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「好きだ、アリーナ。愛している」
クリフトはそう言ってアリーナを後ろ背に抱き寄せ、彼女の細い顎を持ち上げると唇を吸い寄せた。
「……クリフト……ちょっ、ちょっと、待っ……」
色気を帯びた彼の熱っぽい瞳が近付いて、アリーナは身体を強張らせる。
「アリーナ」
押し当てられた唇の感触に身を震わせたとき、彼女は目覚める。
「わっ!」
そう。残念ながらこれは夢。
ベッドより跳ね起きたアリーナは、おさまらない心臓の高鳴りを少しでも落ち着かせようと胸に手を当てて息を吐いた。
「……夢……」
でも、確かに感触があった。
生々しいほど柔らかくて温かい感触。クリフトの唇。
「もう、どうしよう……」
アリーナは火照る頬を両手で引き伸ばすと、うーっと唸って再びシーツに包まった。
温泉イチゴ
(顔はクリフトだったけど、口調はソロだった……)
アリーナは寝癖のついたままの髪を鏡に映しながら、歯を磨く。
瞳がまだ呆けているのは、まだ記憶に新しい夢のせいか。アリーナは疲れたような溜息とともに、口を濯いだ。
「ふー」
こんな夢を見るようになったのは、数週間前の出来事のせいだと思う。そうでなければ、あのように鮮明に唇の感触を夢で味わう筈がない。
「……」
鏡の前で、己の唇に指を当てる。
そう、この唇に。
(……私。クリフトに……キス、されたんだ……)
勇者ソロ一行と合流したのは数週間前。病み上がりのクリフトを気遣ったソロ達は、サントハイム一行を船に乗せて温泉地・アネイルへとやって来た。湯気のけむる温泉街に到着した時には、クリフトよりもブライの方が「腰痛の湯治に最適じゃ」と喜んでいた。
秘湯で湯浴みを済ませた後は、メンバーの自己紹介と共に杯が酌み交わされ、アリーナは久々に気を晴らして楽しんだ。ブライに少々の小言を言われながらも、マーニャの勧めるままにコクコクとカクテルを飲み干し、そのまま酒場のテーブルで突っ伏してしまったのである。
「姫様、立てますか」
酒を飲まないクリフトは、困り顔で彼女の肩を揺すり、眠りこけるアリーナを宿へと促す。
「うー」
本当は歩けた。
アリーナは酔いを醒まして自力で部屋に戻るより、クリフトの背におぶられてベッドに沈む方が良かった。そういう甘えと打算も含めて、彼女は狸寝入りをしていた。
「……ここでお眠りになられては、お風邪を召しますよ」
「……」
沈黙を構えていると、クリフトは「仕方ない」とアリーナを抱えて寝室へと彼女を運んだ。
クリフトの背に乗ることは何度かあったが、今回は椅子に座していたという体勢もあって、アリーナは膝を抱えられていた。
予想通りの展開の筈が、予想以上。
アリーナはこの状況に鼓動を早めながら、懸命に寝たフリを続けていた。
「姫様、気分は悪くありませんか」
クリフトは寝室まで彼女を丁寧に運ぶと、彼女の細い身体をベッドに預けて、優しく布団をかける。勿論この言葉に返事はない。クリフトは黙ってそのまま燭台の灯を消し、窓を閉め、カーテンを引いて就寝の準備を手際よく整えていく。アリーナは瞳を閉じながら彼の気配を感じていた。
クリフトの柔らかな声を聞いていると、アリーナはふいに寂しくなって「ここに居て」と言いたくなってくる。しかし、ここにきて起きていたことや眠りを偽っていたことは明かしたくない。なんだかやるせない気持ちになってアリーナが横になっていると、ギシ、とベッドにクリフトの手が乗った。
なに、と思ったのは束の間の出来事。クリフトの唇が、しっとりとアリーナのそれに落ちてきた。
「……」
優しい、優しい口付け。
アリーナは突然の事に驚いて目を開きそうになったが、それどころではなかった。止まるかと思った心臓はドクンと鼓動して、煩いくらいに全身に血液を送り出すし、身体じゅうが甘い痺れに満たされて動かすことができない。
この胸の高鳴りで、クリフトに起きていることが知られてしまうかと思ったが、彼は暫くすると静かに扉を閉めて出て行った。
パタン、という扉の音を聞いた瞬間、アリーナは飛び起きて唇に触れていた。
「……クリフト、」
ほんのりと熱く、まだ痺れが残っている。甘くて、切ない感触。
アリーナはもう眠れなくなっていた。
(……クリフトと、キス、しちゃったんだ……)
思い出すとまた頬が熱くなる。全身が緊張して朱に染まっていくようで。
アリーナはそうして唇に手を当てていると、再び今日の夢を思い出しそうになり、慌てて顔を洗った。
「もう! なにこれ!」
(クリフトがキスなんてするから、夢にまで出てきちゃって!)
