バラティエから遠ざかるサンジの船を、ゼフは感慨深げに見送った。共に地獄の島から生還し、極限までの飢餓を知る男は、漸く自分の夢に向かって旅立つことができた。
サンジと二人きりで海上レストランを始めてから10年。 その間、常にゼフの心中を占めていた昏い霧が、綺麗に払拭された日でもあった。口が悪く、喧嘩っ早く、海賊に半生を育てられたも同然のサンジは、海に出る前から既に海賊と変らぬ性分と強い精神を持っていた。彼ならいつかは夢をつかめるだろう。 煩いチビがいなくなったバラティエは、毎日の喧騒がウソのようにぽっかりと大きな穴が空き、早くもサンジの代わりを埋める様な静寂だけが残されていた。 「オーナー・ゼフ。いつでもバラティエは動かせます」 ついに芥子粒ほどであった船も水平線に消えてなくなった頃、コックの一人が壊れたオーナールームのドアを叩いた。 ドン・クリークとの激戦を終えた直後から、バラティエは突貫工事で船の修理を行っていた。 荒らされたレストランルームと壊れた舵や帆を、彼らは料理を作るのと同じ情熱で持って修理にあたったのだ。 薄汚れた衣服と隈の浮いた顔付きをしたコックは、ここ数日眠っていないのが分かるほど憔悴していながら、その瞳だけは奇妙に嬉しさを見せている。 「よし、すぐさま出航しろ!」 ゼフの怒声がレストラン中に響き渡り、船の舳先がゆっくりと反転していく。 ちらりと見遣った海上のはるか彼方には、サンジの船が戻ってくる様子も無い。 良かった・・・・・。 ゼフだけでなく、レストランの頑強な料理人たちは全員がそう思った。 奇しくも彼らはゼフが背後を振り向いた時を同じくして、サンジが消えた方向へ目を遣っていたのだ。 これでもう、夜な夜な貞操の危機に怯えることはなくなった。 風呂に入るときも、服を脱ぐより先にシャワールームを隈なく調べたり、下着を着けてシャワーを浴びないでも大丈夫なのだ。 夜の甲板では絶対に三人で行動する必要もなく、ゴミ出しの折に周囲をびくびくと警戒しないでも良くなった。ベッドの下に隠れずに、堂々とシーツの上で眠れる。 サンジの部屋に足を踏み入れたゼフは、そこに残された煙草の残り香を感じながら、蒼いストライプのベッドカバーが掛けられた寝台に、どっかり腰を降ろした。 こうしていると、サンジとの思い出が走馬灯のように蘇ってくる。 まだ幼かったサンジは口を開かせれば汚い言葉を飛び出させ、蹴り技を覚えては挑み掛かってくるようなガキだった。 子供なんぞ、どう扱って良いのかも知らないゼフには、生意気だが、子供らしからぬサンジはそれなりに扱いやすかった。 料理を褒めてやったり、悪戯を仕掛けて成功した時に見せる笑いは年相応の明るさがあった。 思いがけない表情が、可愛らしいと思ったことも多々あった。 それが思春期を過ぎたころからゼフにとって、いやバラティエに流れ着いたコックたちにとって、サンジは恐怖の対象となっていた。 細身で優男の外見のサンジは、男にも女にもモテる若者に成長していったが。 モラルなるものが低い連中が、幼年期にうようよしていたのがいけなかったらしい。 おかげで、性に目覚める年齢に成長した頃には、サンジの性欲は立派に歪んでしまっていた。 女が少ない海の上では男同士での性欲処理など珍しくも無い。 男が男に惚れるのも良くある話だ。しかも、サンジは女だけでなく、男からしても上玉に見られる容貌と身体つきをしている。 下世話な話だが、ゼフは馴染みの客の中には、サンジの身体の虜になった者たちも多くいた。 当然、ゼフとしても状況を把握していたが。男女の区別なくそれらの項目に関しては黙殺していた。 