――その日は何故か、思い立ったのだ。本当に何となく、その場の勢いで。
「今から出掛けるのか? 夕飯までには帰ってこいよ」
お節介な兄の声を背に受けたが、玄関の戸を閉めることで答えにした。
夏場ならまだ遊ぶ子どもがいる時間だというのに、日暮れの早くなった今では、街灯なしにはまともに見えないほどに外は暗い。
ポケットに手を突っ込んで歩き始めると存外涼しく、部屋で着ていた服そのままで出たことを少し後悔した。
数週間もしないうちに、厚手の羽織りなしにはいられなくなるだろう。ますます家から出るのを億劫に感じる季節が、間もなくやって来る。
外に出ても、明確な用事があるわけではなかった。……しいて言うなら、駅までの道を最短で歩いている。だが決して急いではいない。その道をなぞることに意味があった。
健全な社会人の帰宅時間に重なった夜道は、各々の家を目指す足早なモノトーンの群れと頻繁にすれ違う。
あんな社会の犬になるのはごめんだが、そもそも自分には縁のないものかもしれない。なりたいと思っても、なれないものかもしれない。彼らを見るたび、少しばかり胸の奥に不快なもやつきを覚える。
それでも辿る道は変えない。目的を果たすためだ。
*
モノトーンの世界の先に、その姿を見つけた俺は瞳を大きく開いた。
心臓が早鐘を打つ。ろくに動かず留まり気味な血流が、ここぞとばかりに活発になる。
通勤帰りの“彼女”をあらためて視界に収めると、朝に見た時にはバッグに結ばれていた布が、今は首元に巻かれていた。秋色の装いがよく似合う人だ。
仕事の日の格好は、休みの時に見掛けるものと違う。この世の中で戦うための服、といったところだろう。
例えば、戦うことを放棄した俺が戦闘服を纏っても違和感の塊にしかならない。人が見たら失笑ものだ。
だけど彼女は実際に戦っているから、それが見て取れるから、……俺はどうしようもなく惹かれているんだと思う。
……声を掛ける気は、端からない。
ただ彼女を一目見るという、散歩の目的は達成された。
あとは知らないふりをして通り過ぎて、適当に回り道をして家に帰ればいい。
普段よりもっと背中を丸めて薄暗い道ですれ違えば、なんてことはない。それで終わりだ。
背筋を伸ばして靴音を鳴らす彼女が近付いてくる。2メートル、1メートル、……そして。
「――あれ? 一松くん?」
「っ!?」
名を呼ばれた、その声に、俺の体はバネみたいに弾かれた。
……別に、気付かれなくてよかった。俺はすでに外へ出た価値を見出していた。それ以上なんて、不必要だった。
「……どうも、こんばんは」
「こんばんは。……出掛けるとこ?」
「や……用事は済んだとこ」
俺を顔見知りと認識した彼女は、ご丁寧にも立ち止まって挨拶をしてきた。
なるべく平静を装って返すが、こんな気候で汗が湧く。
「そっか。私は定時で終われたとこー」
「……へえ、そう」
……知ってた。
駅までの通り道に俺の家があるおかげで、ろくに外に出ない俺は彼女が家の前をいつ頃通るかを把握してしまった。近所に住んでいれば生活パターンなんて読めてくる。……普通に生きている範囲で得た情報だ。俺はストーカーじゃない。
「なんか、一松くんと会うの久しぶりだよね。おばさんとか十四松くんあたりは、朝に会ったりすることあるけど」
……俺は朝も目で追ってるけど。家から。
それを知らない彼女は、嬉しそうに会話を続ける。間近で見て話すのはいつ以来だろう。
「時間できたら皆とご飯でも行きたいね。ご兄弟によろしく伝えて」
「俺らは暇だよ。あんた次第だ」
「そうなの? じゃあ今度予定空けるから。うちの兄さんも呼べたら呼ぼっか」
「あいつ新婚だろ。察してやれ」
ああ、そうだ。彼女の兄の結婚式以来だ。
かつて家族ぐるみの付き合いをしていた彼らと俺たちは、今でも従兄弟あるいは兄と姉と弟たち、のような関係でいる。
彼女の家の転勤で一度は途切れたものの、彼女の兄は進学を機に、彼女自身は就職で都内に戻り、彼らの親も今は隣県に住んでいるらしい。
とりわけ近所に戻ってきたのが彼女だったが、彼女の兄と比べてまともに会ったり話す機会がないのは、仕事がある以上に性別の違いがあるように思う。
