甲板で立ち尽くすゾロの背後から、サンジが気軽に近寄ってくる気配がある。 タバコの煙が鼻先をかすめて通り、「随分とご機嫌斜めじゃねえの」冷やかすサンジの声が、神経に障った。 視線を降ろした船の手摺には、今日の戦闘でついた傷が痛々しく残っていた。 ここのところゾロは不機嫌だった。胸の奥ではずっと燻っている疑問がある。 出された飯を咀嚼しながらも、なぜかの疑問は付きまとって離れない。 飯が美味ければ美味いほど、戦闘が激しくなればなるほどに。 サンジに対して苛立ちが募っていく。 自分でもわかっている。これは嫉妬に近い感情だ。 そして、嫌なことにどす黒いそれはサンジに向けられているものだ。足技ひとつで戦いながら、かすり傷ひとつも負わない男。 獲物を扱うゾロとは別格の戦闘スタイルを持つ男に、どの島の料理人たちよりも美味い飯を出す男に。 ゾロはたまらない焦りを覚える。 さしたる努力らしい努力もせずに、この男は易々と全てを手に入れているように思えて仕方ない。 サンジは一日中をキッチンに篭っている。よほどのトクベツが無い限り、供される食事は凝ったものではない。どちらかと言えば家庭料理に近いものだった。 今日の晩飯のように大皿料理ばかりが並ぶ食卓だったらよかった。贅を尽くした料理など、この男がいとも簡単に作れなければよかったのに。 もしくは、自分が無意識に背中を預けられるほど、強くなければ苛立ちもしなかった。 一日中を鍛錬に費やし、他に仕事らしい仕事もないゾロとは対照的に、自分の時間なんぞひとつとして持てない男は、外見からしてゾロよりもずっと体格は劣っている。 力勝負にしてみても、楽々と勝てるとわかっている。 だが、そんなモノは気休めにもなりはしない。 以前に、買出しに付き合ったことがある。 自分の背丈をはるかに越した食料もろもろを、サンジは軽く担いで船までの長距離を歩いてみせた。片腕だけで水が満杯になった酒樽すら、息切れもせずに持ちもする。 本気の蹴り技は、鉄板に足型を残すほどに強烈だ。 突きつけられるそれらに、ゾロは苛立つ。 こんなに努力している自分と比べて、サンジはたいした特訓もなにもせずに、あの強さを身につけている。料理にしても、どんな宮廷料理人にも引けを取らない腕前だ。 ルフィが強いのは疑問もなく、すんなりと受け入れられた。 だが、サンジが見せ付ける全てに、ゾロは焦りを覚えずにいられない。 あの男が本気で鍛錬をしたならば、いったいどこまで強くなれるのか。あっさりといまの自分の力量なんぞ凌駕する力を持てるだろう。 思うだけで激しい焦燥に捕らわれる。 そうして、脳裏に浮かぶのはサンジがやってきて直ぐの頃の光景だ。 深夜の甲板で、サンジが蹴り技の練習をするのを偶然に目にした。 有り得ない角度から繰り出される攻撃や、目にも留まらないその速さはいやでもゾロの自尊心を傷つけた。 お前はまだまだ足りないと、誰かに強制的に言われたような、いやな気持になった。 ゾロの視線にも気付かずに、サンジは誰もいない甲板で、15分ほど蹴り技を連続させた後は、ひとつ大きな息を吐いてキッチンへと姿を消した。 ほんの僅かな息抜き。 そうとしか思えない短さで、全てを終えていた。 とんでもない男だと、思った。 急角度に上がった脚は一瞬後には垂直に振り下ろされ、甲板に届く直前で旋回運動へ転じた。横薙ぎした靴先は、綺麗な弧を描いていた。舞踊でも舞っているような、どこかゆったりとしながらも、サンジが上げた脚は延々と宙を切り裂いていた。 それを支える軸足は揺らぎもせず。無様に身体が泳ぐこともまったくなかった。 両手をポケットに突っ込んだ不安定な体勢で、あそこまで動けるはずがない。 だが、あの男にとっては、僅かの支障もない当たり前の動きだった。 負けた。 悔しいが、追いつけない。