ゼフは口で言うほどサンジを子供と認識していなかった。 彼がサンジをチビナス呼ばわりするのは、半ば愛称でもあり、半ばは自分の脚に悔恨を感じて雁字搦めにされている姿が子供だと侮蔑を篭めてもいた。 だからゼフとしては、サンジが誰と寝ようとも関心は無かったし、どうでも良かった。 ゼフとて海賊だった頃には部下たちに惚れられ、今はコックたちに惚れられている自負くらいある。 だが、それらが即座に肉体関係に結びつくかと聞かれれば・・・。別問題だ。 サンジが男とまで寝れる感性を備えているのは、彼が海の男たちの中で育ってきたのもいけなかったのかもしれない。 三つ子の魂百までの例え通りに、以前からそう言った素質はあったのだろう。 またサンジが女だけでなく、男とも寝ているのは周知の事実であったが、ゼフは気にもしなかったのも不味かったらしい。 何を思ったのか、サンジはゼフも男がいける口だと勘違いをした。 ゼフの名誉の為に断定するが、赫足のゼフは海上に長く航海する男でありながら、男経験ゼロの貴重な存在であった。 しかし、いくら男に懸想しなかったからと言っても、世間は大抵の場合、サンジが迫る構図になればサンジがゼフの下と思う。 だが、事実は異なっていた。 サンジ本人はタチでもネコでも良いらしい。それは本人がゼフに堂々と延べたので明らかである。 問題があったのは、サンジの迷惑極まりない性癖だ。 彼はノンケばかりのバラティエで唯一、男がOKな人物であるだけでなく。 自分よりもずっと年上の男たちを抱きたい・喘がせたい願望を抱く、所謂『ふけ専』であったのだ。 眠っていたゼフの上から圧し掛かり、『サセてくれ、じじい』などと囁かれた恐怖の体験は、その後ゼフを長く苦しめた。 風呂に入っていたパティの背後から近付き、分厚いガタイを羽外交めにして、『挿れさせろっ!』と迫り、ぶっ飛んできたゼフの痛恨の蹴りによって阻止されたり。 夜の甲板で涼んでいたカルネの首に腕を巻きつけ『天国を見せてやるぜ』と服を毟りとった。 泳ぎが得意であったカルネが自力でサンジの腕から脱出し。全裸で海に飛び込みして、強姦が未遂に終った。 その恐ろしい経緯を知らない者はいない。 老けていて、ガタイがいい男たちは、全てサンジの洗礼を一度は浴びており、掘られた者もいる。 サンジがギンに優しくしているときに。コックたちは皆でギンの無事を祈った。 ギンが連れ帰ってきたドン・クリークの体格の良さに、男の操が守られることだけを思った。 コックたちの純真な祈りが通じたのか。 辛くも死闘となって、ギンとクリークのバックは守られた。 そして、安堵したのもつかの間。 欲求不満のサンジの矛先がどこへ向かうかを、ようやくに思い出しパニックになった。 とりあえず、今は負傷の痛みが引かず、ばっきばきにした肋骨が繋がるまで大人しくしているより他ない。鎖に繋がれている狂犬よろしく、本性を隠してうずくまっているサンジだが。 いつその押さえ込んでいる性欲が爆発し、襲われることになるか分からない。 溜め込んだ性欲のまま押さえ込まれたら・・・。振り切る自信なんて誰にもない。ちなみに、その心配はゼフも同じく抱いている。 そうして。彼らが戦々恐々としていた最中、ゼフはある希望の光を見出した。 ルフィと夢の話をする時には、大人びた顔ばかりをしていたサンジが、子供の頃と変らぬ顔で笑っていた。 ゾロとミホークの命を掛けた剣一筋の生き方が、サンジの心を突き動かした手応えもあった。 そう、どうせ預けるならバケモノみたいに強い連中ばかりがいて。尚且つ、できるかぎり遠くへ旅してくれるヤツ等がいい。 