何度も冷たい水を顔にぶつける。
(ソロなんかと会ったから、夢のクリフトがソロみたいになっちゃって!)
「どうしてくれるのよ!」
顔を洗っても、心地よいタオルに埋もれても。ピンクに染まった頬の上気は消えることがなかった。これに苛立ちながら改めて鏡を見ても、当惑した表情は一向に晴れていない。
「……うー、」
アリーナは不機嫌そうに鏡に手をかけた。
こんな感情など払拭してしまえ!と思った矢先、また一筋の感情が脳裏を過る。
“好きだ、アリーナ。愛している”
(でも、あういうクリフトも……かっこよかったかも……)
「あーっ! だめだめっ! 何考えてんの!」
そう言ってアリーナの拳が鏡(とそれに続く壁)を砕きそうになった時、マーニャが部屋を訪ねてきた。
「アリーナ。朝ご飯の時間よ」
「うっ、うん!」
アリーナは咄嗟に拳を引っ込めて笑顔を作った。
“イチゴが甘酸っぱいフルーツだと知っているのは、食べたことがあるからよ。”
“食べたことがないイチゴを、「甘酸っぱい」なんて思わないもの。”
アネイルで数泊したとき、何時しかマーニャとイチゴの話をした。
マーニャの故郷でそれが採れると聞いたときか。何気なく「甘酸っぱい恋の果実だと知っている」と言った。その時は、自分の返事に笑って答える彼女の言葉の意味を図りかねていた。
(……何で今こんな事を思い出すんだろう)
「おはよう、アリーナ」
「さぁ、こっちに座ってください」
「おはようございます。アリーナさん」
宿の階段を下りると、既に朝食の用意を整えたパーティーがアリーナを迎える。
「……おはよう……」
「どうしましたか、姫様」
すっかりこの輪に馴染んだブライがアリーナを窺った。
「……何でもない……」
疲れたようにアリーナが首を振る。
そして彼らに挨拶をしてテーブルにつこうと椅子に手をかけたとき、アリーナは窓の外にふと目がいった。外ではソロとクリフトが朝稽古をしているようだ。暫し立ち止まってそれを眺める。
「……あの二人」
トルネコが気付いて、同じく窓に目をやった。
「あぁ、ソロさんは同じ年頃のクリフト君が仲間になって、明るくなりましたね」
「やっぱり、あの位の男同士って何かとツルむわよねー」
アリーナは笑い合うトルネコとマーニャの会話を傍らに、その様子を黙って見ていた。
「……」
クリフトとソロは、心地よい疲労感に胸を弾ませながら稽古を終える。腹を空かしたソロは、朝食に遅れないよう奇跡の剣を鞘にしまい、「受け取れ」とクリフトに投げつけた。
「やっぱお前がその剣使え。お前の身長にも合ってる」
クリフトは少々の土埃を払いながら、片手を差し出してそれを取る。
「ソロさんは良いのですか」
「俺はこっちの方が合ってる」
ソロは右手に装備していたドラゴンキラーを取り外して見せた。
確かに、戦神の如き強靭な闘志と殺傷力を持つ彼には、地上最強のモンスター・ドラゴンを殺めるに適したこの武器を装備した姿の方が似合っている。
「それにお前、体力ないし。俺のほうが強いから、これは譲ってやるよ」
「酷い言われようですね」
クリフトが苦笑して剣を背に負うと、ソロがカカカと笑った。
