほんとうに、些細なことでしかない。 理由にもなりゃしない。 だけど、そのときのアタシは、確かに機嫌が悪かった。世界のすべてに敵意を持たれ、取り囲まれてい るような、そんな殺伐とした気持ちがよけいにアタシの神経を、とげとげしく鋭くさせた。 半ばの期待と、できれば居ないでほしい願いを微かにしてキッチンのドアを開いたとき。 アタシの感情の底辺には、ないまぜになってドロついた掴み難いもので溢れていた。 ドアを開くときに流れ出す気流からは、料理のにおいよりも、タバコのツン・・・とした匂いが先に判別できた。 キッチンは、サンジくんが吸うタバコ匂いが染み付いて。彼が作り出す料理よりも、深く馴染みのあるものになってしまっている。 朝早くから夜遅くまで、サンジ君が働いてくれているのを知ってる。ルフィのむちゃくちゃな要求に文句をつけても、期待を裏切ったことはない。 アタシ自身でも呆れるワガママに対しては、そうするのが至上の幸福とでも言いたげに、とても優しい目と顔でもって、即座に応えてくれる。 甘やかしと優雅な仕草がいやになるほど板についた、バラティエからきたコック。 彼がどうやってこの船に乗ったのかは知らないけれど、殆ど素性も分からない男がアーロンパークで見せた戦い方は、とても他人事に首を突っ込んだ人間とは思えないものだった。 傷ついたゾロを庇い、アーロンの水鉄砲を痩身に喰らってなお、前に進もうとする彼の行動は、正気の沙汰とは思えないものがあった。 自己犠牲を厭わない男の背が、遠い誰かと繋がって。見ていられなかった。 仲間になって、まだ日も浅く、本当は何を考えているのかつかみ所がない存在。 とてつもなく優しげでいるくせに、ときおり瞳の奥に不穏な光を覗かせている。 強烈なテリトリー意識。 サンジ君の行動の発端は、すべてがそこに帰している。 ルフィたちとは全く異なる性質のソレは、なぜか悲壮感すら漂わせて。 アタシは、気に入らなかった。 人を甘やかそうとするところも。すべてを知っているような態度も。 その口調の優しさや、どんなときでもアタシの声に振り向いて笑うところ。 真夜中まで明かりが消えないキッチン。自分が口にするものがなくなっているときでさえ、当然として供される飲食のすべて。 彼が吸うタバコにさえ憎らしさを覚えるときがある。 いっそ、このまま消えてほしい。願ったことは数知れない。 そうして、反面では。彼が本当に居なくなれば、どれほど寂しく思うかを知っている。 アタシはサンジくんが大好きだけど、大嫌いだ。 あの人は、アタシが誰にも触れさせたくない気持ちに気付く。それと知っていながら、スマートに目を逸らし、知らない態度で笑ったりする。 それは度々じゃあないけれど。 ウソを見抜かれた子供のような、いたたまれない気持ちをアタシに呼び起こす。 いまだってほら。 「おはようナミさん・・・・・・・・。どうしたの?」 振り返ると同時に、サンジくんがアタシを見る目の彩が、包み込むものに変わっていく。 なにもかも、アタシの全部を見透かしているような顔で、どうして笑うのよ。 ムカつく、ムカつく、ムカつく!! アンタなんかに何が分かるって言うの。 キッチンの窓から差し込む、明け方の弱々しい陽光を受けて、薄くなった蒼い目の色から、きらきらと光る細い髪までもが、アタシの神経をかき乱す。 「うるさいわね!」 八つ当たりだ。 分かってる。自分でも何にいらだっているのか分からない。 そんな感情の塊を持て余しているだけなのに。 爆発した感情は行き場を目の前の男に向けていた。 「顔色が悪いよ。さ、早く座っ・・・・・・・」 「馬鹿にしないでよ!」 「・・・・・・・・・・・・・・ッ!!」 ヒステリックな声を上げたアタシは、発作的にサンジ君を殴っていた。 テーブルの端に積み上げられた皿が、ガシャンと鳴った。 椅子は大きく響いて床へ横倒しになる。 「ナ、ナミさん・・・・・」 おどろいただろう。 突然に理由もなく殴られて、さぞかし僅かの間に頭をフルに回転させたことだろう。 怒ればいい。 ゾロみたいに声を荒げ、今にも掴みかかってくる勢いでいてくれれば、アタシはもっとすっきりできた。 ウソップでも、謂われない暴力に対してはちゃんと抗議することを知っている。 なのに・・・・。 顔を上げたサンジ君の唇は、アタシが嵌めていた指輪の飾りで切れていた。 きっと、今日一日はタバコを吸うときだって痛むだろう。 指を口元に当てて、血の色を見て。 「手、痛くなかった?」 発する言葉には、欺瞞の欠片も含まれていない。 見下ろす視線の色の暖かさは、どこまでも深い。 どうして、避けないの?どうして、詰らないの? サンジ君の反射神経は、信じられないくらいにいい。 