ゆっくりと視界が開ける。うつろに薄明かりの中の天井を捉えていた。瞼が重く、目覚めは良くない。だんだん覚醒するにつれ、己の体調が著しく優れないという実感までも明瞭になっていく。休んだはずなのに、まったく嬉しくないことだった。
 百田解斗はのろのろと片腕を伸ばし、ようやっと端末を探りあてる。時間を見れば夕刻。中途半端な頃合いだった。もう暫く眠っておこうかと、手を掛け物の中に引っ込めて寝返りを打つ。やや間が開いて、もう一度。……さらにもう一度。
「……ハァ」
 苛立ち混じりのため息の後、百田は観念したように身を起こした。だるさが障って寝付くこともかなわない。ならば、外の空気でも吸って気分だけでもあらためるべきだと思った。
 チクショー、と独り言つ。……こんな状況で身体を崩している暇など、本来はないというのに。



 軽く身なりを整えて部屋から出た。“外向き”のスイッチは勝手に入るらしく、身体の違和感は多少あれど、ふらつくことなく寄宿舎のエントランスを抜けた。
 屋外の空気を深く胸に取り込んで、見事な夕焼け色を巨大な鳥籠の隙間から望む。外に出てもなお閉じ込められている――なんて、また気分が悪くなるが、近いうちに解決するほかない。それができるメンツが揃っているとも百田は信じている。
 目線を空から下げると、近くのベンチに腰掛ける人の姿を捉えた。相手が気づかぬうちに自室へ引っ込むことも考えたが、誰かを見定めた百田は、結局自分から近づいていくことを選んでいた。


「なんだ、碧囲じゃねーか」
「……あれ、ボス?」
 呼びかけると、碧囲(あおい)果月(かづき)は俯けていた顔を上げた。珍しくもキョトンとして驚き混じりなのは、“百田は自室にいたはず”という認識からだろう。
 碧囲は制服姿ではあったが、肩から下を覆うようにバスタオルを掛け、小ぶりの肩掛けカバンを覗かせていた。タオルに触れる髪はしっとりとした光沢を纏い、西日を受けて反射している。
「その髪――」
「あー、ちょっとプールで潜ってたの。」

 潜水。碧囲の超高校級の才能であり、彼女を最も夢中にさせるものだ。
 この才囚学園でプールが開放されたのは数日前だった。飛び込み台もあり、プールとしてはやや深めだが、ひと目見た彼女は「でも物足りないなー」と人差し指を顎にやって呟いていた記憶がある。
 案の定、話し始めたその表情は、充実には程遠かった。
「やっぱり水恋しくって。でも、ここでただ潜るのも寂しくなっちゃって……」
 悲しげな笑みをこぼしながらの言葉は、しかし途切れた。早く外に出たい、と続けたかったのだろうが――。

「……ボス、大丈夫?」
「大丈夫、って……何がだ? オレは普段通りだぜ。……ったく、早いとこ、こっから脱出してーな」
「あは、だよねぇ」
 碧囲は軽い相づちのように返しながらも、百田を窺う目に変わっていた。すでに碧囲は察しているのだ。こちらの体の状態を。敏いとわかっていたはずなのに、なぜ自分は声を掛けてしまったのか。
 その瞳を見ながら、オレがなんとかしてやる――とは言えなかった。



 言葉を返せないまま何となく佇んでしまうようなことも、普段通りならありえない。“外向きのスイッチ”は彼女の視線に射られ、壊れてしまったようだった。
「座りなよ、隣あいてるんだから」
 そう言って碧囲は百田の腕を引いた。咄嗟に足が自分の重さを支えられずにもつれても、碧囲は気づかないふりをした。百田がぼろを出しても、彼女は無かったことにしてしまう。
 そのまま、どすんと腰掛けた。

 こんなことなら、声なんて掛けずに部屋に戻った方がよかった。ままならない姿を晒しただけと思うと、無性に苛立つ。しかし茜色の光に照らされる草花を恨みがましく見つめたところで、どうにもならない。
 百田が不機嫌を纏いながら隣に目を遣っても、碧囲は気に留める素振りもなく、タオルを動かして髪に水を吸わせていた。プールの更衣室にドライヤーがなかったのか、それとも使わなかったのか。まだまだ乾きそうにない、重い質感の絹糸が艷めいていた。手ぐしで髪を梳けば、指に水が付いてきらめく。
「……潜るなら、髪は短いほうが楽なんじゃねーか」
 ぼうっと眺めていた。気づいた時には、そうこぼしていた。

「え、まぁ楽だろうけど。でもゆるくパーマするなら、ある程度長さ欲しいでしょ」
「ふーん」
「ていうかボスこそよくわかんない髪型してるじゃん。今だって寝起きなのにバッチリ整えちゃって」
 碧囲が、百田の逆立てた髪の先に手のひらで触れる。百田の腿に置いたもう片方の手を支えにして。
「いや……こっちに体重をかけんなよ、な……」
 セットにどれくらい掛けてるの? と聞かれたような気もするが。
 片腿にかかる重みと体温。原因を作った横を向けば、身を傾ける碧囲の濡れた髪とバスタオル。微かな匂い。視線が下がる。よじれたワイシャツ、隙間から鎖骨、胸を覆う下着のふち。彼女が頭上で手を動かす度に肌色は小さく揺れて、百田を釘付ける。
 男という生き物は己のコンディションにかかわらず、また、相手がゾーンの大枠にあればすべからく、この手の事象を幸運として享受してしまう。ということを、百田は身を持って知った。