「気にするな。お前には俺にも負けない最大最強の武器がある」
ソロはそう言ってクリフトの横に並ぶと、小気味よく笑って肘で軽く脇腹を小突いた。
はて、自分にはそんな大層な武器も呪文も使えただろうかとクリフトが不思議がっていると、ソロはニヤリと笑い出す。
「……お前が初めに装備してた“こんぼう”ってのは、コレだろ?」
「し、下ネタですかっ!」
腰をずずい、と押し出してクリフトに見せつけ、ソロは大きな声を上げて笑った。
「で、その威力はどんなもんよ」
「息の根を止めますよ」
長身のクリフトは腕を延ばしてソロの首を締め付けた。持ち上げられたソロは足を泳がせて抵抗する。
「出た! ザキ好き神官!」
「あなたに敵うものと言えばコレくらいしかありませんからね」
「いや、だから……」
別にあるだろ、と彼が再び腰を送り出そうとする。
「朝から何を言うつもりですか」
「ぐえ」
クリフトは片腕に彼を締めながら宿へと踵を返す。
ソロは咽喉を詰まらせながらも顔を綻ばせて彼を嘲笑い、クリフトもまたそれに顔を顰めながらも口元には笑みを溜めていた。
結局はじゃれ合う子供と同じ。
「あっはは! ソロってば首根っこ捕まえられてんじゃない」
「まるで悪戯猫とその母猫のようですわ」
そうして宿へと戻ってくる二人を窓枠より迎え、マーニャが軽やかに笑った。仲の良い二人の様子を温かい瞳で見つめながら、ミネアは彼らの朝食の準備をする。
一方ブライは、朗らかな笑みでこちらへとやってくるクリフトを、驚きの目で見つめて迎えていた。
「ほう、あやつがこんな姿を見せるとはの」
ようやく年相応に育ってくれるか、と煎茶を啜る。
これにはアリーナも同じ気持ちで見ていた。
大声で笑い、表情を崩す。ソロ達と旅を共にするまでは、そんな彼の姿など見る由もなかった。かつての彼は、常に端麗な佳顔に柔らかい微笑を湛えるだけの優男だった。落ち着いた物腰に控えめな言動。彼がアリーナの数歳しか変わらぬ年上とは到底思えないほど、大人びた雰囲気を持っていた。
それが今の彼は解き放たれたようだ。
ソロの言動に喜怒哀楽を露にし、時にはつるんで羽目を外す。知性ある清雅な顔を綻ばせて笑う姿には、アリーナも正直に驚いていた。
「お二人は本当に仲が良ろしいですな」
テーブルについたソロとクリフトに、トルネコは目を細めて言った。
「そうですか?」
クリフトは眉を顰めてこれに答える。しかし口元が緩んでいるのは、嬉しい内面を隠しきれていないようだ。
「おう。男の友情ってヤツだ」
ソロは目の前のパンを口に運ぶことに集中しながらも、横槍を挟むようにトルネコに言う。こんなやりとりも仲の良い証拠かもしれない。
「ソロさん。パンばかりでなく野菜も摂ったらどうですか」
凄まじい勢いで小皿のパンを平らげていくソロを横目に見ながら、クリフトが小言を呟いた。世話好きな性格である。彼はサラダの小鉢を彼の前に運ぶと、イヤでも目に入るほどの嫌味な距離にそれを置いた。
「俺は小麦を何より愛している」
これで素直に従うソロではない。彼は続けた。
「小麦、俺はお前を愛している。好きだ」