アタシの拳なんて、避けようと思えば簡単に避けられるのに・・・・。 「ごめんね」 悪くないじゃない。 悪いのはアタシなのに、どうしてそこで謝るの? きれいにセッティングされたテーブルを、ぐちゃぐちゃにしたくなる。 この人が悲しそうな顔をするのを見るのは嫌いなのに、深く傷ついた顔を見たくなる。 いつもそうだ。 サンジ君は、アタシを苛立たせる。 そのくせに、アタシを落ち着かせもする。 泣いてしまいたい。 「ナ、ナミさん。ごめん、大丈夫?」 「アンタなんて、大嫌い!」 「ナミさん!」 追いかけてこようとするサンジ君を無視して、思い切りにドアを叩きつけて閉める。 呆然とするサンジ君の顔は、アタシが見たかった傷ついた顔をしてた。 でも、少しも気持ちは晴れなかった。 それどころか、ずっしりと重量のある鉛でも呑んだみたいに、嫌な感覚ばかりが残る。 血の色に濡れていたサンジ君の唇は、色素が元々が薄い人だけに、いっそどきつく赫くみえた。 はっきりとした唇が、ルージュを引いたみたいに、きれいで艶があった。 悪いのはアタシだ。 サンジ君は悪くない。 こんな女を無垢な少女みたいに甘やかそうとしたり、全部を受け止めようとする。 悪いのは、サンジ君だ。 恋人なんかじゃなく。 口で言うほど、アタシと恋愛関係になろうともしないズルイ男。 アタシとサンジ君は、そういった関係には絶対ならない。 はっきり言葉にしたわけじゃないけれど。態度にも示したわけでもないけれど。 互いにそうと知っている。 アタシは絶対にサンジ君の手を取らないし、サンジ君はアタシを抱きしめるのに下心のひとつも持っていない。 それでも、サンジ君はアタシを誰よりも大事にする。 彼が恋人と呼んでもいいような関係を結んだ男に向ける気持ちよりも、ずっとずっと大事にされている。 考えてみれば、あいつもアイツよ。 どうして、サンジ君にソレを許すわけ? アタシがこんな気持ちになるのも、アイツがちゃんとしていたらいいことじゃないの? 腹立ち紛れに上った見張り台の中には、ゾロがいた。 「狭いじゃない!退いてよ!」 「キャンキャン煩せぇ女だな。狭いってんならテメェが降りろ!最初にここに居たのは俺じゃねえか!」 「アタシは今、もーれつに気分が悪いのっ!こんなときくらい譲りなさいよ!!」 噛み付くには、あまりにも歯ごたえがありすぎる男だけど。 サンジ君よりを相手にするより、ずっとマシだ。 ゾロは、性別で扱いや態度を変えないし。アタシを特別視もしない。 どんな気持ちをぶつけても、世界が自分中心でいるゾロには、かすり傷ひとつも付けられない。 傲慢で、鼻持ちなら無い男だけど。 嫌いじゃない。むしろ好感が持てる。 だって、ゾロは少しも気を使ってなんかくれないし。優しい言葉だってかけてくれない。 ひとつ距離を置いた関係を、この男は誰とでも築いている。 ああ、だからサンジ君はゾロがいいのか。 思って、また嫌な気分が戻ってくる。 舌の上に硬質な味が広がって、それが罪悪感というものだとアタシは知っている。 アタシの表情が変わったのをゾロは気付いたらしい。 鼻先で馬鹿にした笑いをひとつ飛ばし、大事な刀を愛しく抱えた。 「ナニ?」 「いーや、なんでも?」 「言いたい事があるなら、言えば?」 尖ってくる口調をゾロが流す。 そして、流したまま視線をキッチンへ向け、次にはアタシを振り仰ぎ。 にや、と笑った。 「で、殴られたわけだな、ヤツは・・・・」 見透かした口調は、アタシと同等に棘をたっぷり含んでいる。 少しは・・・・労わるってことをやってみれば? 「そうよ、悪い?」 「いいんじゃねえか?」 あっさり軽い返答。それがゾロの遣り方だ。 ゾロはめったに人を寄りかからせてやろうとしない。 潔い男だ。 潔すぎて、不気味に感じることもある。 そんな男が、サンジ君を想って笑う。 面白そうに笑う目尻には、薄く皺が浮き出ている。 幸せそうで。 いいわね、あんたは。 キッチンを見下ろして、緩く笑うゾロに嫉妬する。 「で、どうだった」 「な、なにが・・・・・」 突然に話題をゾロから振られる。珍しい現象に思わず声が上ずった。 アタシに構わず、顎先でキッチン方向を示して見せて。 「少しは気が晴れたかよ」 「晴れてたら、こんなところでアンタと顔を突き合わせてないわ」 「そりゃそうだ」 言ったきり、ゾロは黙る。 さっさと降りればいいのに、サンジ君が呼ぶまで動く気はないらしい。 互いにそっぽを向いて、意地でも退こうとしない。 黙りきったまま、波の音と風の音を受け入れる。 さっきまでの尖った気持ちは、だんだんと柔らかくほぐされて。 形を変える雲を飽きもせずに目で追う。 ああ、今日も天候は安定している。 