「さて。灯滝っち、外行くべ」
「待って、雨だよ。傘っ」
「俺が持ってる。ささ、行くべ行くべー」
お昼ご飯を食べ終えると、葉隠くんは私の手を引いて支部を出た。
午後の集合時間までの数十分を、今日は外出にあてよう、ということみたいだ。天気は梅雨空だけど……。
加えて――未来機関に所属して日の浅い私たちは、無闇に建物外へ出ることを控えるように言われている。毒ガスの問題は解消されていても、“絶望”への物理的な対抗スキルが不足しているからだ。
外出……。葉隠くんは(他人を危険に晒してでも)全力で危険を回避するタイプだから……葉隠くんはさておき、私はどうなるのか少し不安ではある。
葉隠くんに引かれるまま、ちょうど無人で止まっていたエレベーターに乗り込んだ。いまさら戻る気も起きないので、どうして外に出るのかと尋ねてみる。
「おっと。そうだ実ノ梨、それ……ちっと貸してくれ」
「んっ!?」
手が解けたと思ったら、その手が今度は私の顔の横をかすめる。わずかに髪を引っぱられる感触がして――一つに束ねていた髪ゴムを抜き取られていた。
「えっ、なに――」
動揺する間に、葉隠くんはとんでもない質量に見える自分の髪をうまいこと撫で付け、鏡も見ずに器用にまとめ上げ、すんなりと高めの一つ結びを作っていった。
私の問いかけには答えてくれないままだったけど……なんだかどうでもよくなるくらいの手さばきだった。
「ん。よし。」
「……結べてる……切れちゃうかと思った」
「俺の髪の半分は、やさしさで出来てるんだ。だから髪ゴムをいたわれるんだべ」
逆に頭が痛くなりそうな理由を自慢気に笑顔で言われたところで、エレベーターは1階に到着した。
何とか「そっか……」とだけ返し、私も彼に続いて出る。
髪を括り上げた葉隠くんは、左右がすっきりして耳と顔の形がよく見えた。……新鮮だ。私の背丈からだと、いっそう感じられるのかもしれない。
「髪を結んでる葉隠くん……なんか、いいね」
「好き?」
「うん、好き」
新しい発見が嬉しくて、歩きながら横顔を仰いでいると、自然に頬が緩んでしまう。
今朝たまたま見繕った髪ゴムが丈夫でよかった。
「……へぇー。ほー……そうかそうかー」
相変わらず主張の激しい毛先は後ろの方で広がっていて、少し早歩きになった彼がふむふむ言って頷くたびに、大きく揺れる。
葉隠くんは出口の前で止まると、振り返って私を待った。追いつくまでのわずかの間、ふふっと笑う声が聞こえた。
「髪を下ろした実ノ梨も、けっこう可愛いべ」
「ええ!? む、結んだ跡付いてて、変だよ!?」
「じゃあ最初から髪を下ろしてれば、もっといい感じだな」
慌てて手櫛で髪を整えていると、さらにニッコリして追い打ちをかける。
……葉隠くんって、こういうこと言う人だっけ?
「え、や、だってこんな髪伸びてたら、結ばなきゃ、料理作るのには」
「料理は置いとくべ。少なくとも今は、未来機関・敷地内ぐるり旅だからな」
「あ、敷地内なんだ……、!?」
さらりと髪をひと撫でされた私は、時間差で動転する。……過剰に反応しすぎてる。
たぶん、これは、別になんでもない言葉と行動、だと思うから、落ち着け――!
そう心の中で唱える間に……葉隠くんは立てかけられていた傘を持ち出していた。
*
未来機関支給の傘は、二人で入っても肩まで収まる大きさだった。つまり葉隠くんが髪を結んでなければ、はみ出すところだった。
素っ気ない色をしていて、今日みたいな空模様にしっくりと馴染む。
そぼ降る雨は、傘差しボーダーラインのギリギリの位置にある小雨だ。傘を差さずとも間に合うように見えて、いざ閉じてしまうとゆっくり確実に濡れゆく。
つまり……解かれた私の髪は、そんな雨の湿気を吸い、とても自由になっているんだと思う。……可愛いなんて言葉を素直に受け取っていいか、ずっと迷っている。
そして当然みたいに、私に傘をかざす葉隠くん。背の高い側が持てば合理的という理屈は理屈として、こういう状況が発生する想像力が欠けていた私は、この絵面を消化しきれていなかった。
隣り合って、建物沿いに葉隠くんと歩く。寒いような暑いような、どちらとも言えない気候と相まって、くっ付きたいような離れたいような、……だけど近くにいられることに鼓動は正直で、私はうつむいて地面の水たまりばかりを追っていた。
私たちの制服は未来機関のそれではなく、前の高校のものだ。でも先日、正式所属が決まったので近々スーツに切り替わる。
この格好もいよいよ着納めだと思うと、希望ヶ峰学園でのコロシアイ学園生活でも、この未来機関で保護されている間も着続けていたこともあって、名残惜しさを覚える。
