志乃(しの)が玄関を開けると、その足元には出かける前より一足増えていた。……こういうことは、たまにある。というより、彼がここに現れる時はほぼそうだった。
「なんだ、来てたの康比呂」
「おう、志乃っち。おかえりだべ」
「ただいま」
 振り返って、まるで家主のように帰宅を歓迎する葉隠。部屋を借りている名義人は志乃だったが、葉隠はそういう部分を全く気にしない男だった。
 おかえり、と言われれば、ただいまと返したくなる。挨拶は誰かがいなければ交わされない。本来ここで一人暮らしをしている志乃と、気まぐれに立ち寄る葉隠とのそれは非日常的で、彼女からすれば特別なものだった。

 スーツ姿に買い物袋を下げた志乃は、そんなくつろぐ葉隠を見て数十分前を思い返す。夕食のおかず用、明日の朝食用、常備菜……食料はもう一人分を賄えなくもないが、自分だけなら足りると購入を見送ったものがあった。
「買い出ししてきたけど、あんたの分のビールはないわ」
 飲むなら買って来なさい、と志乃が言うと、葉隠は露骨に顔をしかめた。
「うげ……部屋から出たくねーんだが……。それにその、今日は風水的にオメーんちが運気を呼びこむから……」
「だったら連絡くらいしなさいよ。突然来たのはあんたよ」
「うっ……だってまだ、外暑いべ……?」
「すぐ近くにコンビニあるじゃない。ほら、行った行った」
 万札を押し付けられた葉隠は、渋々といった表情で志乃の部屋を出た。あの空間で彼女に逆らうと後々ややこしい。やれやれと頭を掻いて、アルコールの確保に出向くことにした。


 エレベーターに乗り、階下に降りる。まだ新しい高層マンションは誰もいないと思えるほどに閑静で、人工的な空間だった。計算しつくされたライティングがホールを照らす中を、とことんルーズな出で立ちの葉隠が自動ドアを目指し突き抜けた。
 寸前、外気と戦う覚悟を決め、葉隠は静かにぬるい風とセミの声を受け入れた。
 長い長い夏の昼間のおかげで、アスファルトは空が薄暗くなっても抱え込んだ熱気を伝えてくる。草履越し、あるいは空気を上り彼の肌へ。日差しがないだけ幾分マシだったが、湿気から来るまとわり付くような暑さは、冷房の効いた部屋に入り浸っていた体にじわりじわりと不快を与える。
 やっぱり出るんじゃなかったと思い始める頃、見計らったようなタイミングで店の看板が見えた。自然と歩を進める足が速くなる。ドアをくぐれば天国。心のなかで唱える。
 ドアチャイムと店員の声が休戦の合図となった。往路完歩を労いながら、中の冷気に吸い込まれるように葉隠はコンビニへ入った。

 店内は外との温度差で少し寒いくらいだった。カゴを持ち、冷蔵エリアの酒類コーナーに真っ直ぐ向かう。冷蔵ドア内一面が酒、そのうちビールは、ひ、ふ、み、よ……数えてみると随分ある。
 いつも志乃が飲むのはどれだっただろう。酒の中身にあまり頓着しない葉隠としては正直どれを買っても同じだが、万札を渡されては予備を買ってこいとの無言の仰せをつかったも同然だった。
「…………うーむ」
 しかし全く思い出せない。冷蔵庫のドアの前で長考するのも、考えものだ。
 占うか。……いや、それよりも手っ取り早いのは――。