……大人になって東京に戻ってきた彼女は、俺にはひどく眩しく映ったものだった。
「まーそうだよね。あ、でもそしたら私、紅一点だ」
「あんたの兄ちゃんが居ても同じだよ」
「いやその、なんていうの? 松野家VSうち的には、兄さんのアドバンテージ消えると勢力がさ」
「囲まれるのが嫌なら人数絞れば?」
「それはだめでしょー。来られるんなら全員がいいよ」
彼女は俺たち六つ子の区別はつくが、俺たちの誰かを特別に見ることはない。それは子供の頃からずっと変わっていない。
俺はそこに安心感を覚えていた。少なくとも彼女の中の俺は独立した存在かつ、兄弟と同じ位置にある。それでよかった。……それがよかった。
*
話題の収拾がついたところで、彼女と俺は別れた。
またね、と手を振られ、慌ててポケットにしまったままでいた右手を出した頃には、すでに俺の背の先を行っていた。
振り向いて見る彼女の後ろ姿はどんどん離れて、薄暗い夜道の背景に馴染んでしまう。
すれ違った時のかすかな香水の匂いが名残惜しくて、見えなくなるまでぼんやり立っていると、早足で来た奴と肩がぶつかって我に返った。
…………話しすぎた、気がする。
俺は変なことを言わなかっただろうか。いや、最後まで笑っていたから問題ないか。
俺にさえああいう対応をするのだから、幼馴染という肩書きは特別なものだ。何もなければ、企業戦士と社会不適合者に接点なんて生じない。
充分すぎる数分間だった。
もう外に居る理由もないので、家に帰ることにする。回り道も今となっては無用だが、気持ちを落ち着かせるにはちょうどよかった。
共同生活者ゆえか六つ子だからか、兄弟たちは些細な変化に敏いし、見過ごしてはくれない。
そういう彼らはとても煩わしいし、正直関わらないでほしいと思うが、……それだけではないのも事実だった。俺とどっこいどっこいの低レベルな連中ながら、多少マシなところもあるのはわかっている。
――もしも、今やり取りしたのが俺じゃなくて、兄弟の誰かだったら。
おそ松兄さんだったら、ご飯でも、のくだりで「だったらさあ、これからウチに食べに来なよ。一人くらい増えたって変わんないから。母さんも喜ぶよ」とそのまま家に連れて帰るだろう。“いつか”なんて曖昧な約束をすることなく、彼女の希望をすぐ叶えてしまうに違いない。
トド松なら「そうだねーじゃあ今から段取り決めちゃう? ご飯食べながらさ〜」なんて言って、ちゃっかり二人で飯を食ってくる。“俺らの姉さん”であっても、あわよくば、くらいは思っているだろう。あいつはそういう奴だ。
……なんて、そんな想像を広げても仕方がない。俺は兄弟の誰でもない。誰かになれるわけでもない。
さっき彼女に会ったのは俺自身だ。今夜くらいは少しいい気分で寝ても許されるはずだ。それを自分で台無しにするのは、ひどく勿体なかった。
考えながらチンタラと歩くうち、サンダルを突っ掛けた素足が次第に冷たくなってきた。
次の角を曲がれば、家までもう少しだ。
晩飯の献立は何と言っていたか。動いて腹も減ってきた。いい頃合いで戻れそうだった。
――いつかまた、昔みたいに俺の家に彼女が上がる日は来るだろうか。
その時はきっと“みんなで”賑々しく飯でもつつくのだろうが、……俺が彼女を引っ張ってくるような日は永遠に来ないと思う。
あの頃そのままな家の戸を開けて中に入ると、すぐ上の兄がちょうど廊下に出ていた。
「……ただいま」
「おーやっと戻って来た。飯だって集合掛かってるよ」
「あっ、一松兄さんおかえり〜」
「ん」
ガラガラとうるさい戸が、居間にいる彼らに俺の帰宅を伝える。
ちょっとだけ軋む板張りの廊下、手を洗えと言う母親の声。
変わらないウチの日常に流されて、少し前に彼女と会っていたのも嘘みたいに思ってしまいそうだ。
でも、現実だった。
流しの水音で周りの雑音に蓋をして、彼女が俺に言った言葉を、暗がりで俺を見たその表情を、一つ一つ思い返す。
湧き上がるこの気持ちを、俺はずっと……これからも放棄できない。
生きたくもない世界を生きる気にさせる厄介な存在を、俺はこの家の窓から明日も見てしまうだろう。……願わくば誰のものでもないままであれと、明後日も、その先も。
初出:ぷらいべったー(151123)