ハンモックから身体を起そうとしたら、世界が唐突にぐるりと回った。
「・・・・うっ・・わ・・・」
反射的に目元を押さえ、ちかちか点滅する視野が瞼の裏側でも まだ回っている気持ち悪さを懸命に耐えた。

たまに、こんな朝がある。
薄暗い男部屋には平和的な寝息が流れる中で、 ひとりで嫌な汗をかき、裏返りそうな頭を抱え 声にも出せない呻きを噛み殺す。

このまま、眠ってしまえばラクになる。
身体が悲鳴を上げてても、自己嫌悪に陥る職業意識は 本能的な訴えを無情に却下してしまう。

嫌な性分だ。
朝飯のしたくをしないといけない・・・・・・などと 義務的にも思いは巡るが。
本音はひとつでも手を抜けば、そこからなし崩しに動けなくなるのがこわい。

ここんところのハードワークに、昼間に動くのも必死だなんて 格好悪いこと言えるもんか。
原因なんて分かってる。
血が足りない。眠りが足りない。
明らかなエネルギー不足の身体をかかえ、動かしてりゃ 眩暈のひとつやふたつ、起こっても当然だ。

倉庫の備蓄はたっぷりとは言い難くとも、次の補給まで充分に凌げるだけの 量がある。
問題は、『食べる』ことじゃない。
もっと根本的なもの。

不意に。 なんの前触れもなく強烈な鮮やかさで。
生きている甘い匂いを漂わせるゾロの首筋が頭を過ぎる。

鍛えた腕を蔦のように這う太い血の道。
手首の内側にひっそり息づいて透ける、暗い青。
肌の暖かな温度や、静脈の鼓動。

舌の上に蘇る血の味に、凄まじい渇きを覚えた。
ひどい眩暈を堪えていながら、舌先がひび割れた唇を物欲しげに辿っていた。
濡れた自分の舌の動きに、はっと我に返る。
気付けば、まだ頭はぐらぐらしても先ほどよりは幾分かマシになっている。
あと少し。
真っ直ぐに立ち上がる自信は欠片もないが、歩けるだけの力が戻る。
頭痛まで呼び起こす眩暈が治まることだけに意識を集中させた。
ほかの事は考えず。

やらなければいけないコト。それだけを考えろ。

昨日はルフィがまた肉だと喚いてた。
朝からリクエストに応えてやるには、体調はヘビーすぎる。
夜のうちに仕込んだタレに漬け込んだ鶏肉は オーブンで手っ取り早く焼いてしまおう。
作るはずだったジャーマンポテトは先送りだ。
マッシュなんざしてたら、自分のなけなしの体力がつぶれる。
ペストリーを出すところは、マフィンで許してもらうにして・・・ ソーセージを突っ込んだ野菜スープに オムレツ。マフィン。トマトがまだ残っていた。アレも使おう。
そこまできて、失敗したと気付く。
つるりとした赤い表面を思い出し、流れる赤い液体の温もりまで喚起した。

ああ、血が足りない。
足りなさ過ぎる。

せっかく前の島で血液を補給したのに。
先週に遭遇した連中との予定外の戦闘で流した分だけ血が足りない。

こうなったら、生臭いだの言ってられない。
昼にルフィたちに釣りでもさせて。魚だろうが海王類だろうが捕獲してもらって 当座の凌げるだけのエネルギーを絞り取る。それしかない。

さて、予定は立ったものの。
一向に納まらない具合はどうすればいい。
起床時間はとうに過ぎている。うだうだ考えている間に30分は経過した。
ヤバイ。
これ以上は一分だって無駄にはできない。

強固な義務とプロ意識で。
とにかく床に下りればよしとする。
この状態ではマトモになんて立てないだろうが。
這ってでも甲板へ上がれば・・・・・・・

よし、と気合のみで動かぬ体を落とそうと決める。
頭を押さえたまんま、身体を反転させたその瞬間。

「おい」
不意に低い声が近くでした。
自由落下する最中に、あれ？なんて間抜けなことをのんきに思ったときには 何故か、固い床に落とすはずだった体は 硬い筋肉まみれの男の両腕に受け止められていた。

どうしてソコまでするかな。
やせ我慢するんじゃねえよ。

乱暴な口調は苛立っていたが、殆ど呆れている感じのほうが強い。
丁寧ではない扱いに耐えかねて、意識は悲鳴を上げていたが。
強引に両手は引き剥がされた。
思いやりもない勢いで、口許にぶつかった肌の下からは とくとく踊る脈が唇を薄く叩いた。

ヤバイとか。
余計なことするなとか。
虚勢を張り巡らせるより先に駆け巡る本能が上回った。
無理やり口を開かせられずとも、勝手に喉はなった。
理性が止める隙もなく、押し当てられた手首に噛み付いた。
鋭く細い牙が不自然な長さまで伸び、突き立てた箇所からは 一滴の血も流れず、全てが取り込まれる。

無我夢中で貪り、干からびた細胞が潤される恍惚感に脳髄まで痺れた。
がっしりした胸元に背後から抱きかかえられ、

こんなんなる前に俺んところに来い。
覚えてらんねえのか。この鳥アタマ。

耳元ではゾロのあきれ返った罵倒があったが。
大きく乾いた手が側頭部を柔らかに撫でる感触が、なんとも優しかった。