「……で、全種類を一本ずつ買ってきたと」
「全部買えば、どれかは必ず正解だかんな。」
 ついでにツマミも揃えたべ! と得意気に返す葉隠に、志乃は閉口するしかなかった。
 帰宅した葉隠が持つ袋の大きさに驚き、訳を聞いたらこれだ。
 諭吉を渡し、与謝野すら戻ってこなかった。この男の金使いの破天荒さは今に始まったことではなかったが、こんな場面でも遺憾なく発揮してくれるとは。……だが、そんな相手に安易に託したのも悪かった。
「……こっちの発泡酒はあんたが消費してよ。どうせ味なんて分かんないでしょ」
「なっ、志乃っちだけズルいべ!」
 志乃が袋から数缶を取り出し、葉隠分と決めたのはいわゆる安酒ばかりだ。何となく察知した葉隠は抗議するが、ひと睨みで意見は簡単に折れた。
「誰の金で飲もうとしてんの」
「いやあ……飲めるだけありがたいべー……お、俺は何だっていいべ……」
 取り繕った笑顔を貼り付け、葉隠はテーブルに並ぶ自分用となった缶を囲うように引き寄せた。その様子に志乃は、分かればよろしいと満足そうに頷きキッチンに戻った。

 夕食の準備をする志乃の反面、葉隠は手持ち無沙汰になった。待っていても酒がぬるくなる。冷蔵庫に仕舞いがてら、葉隠は志乃の作業を横から覗き込んだ。
「まだまだ、かかるんか?」
「十数分ってとこ。康比呂が来たから簡単にする」
 火にかけられた鍋たっぷりのお湯、切り始めた生野菜に混ぜ終わったディップソースが数種類。レンジの中にあるのは冷凍しておいた何かだろう。
「じゃあ、先に外で飲んでっかな」
「涼しい部屋が良かったんじゃないの?」
「いっぺん出たらどうでも良くなったべ」
「はあ、そう」
 冷蔵庫には既に葉隠用の酒以外がちゃっかり先に入っていた。一緒に入れてくれればと思いつつ一缶を残して仕舞うと、葉隠はつまみの袋を掴んでベランダに出た。


 窓を開けると、高層階特有の強い風に大きな髪が揺れた。そのせいか、先の買い物の道程よりは幾分涼しく感じた。
 サンダルを突っ掛け、手すりに寄りかかりながらプルタブを引く。プシュッといい音が出た……までは良かったが、みるみる泡が吹き出て剥き出しのコンクリートへと零れ落ちてしまった。部屋に戻るまでは丁重に取り扱いしていたものの、そこからぞんざいに持ち歩いたのが悪かった。
 葉隠の手にも掛かっていたが、彼は特に気にすることなく飲み始めた。幸い発泡酒はまだ冷たく、乾いた喉を心地よく潤す。炭酸飲料とは違う独特の苦味、カリカリと弾けながら奥へと抜けていく感触が気持ちいい。

 ひとしきり満喫したところで、買ってきたチーズ鱈を開けて齧った。適度な塩気は酒を進ませる。そして酒が進めば食も進む。ペースを考えないとすぐに腹が膨れてしまう。
 他に気を逸そうと、葉隠はぼんやり景色を眺めた。都心は街の灯とタワーのライトアップで夜でも明るい。奥に見える山と海の辺りだけが暗く、彼の地元とはまるで違う。ここは舗道の脇に草が伸び放題なんてことはなく、整備された歩道か建物に囲まれた世界だった。
 ただ、そんな都会でも蚊は強かに人に襲い来る。酒と汗の匂いにつられたのか、こんな高い場所にいる彼にも、いつの間にかまとわり付いていた。
 まあ、今日くらいは見逃してやってもいい。腕に止まったのが見えたが、葉隠はそのままにしていた。
 些細なことに目くじらを立てるのも野暮だと思うくらい、夏の屋外で酒を飲むのは気分が良かった。


「はい、おかわり」
「!!!」
 葉隠は跳ねた。声も出ない程に驚いた。急に首筋に冷えた缶を押し当てられたのだ。犯人は今しがたここに来た志乃しかいない。振り返れば、彼女はしてやったりとクツクツ笑っていた。
「ひ、ヒデーぞ! 寿命が3時間は縮んだべ!!」
「世の中に平和が来るのが3時間早まってよかったわ」
「俺は侵略者かっての!」
「引きつけて名古屋撃ち、上等」
 隣に来た志乃は葉隠の挙動を楽しみ終えたところで、紙コップを差し出した。
「はい枝豆。まだ熱いからね?」
「おっ、サンキューだべ」
 二重の紙コップに入れられた枝豆は、塩の粒が浮いた茹でたてだ。さやから口へ数粒放り込むと、ほくほくとした甘みが広がった。カラは下のコップに仕舞い、発泡酒を飲み切る。これまた乙なものだった。