手に握り締めたパンに向かって力強くそう言うと、ソロはこれを口に運び再び食事を始めた。そしてクリフトの溜息がひとつ。
「食物にも等しく愛を注いではいかがです」
「おっと、愛とは我儘なもの」
アリーナはテーブルの向かいでそんなやり取りを交わす二人を見ていたが、今しがた放たれたソロの言葉にハッとした。
「……」
彼らしい今のセリフ。
それは今朝見た夢のものと似ている。
アリーナはソロの言葉を反芻しながら、黙ってパンを千切る。機械的に口に運んでいると、ふいにあの言葉を思い出した。
“好きだ、アリーナ。愛している。”
クリフトの淡々とした低い声。しかしそれでいて真っ直ぐに意思を告げる強い口調。夢の中のクリフトは妙に色気があって、アリーナは射抜かれたように惚けていた。
(……私、こういう言い方に憧れているのかな。クリフトにそう言って欲しいのかな……)
自然と手が止まっていたようだ。
「姫様?」
気付いたクリフトが顔を伺ってくる。傾げた首と上目遣いが正面から自分を覗いてきて、アリーナは驚き慌てて立ち上がっていた。
「ご、ごちそうさまっ!」
こんな事を考えていたなんて知られたら。
アリーナは一目散に階段を駆け上って自室へと戻っていった。
「なんじゃありゃ」
ソロはパンで頬を膨らませながら彼女の姿を見送り、不思議そうに口を動かしていた。
「あれはコイだな」
熱い湯をかぶってソロが言った。
傾く陽光もまだまだ明るい夕方から湯につかる。こうした早風呂という贅沢にありつき、クリフトは天然の湯船の中からソロを見た。
「恋ですか」
「だな」
「……」
ソロはニヤリと笑う。
「……そう言えば、ソロさん達と出会って姫様は変わられました」
クリフトはゆらゆらと揺れる水面を眺めながら言った。
「姫様はもしやソロさんの事を……」
「いや……、違うと思うぞ」
ソロはチラリとクリフトを見やる。
クリフトは気付いていない。ソロ達一行に加わって変わったのは寧ろクリフトの方である。また勘の鋭い彼は、アリーナが誰を見ているのかも大方理解っていた。
全ての原因はお前だ。ソロはそう言おうとしたが、彼の言葉を待ってみる。
「一国の王女は勇者に恋をするのが相場と決まっております」
「そうか?」
「ソロさんは姫様の事をどうお思いですか」
「心配するな。あれはそういう対象にはならん」
「あれとは何て言い草です、」
「あぁ、すまん」
ソロは笑いをかみ殺して答えていた。
「そんな心配するなって」
「……」
心配するな、という言葉。
クリフトは、まずこれに己の心理を読まれたような気がして慌てた。自分が密かに思い悩んでいる葛藤と不安を見破られたようで、思わず身体を緊張させる。
そして次に聞いた「対象にならない」という言葉には、少々の安堵と疑問を残らせた。
「それは何故、」
クリフトはまるで相槌を打つかの如く理由を聞いていた。
「人間として規格外」
「ど、どういう意味ですか」
ソロは大きく頭を振り、深碧の髪に浸る雫を払いながら答える。クリフトを嘲笑って歪む口元が彼らしい。
「俺は俺より強い女はダメだ」