きっと、連中なら万年欲求不満・無差別男のサンジを押し付けても文句は言わないはずだ。 善は急げ。 思いついたと同時に、ゼフは極秘裏にコックを集めた。 千載一遇のチャンスを海の料理人として、存分に活かしてくれる。 果たして・・・。 ゼフたちの強固な結束と悲願の末に、サンジはバラティエを旅立った。 あれほど迷惑をかけられた男だったが、悪いやつじゃあなかった。 あれはアレなりに、可愛いところもあったんだ。 お人好しにもほどがある。だが、バラティエとはオーナーの人柄そのままに。 とってもイイ人たちが揃っている船だった。 皆はそのときばかりは、心底からサンジとの別れを悲しんだ。 去来するさまざまな思いは言葉にならず。ただ寂しいとしかいえなかった。 声を限りに泣き、千切れるほどに手を振って・・・。遠くなるコックを見送ったのは半時前だ。 ゼフの指令通りに船が旋回していく。 窓から見える海の色が少しだけ変った様に思える。 サンジがルフィと行くと言ったのは、オールブルーの夢もある。 だが、ゼフは知っている。惚れっぽいサンジは、夢と同時に一人の男を捜しに海に出た。 頑なであったサンジの殻を破ったのはルフィの戦い振りであり、ゾロが命さえ惜しくないと誇りを掲げる姿だ。 男であれば、彼らの生き様を見せ付けられて、心を動かされぬはずが無い。 ましてや、サンジはその魂に炎にも似た激しさを巣食わせている男だ。 彼らに刺激を受けぬはずも無かったのだが、それらだけであの頑固者が海賊船に乗って行ったのではない。 海賊狩りとあだ名された男を翻弄した、グランドラインの怪物のひとり。 鷹の目のミホークにサンジは思いっきり心を奪われたらしい。 眠るルフィの傍らで、ぜひ、もう一度会いたいと漏らした呟きをゼフは聞き逃さなかった。 その言葉は、即ちサンジが対男性用にのみ用いる『俺の好みだ、早速ヤロウ』の意思表示だ。 またか。思ったゼフだったが、即座に思考を切り替えた。 つまり、ミホークを売ったのだ。 その一方で、無茶をするゾロなる人物が、バラティエに停泊中の一週間の間に、サンジに手出ししたとの情報も掴んでいる。 年齢の割に老け顔のゾロを思い出し、瞬間はゾロがサンジに突っ込まれたのかと、冷や汗を垂らした。 だが、事実は逆だった。 サンジがゾロに啼かされたとのことだ。 ならば、ヤツにサンジを押し付けてしまえと思ったのは永遠の秘密だ。 この際、受けでも攻めでもどっちでも構わない。 とにかく、サンジが自分たちを襲わなくなるまで。 ゼフを抱くとの野望を忘れてくれるまで。断じて帰って来て欲しくない。 サンジのことは嫌ってはいない。 居なくなって寂しいと思う。 元気でやっていてくれと心から思っているし、たまには手紙でも書いて来いとまで望んでいる。 だが、物事には通せぬ道がある。 できるならサンジについては、ゾロが全面的に面倒を見て欲しい。 いや、みろっちゅーねん!! 呪詛のように強く、ゼフは思った。 遠く離れた島で、ゾロはちょっとだけ眩暈に襲われた。 サンジ愛飲の煙草の香りがする部屋をゼフは見回した。 すっかり煙草が染み付いた部屋は、元々ゼフの寝室だった。 あの夜に、サンジが自分に迫ったとき、この部屋をテメェにやるから、勘弁と。 格好もなにもなく逃げ出した。 以降、執務室であったオーナールームを自分の寝室にして過ごしてきた。 バラティエで一番上等のプライベートルームをサンジに取られて6年。 ようやく自分の部屋で眠れる満足を噛み締めつつも。 『忘れ物』とか言いながら、極悪息子が戻れないよう。 にゼフはこの先の逃走経路を忙しく割り出していた。 |