「空いた? じゃ、次開けて。乾杯しよ」
 葉隠には金魚柄の缶を渡し、志乃は海と珊瑚柄の缶ビールを開けた。先ほど葉隠が買ってきたうちの2本だ。
 急かされた葉隠も追ってプルタブを引く。今度は、泡は吹き出さなかった。
「酒の調達ご苦労、カンパイ!」
「カンパイ! オメーもお疲れさん」
 缶をかち合わせ、志乃はビールを流し込んだ。仕事終わりの酒は美味い。解放感との相乗効果だ。しかも今日は相手がいる。
 葉隠の隣で飲み摘まむ時間と空気が気持ちを満たす。毎日のように窓から見える夜景も、今夜はいっそうの価値を帯びて見えるようだった。
 そんなパノラマの端で、かすかな音と共にチリチリと光が踊っていた。
「あ、打ち上げ花火……花火大会かな」
「だな。こっからだと線香花火みたいだべ」
 葉隠は先ほどから見ていたらしく、見つけたばかりの志乃の顔を見てフッと表情を緩めた。葉隠と目が合った志乃は瞬間的に顔を赤くした。存外はしゃいでいたのだ。

 志乃は酒を呷ってうやむやにした。普段はとんでもなく馬鹿でどうしようもない男のはずの葉隠が、極々たまにこんな不釣り合いな仕草を見せる。都度、幾つも年上の志乃のほうが調子を狂わされていた。
「まだ、ここにいる? おかわり持ってこないと……終わっちゃったわ」
「花火終わるまで見ないんか? 俺の飲んでもいいぞ」
「安酒」
「値段だけで酒の美味さは決まらんって、前に言ってたべ?」
「そういう事は覚えているのね……」
 安くてもいい酒はあるし、飲む状況と相手に大きく左右される――いつだかの話だが、持ち出されては志乃も乗らざるを得ない。
 差し出された缶を受け取って、一口。不味くはないが、先と比べて味が薄い。わずかに微妙な顔付きを見せた志乃から缶を戻して、葉隠も飲む。
「うむ。ビールだな。枝豆と合うべ。」
「本当、飲めればいいのね」
 安上がり、と言いかけて志乃は口を噤んだ。燃費のいい人間はコンビニで大袋を下げる買い物はしない。葉隠はむしろ真逆の男だった。


 再び夜景に目を移す。強風が髪を強かに揺らし、葉隠の大きなそれより、志乃の髪は大きく乱された。
「あー髪ぐちゃぐちゃ……もう、早く戻ろうって」
「うわ、志乃っち顔が見えん。肝試し状態だべ」
 井戸から出てきそうで怖えーべ、と志乃の顔にかかった髪を横に流す。葉隠の指が掠めると、くすぐったく……それ以上に酸化した酒のにおいが鼻をついた。
「ちょっと。手、ビールくさいんだけど!」
「まあまあ、気にすんなって」
「まずあんたが気にしなさいよっ……」
 構わず葉隠は志乃の髪を梳いて遊び始めた。いくら喚いても止めそうにないと分かると、志乃も黙ってされるがままになる。

「時間経つと酔いまわんなあ」
「まだ早いでしょ……」
「んー、でもよ。オメーもいい気分だろ?」
 片手で毛先を弄び、葉隠はにっこり破顔した。
 それは雲も何もない、カラッと晴れた空を想起させる。掛け値なく素直に出た笑顔だった。
「……そうね」
 志乃もつられて笑みを零す。陽にあてられた頬は色づいた。
 良い気分は酔いのせい。便利な捌け口は大人をやわらかく溶かす。
 ふらり、葉隠に体温を伝えて、志乃は血の巡りを早めた。

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