そうして髪を掻きあげると、彼はクリフトの居る湯船に足を入れた。
「あの強さは半端じゃねぇだろ。あれは将来魔王にでもなるつもりか?」
「、それは言い過ぎです」
クリフトがムッとして眉を顰める隣で、ソロはさぶんと音を立てて湯を波立たせた。
熱い湯に浸り、ソロは深く息を吐く。
「それに俺は……」
言いかけて口を閉ざす。
ふいに幼馴染の少女の姿が脳裏を過ったが、これを言うには心が痛い。
「ソロさんはそうお思いでしょうが……」
ソロが顎まで水面に沈むと、隣のクリフトは立ち上がって湯より出る。
「お? 出るか?」
「これでも上せたくらいです」
「おう」
クリフトはそのまま背を向けて脱衣所へと向かい、ソロと目を合わせることなく出て行く。
ソロは横目にそれを見送ると、扉の閉まる音の後に吹きだした。
「……ハンモン(煩悶)してやがんの」
最近は自分でも驚くくらい感情を出すようになってきた。
クリフトは濡れ髪にタオルを当てて無造作に乾かす。湯気の立つ身体を晒し、暫し脱衣所で立ち呆けていた。
「……参った」
ソロ達勇者一行と旅を共にするようになってからは、アリーナを客観的に見れるようになるだろうと思っていた。彼女が自国の姫君だからといって、何事をも彼女優先にさせる訳にはいかない。導かれし者の一人として、アリーナはこのパーティーの中では「仲間」の目で扱わなくてはならなかった。
しかし、それが今度は「女性」として見てしまう機会を多く作るだけになってしまっている。
アリーナは最近になって益々綺麗になった。「外の景色が見たい」と遠足気分で旅を始めた頃には見せなかった、女らしい表情を見せるようになった。時折に戸惑いの色や憂いた顔を覗かせたときは、胸が張り裂けるかと思うほど。
この前などは、迂闊にも眠るアリーナに唇を落としていた。理性ではもう歯止めが利かなくなっているのだろうか。彼女の柔らかい唇に触れてはじめて己の衝動に気付き、死ぬかと思うくらいに慌てていた。
(……でも、あんなに可愛らしい寝顔を見せられたら仕方ない)
どうしようもない言い訳しか思いつかない自分に嫌気がさしてくる。
クリフトは頭を垂れ、タオルで顔を隠した。
その頃のアリーナはと言えば、ベッドに潜り込んで己の悶々とした感情と戦っていた。しかし、彼女の得意とする格闘技のように単純に決着がつくものではない。結局このような感情は、もがくだけで何も出来ないもので。
「もー!」
頭を切り替えよう。全てがうまくいかないときは、心身を清めて改めるべきだ。
アリーナは心の中で力強く肯いた。
「よしっ! お風呂入ってこよう!」
アリーナは大きな声でそう叫ぶと、勢いよくベッドより跳ね起きる。部屋を駆け出て、隣の部屋に居る筈のミネアに扉越しに声を掛けた。
「ミネア姉様! “地獄の湯”に入ってくるねっ!」
廊下を一目散に走り抜けたので、その後のミネアが慌てて放った言葉は聞こえなかった。
「アリーナ! 今は男性湯の時間ですよ!」
瞬く間にアリーナの足音は去り、ミネアの心配をよそに彼女はアネイルの秘湯“地獄の湯”の前に着いていた。
(気合入れて地獄にでも何でも浸かってやろうじゃないの!)