「やっぱボスみたいな長さが一番セット大変そう」
 ひとしきり髪を触って満足した碧囲が離れていく。彼女の目線はずっと百田の髪に向いていたようで、それ以外は言われなかった。
 ……性欲は三大欲求の一つであるとか。生きることと次代に命をつなぐことはDNAに刻まれているんだとか。そういう生命体であることに自分は素直なのだ。碧囲とは性別にとらわれない付き合いをしていても。そんな付き合いが心地良いと思っているはずでも。
 碧囲にとっては、気が合うことと気を許すことがほぼ同義らしいが、百田は違った。漠然と後ろめたい気持ちにも、体調不良にも気付かれたくなかった。



「……つーかオレのこだわりをよくわかんねーつったな?」
「お? 時差あるね? ちょっと元気復活した?」
「だ、だから普段通りだっつーの!」
「そーでした」
 碧囲の無意識のおかげで血巡りがよくなり、百田の意識も目覚めたらしい。百田の声量にわざとらしく目を瞑ってから、碧囲はそそくさと髪を乾かす作業に戻る。
「暇そうだから話してやるぜ。オレの髪へのこだわりを」
「そこには興味なーい」
 ワサワサと、わざとらしいほどにタオルを動かす。聞く気はないという主張だ。

「んだよ……気になったから髪触ったんだろ」
「わたしが聞きたいのは身体の調子だよ。」
 そのくせ、百田の呟きはしっかり耳に入れる。飽きたと言わんばかりにタオルから手を離す。
「仲間を信じているなら、誤魔化さないで教えてよ」
 半ば怒り混じりの声。百田に向けた目は一切笑っていなかった。
 しかし、相手を信じる信じないが真実を語る語らないには直結しない。そして百田には躱す道がある。碧囲にだって抱える思いはあるのだから。


「はっ。テメーこそ。さっき何を言いかけた? ちゃんと吐き出しておかねーと、どんどん苦しくなるぜ。このオレが聞いてやるから言ってみやが――」
「あーっ! 深水に潜りたい!! 海でも湖でも沼でもいい!! 水圧を身体に染みるほど感じて、新しい何かを見つけたいっ!!」
 百田の言葉を遮るように、碧囲は目を瞑って叫んだ。がばっとベンチから立ち上がる。そのまま天に向けて大声を上げた。
 呆気にとられる間に、今度は百田に向き直り両手を掴む。
「わたしは解斗さんとも潜りたい! バディダイビングしたい! 解斗さんとなら絶っ対、阿吽になれるんだから。楽しいに決まってる!」

 あまりにも、率直。まるで子供のように、いっそ清々しいほどに碧囲はさらけ出してみせた。おかげで、百田は思わず笑ってしまった。
「ははっ……いいじゃねーか。その調子だ」
「じゃあ、もう一つ」
 笑顔をみとめると、碧囲は百田の前で腰を落とし、両膝を地面につけた。何事、と揺れる百田の瞳を覗き込むように捉える。
 きゅっと結んでいた唇をほどく寸前、彼女は繋いだままの百田の手をかたく握り直した。

「わたしの前では“みんなのボス”しなくていいよ。……やせ我慢しないで」
「…………いや、オレは――」
 出し抜けに飛び込んできた切れのある球を、百田は捌けなかった。
 その認識は、違うのだ。集団の中であれば別だが、少なくとも百田は碧囲個人に“ボス”として接しているつもりはまったく無かった。
 ただ百田は、しなやかな彼女と並ぶに価し、ときに彼女の先を行くような強い人間でありたかった。百田にとって碧囲は、そう思わせるような存在だった。
 だから――とは、言いたくはない。

「よーし、今日はこれくらいにしといたげるから、戻ろ。ほら、せーの!」
 百田が言葉にできない間に、また碧囲は終いにしてしまった。握ったままの両手をグイと引っ張って、碧囲もろとも強引に百田を立ち上がらせると、そのまま後ろ歩きを始める。百田を寄宿舎まで誘導するつもりなのだ。
「おい、一人で歩けるって。碧囲が危ねーだろ」
「そっかー。じゃあコケたらわたしを助けてよろしく」
 碧囲は百田の手を離そうとはしない。ベンチに腰掛けた時のことを忘れてはいないらしい。自由に振る舞っているようで、百田の動きに注意を払っているのだから敵わない。

 碧囲こそ先程まで不安定であったはずなのに、こちらに働きかけることで吹っ切れたのか、そんな素振りはもう微塵もなかった。
 彼女の本当の心持ちをわかりかねるのは、百田が本調子ではないせいか。それとも調子が良くないことにかまけて、甘えてしまっているせいか……。
 百田はしぶしぶ碧囲の手に引かれて歩く。西日を真に受けて、強い陰影ができる。二人の足元から、一つの生き物のように伸びる影。
 気づかれないように、小さくため息をついた。早いところ回復させないと、碧囲はまたこんなおせっかいをしてくるに違いなかった。
 碧囲とは、共に前を向いて進みたいのに。そして、たまには自分が彼女の手を引いて歩きたいというのに。







【おまけ】

▼道すがら入間美兎と遭遇する
入間「おっ、オメーら赤ちゃんプレイかよ? 微妙な年齢を攻めてやがる……さてはガチだな」
碧囲「ん? ああ、アンヨは上手ーって」
百田「してねーよ!!」
入間「ケケッ、性癖が合ってよかったじゃねーか、変態ども!」

▼そして介助方法を変える
碧囲「性癖ではないんだけど。まあ、肩組むほうにチェンジしよか」
百田「……うおっ、髪冷てぇ」
碧囲「あ、ごめん。やっぱちゃんと乾かさないとだな。体も冷えちゃうし」
百田「ったく、風邪引くなよ?」
碧囲「えっそれ解斗さんが言うんだ……」


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title♪ジャムるこころ / CRAZY KEN BAND
※楽曲ではジャムセッションの意味で使われている

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