Kiyotaka Ishimaru : 8/31
8月最後の日も、陽が憂いを帯び始める夕方に差し掛かっていた。
空に向けた目を引き戻すと、千津(ちず)の前で石丸が、屈んでいた背を伸ばしつつ滴る汗を拭っていた。
「うむ、こんなものだろう。どうかね、千津くんから見て」
「充分きれいになってる。家主さんも満足してくれるんじゃない?」
千津の返答に、石丸は満面の笑顔を見せた。仕事を果たした達成感以上に、所感を求めた相手が千津で、彼女と共にこの空間に居られることに充足を感じていた。
*
石丸が千津を連れて来た古風な日本家屋は、希望ヶ峰学園からほど近く、いわゆる都会の一等地にあった。かつての時代の面影を残した佇まいは、ひっそりとしていながらも、現代的な建物ばかりの中では目を引く存在だった。
その無人の家屋に解錠して入った石丸は、千津に一通りの間取りを案内すると、庭の草取りを始めた。
「元々、ここは石丸家が所有していたそうだ。僕の祖父の失脚以降……もうずいぶん前に他の手に渡っているのだが、現家主は一切手を加えずに以前の形を保持し続けてくださっている。それどころか、石丸家の人間であれば立ち入って構わないと鍵まで渡されていてな……」
千津が手伝うと申し出てもひたすら固辞した石丸は、作業の傍らに、千津へ経緯を話した。
現在、鍵を託されたのが近隣の希望ヶ峰学園に入学した石丸清多夏であること、家屋へ立ち入る際の条件として“庭の手入れ”を課されていること。
「とはいえ管理は現家主がされているので、立ち入るもしないも自由なんだが……一度君をここに連れて来たいと考えていたのでな」
「……今どきこんな、見事な日本家屋……都心じゃ見られないよ」
「そうだろう。千津くんなら分かってくれると思っていた。だから存分に堪能してほしい。僕も早急に終らせるつもりだ。……気兼ねなど無しだぞ? 僕と君の仲だ」
先に石丸からそう言われては、千津は手伝うとは言い出せなかった。
結局諦めた彼女は、縁側で石丸の姿を眺めるに至ったのだった。
*
草取りを終えた石丸は、軽く汗を流しに浴室へ向かっていた。
千津は縁側から、水を張った桶に浸していた足を拭いて、台所に向かった。冷蔵庫で冷やしてある、よく熟れた梨を剥くためだ。
石丸が戻る頃に、ちょうど剥き終わった梨と麦茶を持って、千津は再び縁側に掛けた。隣に石丸が団扇を片手に胡座をかく。
「疲れたでしょう。梨、冷えてるよ」
「ありがとう。いただくとしよう」
庭では、油蝉に代わったヒグラシが主役とばかりに鳴いていた。時折風鈴が凉音を響かせ、それに呼応するように蚊取り線香の煙は揺れた。
楊枝を摘み、みずみずしい梨を頬張れば、甘い露が渇いた体を潤すようだった。残暑の最中に外で動いていた石丸には尚更染みる。
「適当に用意した梨だったが……うむ、美味いな」
「どこで買ったの?」
「近くのフルーツ専門店だ」
「……面白い絵面だな、それ」
何が面白いのだ、と尋ねる石丸をいなして、千津は二つ目の梨を齧った。暑い夏の日差しを受け育った果実は、煮出せば砂糖になりそうなほどの甘みを舌に伝えて、顔が自然とほころんだ。
「その顔に免じて、深くは聞くまい」
「んー、美味しいです」
梨の風味が抜けると、除虫菊の香りや青い草と土の匂いを感じた。
経験したことがあれば尚更に、しかし無くともどうしてかノスタルジックになる、日本の夏がそこにはあった。
*
「日本的な家は、夏を基準に考えて作られているそうだ」
南側にある縁側と、その上に掛かる長いひさしは、夏の高い太陽からの日差しを遮り、部屋まで差し込ませない。部屋同士を仕切るふすまも、全て開ければ風通しが格段に良くなる作りだった。
だから呼ぶなら夏がいいと思ったのだ、と千津に語る石丸の瞳は、少しずつ陽に染まる空から彼女の瞳を捉えた。
「この夏の、今日という日に、君がここにいてくれたことを僕は一生忘れないだろう」
「……ずいぶんと、大げさな」
「僕にとっては特別な日だからな。一つ歳を重ねたのだ。」
「はっ!? ……誕生日なの?」