……ということは葉隠くんの学生服も、もうすぐ見納めだ。学園生活中に私が倉庫でばっさり被った学ランは確実になくなるんだな、スーツでも腹巻きはするのかな、なんてチラチラ窺いだしたところで――それまで静かでいた葉隠くんが、声を上げた。
「おー、ここだここだ」
ずっと殺風景だった周りに、突如映える緑。
雨を受けてつやめくのは緑の葉だけでなく――青、水色、紫、白……手鞠のように形作られて咲く、色とりどりの花があった。
「わあ……! そっか、アジサイの季節だ……!」
「上からコレが見えたんで、どんなもんか間近に見たかったんだべ」
紫陽花は一帯にどっしりと群生していた。誰も来ないような建物脇の、ちょっとした異空間だ。
自然に育ち咲いた花の鮮やかさに、しばらく目を奪われる。そっと触れると、しずくが弾けて落ちていった。
少し前まで外を怖がっていたのも忘れて、心が躍る。それほどに綺麗で、圧倒的な佇まいだった。
「うーん。……たぶんだけどよ、ここってパワースポットだったっぽいぞ? 元の建物はなくなっちまってるけど……このアジサイの並んでる感じに、なんとなーく覚えがあるべ」
「へえ……ここって葉隠くんの知ってる場所だったんだ」
「ああ。俺はパワースポットに関しては詳しいんだ」
葉隠くんの記憶力は一定方向にすごいんだな、と思っていたら、急にその表情が曇っていく。
「……んんっ? 世界が崩壊してもなお、ここのアジサイが元のままってことは……や、やっぱり、植物は俺ら人間を監視してんだ! そういうことだよな!? 奴ら、地球を支配するタイミングを今か今かと窺って……ッ!」
「いや、侵略チャンス過ぎてるよ……未来機関ができる前のほうが絶対いいと思う」
「はっ、……それもそうか。じゃあ、普通にいいアジサイだな!」
「あ、うん……そうだね」
そしてくるっと反転したように、また活き活きとする。相変わらず忙しない。でも、そういう切り替えの早いところが、私は嫌いじゃなかった。
「おや……雨は小休止か。いったん傘しまうべ」
空に手をかざして、葉隠くんが傘を閉じる。視界が開けて、私は空を見上げた。
まだ泣き出しそうな曇天だ。再び降るのも時間の問題だろう――。
そこで思い出して、端末で時間を確認する。……戻る時間を考えると、そろそろこの場を離れなければいけない頃合いだった。
傘の中に入る必要もなくなって、ずっと隣にいた葉隠くんは半歩離れて紫陽花を眺めていた。
帰ろう、という一言が喉元でつっかえて――行かないで、にすり替わる。
利き手が、彼の手を掴んでいた。
ハッとして、思わず見上げる。瞳がかち合う。私の心は言うことを聞かず……言葉が、こぼれ落ちる。
「……帰りたくなくなっちゃった」
「おっ、じゃあ実ノ梨もサボるか」
葉隠くんは、いい笑顔を向ける。あ……好きだな。
いや……そうじゃない。そうじゃなくて……彼は元々“そういうつもり”で私を外に連れ出したんだ。今まさに確信した。最高に優しくていい笑顔だった。……それくらいは、わかるようになった。
「い……一緒に戻ろう、葉隠くん」
「……はっ? 言ってることが正反対だぞ」
こんな世の中で生きるなら、術を学んで得ないと。私と葉隠くんはそういうところが足りてないから、機関で訓練をしっかり受けたほうがいい二人だった。
私は葉隠くんに生きてほしいし、葉隠くんはあの時“生きたいべ”って言ってたんだから、……サボっちゃだめなのだ。
「支部長が言うには、私は葉隠くんの目付け役なんだって。だから終わった後に、またのんびりしようよ」
私が戻らせるつもりとわかった葉隠くんは、ふーん、と唸った。
「目付け役、ねえ……。伴侶の間違いだべ」
したり顔で私を見る。……またそんな、堪らないことを。
だけど湧き上がったこの気持ちは、フロアに連れ戻す力に変える。強引に。
「……そうだよ! だから末永く傍に居させてよ!」
「!? おう、わかった、わかったから実ノ梨! 手、手が痛いっ!」
強く手を握って引いて、私は葉隠くんの先を懸命に、早足になって戻る。
絶対振り返らないし、絶対葉隠くんを並ばせたりしない。しばらくは顔が赤くて、何の説得力もなくなってしまうことをわかっているから。
小さい水たまりを踏んで飛沫を作るのにも構えない。余裕なんて全くない。
……私は葉隠くんが好きだけど、こんなにも好きだってことを、葉隠くんは知らないでほしい。
若干バレてそうな気もするけど……それで葉隠くんが知らないふりをしているのなら、こんなに好きでもいいってことなのか…………でも今はまだ、聞けそうになかった。
Endroll:♪いいんですか?/RADWIMPS
初出:160628(ぷらいべったー)
加筆修正:160704