まだ東の空に低い位置にある太陽は、薄っぺらく頼りないけれど、穏やかな温もりがじんわり肌を染めていった。 あと数時間もすれば、カンッとした独特の輝きを取り戻していく確実さに安心する。 ぼんやり光る海を眺めていると、キッチンのドアが開く音がした。 首を伸ばすと、下からサンジ君がこっちを見上げている。 まだ、ルフィたちは起きていない。 いつもなら、食事のいい匂いが漂う頃で、それを合図に男たちが目を覚ますのに、今日は少しだけ違うということは。 やっぱりサンジ君はアタシを気遣っているからだ。 昇ろうか、どうしようか。 逡巡しているサンジ君の表情は、まだ僅かに痛みの余韻を引いている。 横でゾロがこちらを睨みつける気配があって。 サンジ君、大事にされているじゃない。 思ったら、なんだか笑えてきた。 片意地を張っているなんて、アタシは愚かだ。 そんな子供っぽい真似をしていても、何も変わっていきはしない。 とても素直になんてなれないけれど。 アタシが仕出かしたことは、誉められたもんじゃない。 自分の苛立ちをねじ伏せて、アタシはサンジ君をもう一度見下ろした。 「サンジ君」 「はい、なんでしょう」 丁寧な、ていねいな口調と眼差し。 まぶしそうに目を細めて、焦点を合わそうとする顔は、ちょっと色気があって胸が鳴る。 「あのね、今日のアタシの食事、ココで食べることにしたから」 「じゃあ、バスケットに入れてお持ちしましょう」 最後まで言わないでも、聡い料理人はにっこりと笑って応じてくれる。 朝食をバスケットに詰め込むのは、それなりに手間が要る。 なのに、嫌な顔ひとつもせずに、さも当然みたいに軽い足取りで姿を消すサンジ君に、ゾロが不機嫌に強く息を吐き出した。 アンタ、少しも相手にされなかったものね。 視線ひとつも、もらえなかったじゃない。 優越感がひたひたと満ちてくる。 サンジ君が来てから、ゾロを出し抜ける機会は多くなった。 いろいろと不平不満はあるけれど、唯一、どんなときでもサンジ君が来て良かったと変わらずに思える点だ。 「てめぇ、いい加減にしとけよ」 「あら、サンジ君はアタシには甘いのよ。羨ましかったら可愛くなってみれば?」 ふふん、と笑うとゾロの口元がむっと歪んだ。 面白い。アンタ、小さな子供みたいだわ。 アタシも、子供みたいよね。 開き直ったら、わだかまっていた塊は、全部が溶けて消えていた。 ルフィたちが起き出したら、アタシの特別扱いを見て自分もやりたいと言い出すんだろう。 サンジ君は文句を言いながらでも、手だけは動いてルフィたちの食事も詰めていく。 きっと今日は船のあちこちで、ピクニック気分でバスケットやリュックを広げての食事風景が見られることだろう。サンジ君は、どうしてとボヤキながら。いつものタバコ姿で皆の間を歩き回り、飲み物を置きながら、満足そうに笑うんだろう。 そんな平和ぼけした下らない遊びに癒される。 もうすぐ、楽しそうにサンジ君がバスケット片手にして上ってくる。 そうしたら、ちゃんと謝ろう。 ごめんねって素直になろう。 アーロンから解き放たれて、初めてアタシは自由を手に入れた。 慣れない感覚は、しばしばアタシの心から落ち着きを失わせるけれど、いつかは眩暈がしそうな自由という大らかな感覚にも戸惑ったりはしなくなる。 まだ馬鹿げた意地悪や捻じ曲がった甘え方しかできないけれど。 それをサンジ君は受け止めてくれている。 ごめんと謝れば、サンジ君はどういたしましてなんて。 会話にもなってない受け答えで、嬉しそうに笑ってまた甘やかす。 サンジ君はそういう人だ。 ワガママばかりを言い続けるアタシを、最後まで笑って抱きしめてくれた人を彷彿とさせる豊かな感性でもって、発作的に不安になるアタシを気遣ってくれている。 そして、アタシは気付いた。 どうしてサンジ君が嫌いだなんて思うのか、なんだかやっと分かってきた。 ベルメールさんに似ているんだわ。 遅すぎた大好きの言葉は、まだ宙に浮いていて。 行き場のない思いは、すべからくサンジ君にぶつけられている。 彼にベルメールさんを重ねるなんて、きっと聞かせたら複雑な顔をするんだろう。 それでも、サンジ君は笑って『ありがとう』なんて言っちゃうんだわ。 ごめんね、サンジ君。 アタシはやっぱりアナタに甘えている。 ベルメールさんを思わせるアナタに、アタシはまだ慣れないけれど。 近いうちに、こんな不安定な感覚なんて乗り切って見せてあげるわ。 上機嫌になっていくアタシの隣では、今度はゾロが不機嫌になっていく。 アンタもどうせ後でサンジ君に、トクベツなやり方で甘やかしてもらうんでしょ。 胸の内側でこっそり呟いて、アタシは上ってきたサンジ君に笑って手を振った。 |