いつもの熱い語りが始まるのかと構えた千津は、そこから前触れなしの誕生日発言に呆気にとられていた。
「待って待って、私知らなかった。ゴメン。何も準備してない」
慌てて謝る千津を、石丸は咎めるどころか片手で制した。
「僕は君から既にプレゼントを貰っているので、これ以上はたくさんだぞ」
「あげた記憶なんてないんだけど」
「今日、君の時間を少々いただいた。」
「……やめてよ、真顔でそういうの」
石丸は千津と想いが通じあってから――いや、彼女へ慕情を抱いてから、そういった感情を隠すことが一切なかった。彼の存外詩的な一面に衝撃を受けたのは千津だけでなく、周囲に憚りなく振る舞われた彼のクラスメイトにとっても同様だった。
少し顔を赤くした千津から視線を移し、石丸は再び空を仰いだ。
「将来、自分が財をなせたなら……この家を引き取りたい。それが、石丸家を信じてここを保持し続けてくださっている現家主への恩返しでもあるんじゃないかと、僕は思っている」
「清多夏の……目標の一つなんだね。」
「今後、僕が如何なる道に進んで多忙を極めたとしても、年に一回はこんな時間を過ごしたいものだ。……来年も、僕とここに来てくれるだろうか」
石丸の信念に燃える瞳は、同時に千津への想いに染まる。輝き続けるその双眸が、千津を惹きつけてやまなかった。
「……今度は私が果物を用意してくるよ。次は桃にしようかな」
「それは楽しみだな。是非いい桃を見繕ってきてくれ」
是と言わずとも肯定の返答に、石丸はすこぶる嬉しそうにして楊枝を置いた。
*
「暗くなる前に帰りたまえ。送って行こう」
すっぱりと切り替える石丸に戸惑いながら、千津がさっき休み始めたばかりだろうと言うと、彼は規律正しい風紀委員的立場と、それにかこつけた言い分を持ちあわせて言葉を続けた。
「日毎に夜が長くなってきている。まだまだ暑いというのに……明るい時間が多ければ、もっと君と一緒にいられるのに」
「子どもより大人に近い歳になって、こんな早くに帰宅を促されるなんてなあ」
すぐ帰る気など更々ない千津に、石丸は真剣に、とどめとばかりに言い放った。
「男子たるもの、月が見えればみな狼になるものだ。」
「……清多夏でも、そういうこと言うんだ」
「君の前では紳士でいたい」
真面目に言う姿は、些か滑稽にも映った前の言葉から真面目に受け取らなくてはならないような気分にさせる。
彼なりの気遣いが「早く帰りなさい」に繋がっているのだと思い至ると、千津は嬉しく思いながらも悪戯心が湧いてきた。
「でも……一昨日が新月だったからその心配はしなくていいかな。……闇に紛れちゃうのも一興ですぜ旦那ァ」
「そういう事を言うのは……その、僕の前だけに」
「しますよ。愛しの清多夏くんだけに」
その一言と表情に、石丸は何も言えなくなった。……満面の笑顔は、何も石丸だけの特権ではなかった。
千津が隣り合った距離をぐっと縮めて手を取れば、石丸は振り払うより添えて握るほうへ傾くようにできている。
「……ここでは、一部にとどめよう」
「うん、大切なお家だものね。ごめん」
遊びが過ぎたことを千津は反省するも、石丸をその気にさせた責任――というより“彼の特別な日”に特別を起こしたい想いがちりちりと燃えていた。
だが、この後どこかに行きたくとも、石丸が許さないだろう。……石丸がそういう男だというのは、千津が最も心得ていた。
千津が抱きつけば、背中に手を回される。見上げて額をこつんと合わせたら、石丸の目は優しく微笑んでいた。
切なく思っているのは、むしろ千津だった。
「千津……この幸せ者に、いっそうの祝福を」
「今まで生きていてくれてありがとう。清多夏、これからも一緒にいさせて」
「僕も同じ想いだ。――愛してる」
長い長い口づけを交わす間も、熟れる陽は闇を連れて来る。
リン、と鳴ったのは風鈴か、それとも気の早い鈴虫か。
世界の出来事は次第に遠のいた。
瞼を閉じた二人は、その時確かに、互いだけが全てだった。
【Happy Birthday!! Kiyotaka Ishimaru 8/31】
※月の暦は2011年8月31日を想定して使用しています