決して自分が弱いとは思わなかったが、世界の頂点の遠さを思い知らされ、直後には天賦の才能というものが世の中にはあることを痛感させられた。 打ちのめされ、呆然としている自分に腹が立った。 努力しても努力しても。 ふとした折に焦りがこみあげる。振り払おうにも簡単には振り払えない。 ゾロの胸中など知らないサンジは、のんきにも背後から肩へ腕を回し、顔を覗きこんでくる。強引に視界に割り込む青い目は、底が無いような透明な色をしている。 「んん?なにがあったんだ?ちゃんと聞いてやるから、おにーさんに話してみなさい」 口調は笑っているが、透明な瞳は真っ直ぐに貫いて通る。 強い瞳だ。嘘やごまかしを見抜く、力のある瞳はルフィと似ていた。 だんまりを決め込み、振り払おうとしたがサンジはしつこい。 いつもなら喧嘩に発展して誤魔化せるのに、こんなときばかりは吹っかける様子もない。 頬に唇を押し当てられあやされ、頭をゆったり撫で擦られ。 どんなに言葉は笑っていても、瞳に強さが宿っていても。寄せる手や唇の優しさは、じんわり心に沁みてくる。 ゾロが焦りを覚える張本人は、ささくれた神経を柔らかく穏やかにもさせていく。 我慢強いサンジに、ついにゾロは折れた。 「俺とオマエじゃあ、オマエの方がよっぽど強いじゃねえか」 「―――・・・・・そりゃ、まあ。俺が弱いとは、自分でも思ってねえけどな。どっから出てきたんだ、その結論は」 囁く声は柔らかだった。女相手だったなら、有耶無耶にさせてしまえただろう。相手が男だったから、弱みも警戒せずに吐き出せる。 甲板に男ふたりで座り込み、薄い胸に頭を抱き寄せられたまま、ゾロはぽつぽつと胸のわだかまりを吐露した。 「オマエは、わざわざ鍛えることはしねえだろ。いつも俺らに飯を作ってるばっかりで、特別になにかをしてるわけじゃねえ。そのくせ、俺やルフィと同じ位置で戦いもしてるだろ」 「ナミさんたちをお守りするのは、仲間として当然だろ」 「俺が言いたいのはそれじゃねえ。オマエが本気で打ち込めば、簡単に世界を手に入れられるだろ。欲しいと、思ったことはねえのかよ」 「おれはコックだぜ?自分のキッチンで手一杯で、世界なんざ広いモンほしくねえよ。第一、おれにはお前のような真似はできねえ。真剣にやったら負けるよ」 あっさり言われた。躱したんでもない。 本気でそう思っているのが判っただけに辛かった。 お前のほうが強いんだ。言っても、何を馬鹿なことを言ってるんだろうねと笑われた。 「おれがアンタに敵うわけねえじゃん。どんだけ体きたえてるか自分で判ってんのか?毎日まいにち、あれだけやってるお前がおれより弱いわけねえだろ。ちょっとは考えてみろ。なんの為におれがお前にだけ酒の肴を出してやってるのか、判ってねえだろ。腕いっぽんで世界を獲ろうって馬鹿なヤツの身体が、ここんところ何で構築されているのかよぉく振り返ってみろ。そのマッチョな筋肉の素を誰が作ってやっているのかも、ついでにありがたく思い出せ」 ゾロの額を小突き、短い髪に指を絡め、サンジは得意げにゾロを見下ろした。 「お前の強さはおれが作ってやってるんだ。おれが手がけてる最高の料理に文句はつけるんじゃねえよ。勝手に“もしも俺が・・・・”なんて遊びはするんじゃない。わかったか?」 片腕を気安く首に掛けサンジが言う。 そんなふうに軽く受け止め流すから、お前は強いんだよ。それが強いやつなんだよと、云ってやりたかったが。これ以上に慰められるのは、あまりに情けなさ過ぎて、何もいえなくなっていた。 黙ったゾロを覗き込むサンジが憎たらしく。 少しでも溜飲を下げたくて、目の前の金髪をとっ掴まえて強引にキスをかましてやってみれば、驚きもせず怒りもせずに。仕方ないねと全身でゾロを甘やかした。 ・・・・こんなふうに出来るお前は、やっぱり、強いじゃねえかと。 うっすら思ったが、考えるのも口にするのも面倒になってきたので、全てを放棄した。 |