そうしてアリーナは大きな音を立てて扉を開く。ガラリ。
すると。
「・・・・・・・・・・・・・」
仁王立ちに構えたアリーナの目の前には、タオルを頭に被せただけのクリフトが居た。
艶やかな蒼髪を覗かせ振り向いた彼もまた、声にならない驚きを発している。
「・・・・・・・・・・・・・」
これがほんの僅かな一瞬の事だったのか、それとも途方もなく長い時間の出来事だったのかは分からない。
もしくは、二人の時間は止まっていたのかもしれない。
「お、クリフト。お前まだ服着てないのか」
ただ、ソロが湯からあがり、脱衣所の扉を開けたときにアリーナの姿はなかった。
「どうした?」
彼が見たのは、もはや世紀末とも言える諤々とした表情を見せる裸のクリフトのみ。
ソロが不思議に思ってクリフトの顔を覗いてみれば、彼は肩を微動させ、誰に言うわけでもなく譫言を呟いていた。
「み、見られた……」
「……見ちゃった……」
アリーナは無我夢中で廊下を駆けていた。
ミネアの部屋に飛び込み、居合わせたマーニャに「馬鹿ねぇ」と笑われると同時に、彼女は驚きを露にして言葉を走らせる。
扉を開けたらクリフトが居たこと。彼が裸だったこと。濡れ髪をタオルで覆い、音に振り向いてこちらを見たこと。暫し固まるように視線を合わせていたこと。
それは殆んど言葉になっていなかった。ただ喚くアリーナの当惑ぶりに、二人は呆気に取られて眺めている。
「見ちゃったよう!」
「どこまで見ちゃったんですか」
ミネアが冷静に尋ねる。
「多分……全部……」
アリーナは頬を赤らめた。
これに甲高い嘆声をあげて跳ね上がったのはマーニャの方。彼女はさも面白そうに身を乗り出し、アリーナに畳み掛ける。
「どうだった? どんなのだった?」
「ど、どんなのって……」
「立派だったとか、並みだったとか、あるじゃない」
「なに、それ……」
「大きさもだけど、色とか形とか、自分との相性とかね? ほら、」
「姉さん!」
卑猥な笑みを浮かべてにじり寄るマーニャをミネアが制する。
「……ねぇ、アリーナ。裸だったのはクリフトさんの方でしょ? だからきっとクリフトさんの方が恥ずかしいに違いないわ」
「……う、うん……」
「アリーナは彼に謝らなくちゃ」
「……うん」
「ね?」
「、うん」
今や顔中を真っ赤にして俯くアリーナに、ミネアは諭すように優しく言った。
確かに、入浴時間を間違えて脱衣所に押し入ったのは自分で、裸を見たのも自分のほう。それを何も言わずに出てきて、クリフトはどう思っただろうか。
「……男の人だって、裸を見られるのはイヤだよね」
「えぇ」
「そうよー。男だって標準時のモノはなかなか自信もって見せられないでしょ」
「姉さんっ!!!」
マーニャが再び口を挟んで叱られる。
こんなモグラ叩きのような会話にももう慣れたが、アリーナは二人のやりとりを見て肯くと、前を向いてかたい口調で言った。
「私……、クリフトに、ごめんなさいって言わなきゃ」
脱力したクリフトにやっとの思いで服を着せ、半ば引きずるように脱衣所から連れ出したソロは、売店で買ったコーヒー牛乳を差し出して声をかけていた。
「そんな落ち込むなよ」
渡された瓶に口もつけず、クリフトは肩を落として言った。
「冗談ではないんですよ」
ソロはその姿に苦笑に満ちた溜息をつくと、腰に手を当てて一気にコーヒー牛乳を咽喉に流し込む。
「で、何処まで見られた」
「多分……全部、です……」
「……あれもか」
「……あれもです」
手にした牛乳瓶を虚ろに見つめ、死んだように落ち込むクリフト。ソロは彼の背中を叩いて、笑って言った。
「まぁ、見られても大丈夫な大きさだったんだろ」
「そういう問題ではありません」
クリフトは、ソロの軽率な言動に少々怒気を含ませながら返事をしていた。彼をたしなめるような口調を表に出すことで、その後に自身が「縮んだ」ことは伏せておいた。
キッと強い視線で睨まれたソロは、面食らって肩をすくめる。
「ま、いずれ見せるもんだ。早くて良かったな」
それにしてもソロはフォローの仕方というものを知らないらしい。
「あなたは何を言っているのですか」
いい加減クリフトは苛立ちに顔を上げはじめる。
見ればソロは、まるで機嫌を損ねた子供をあやすかのような視線を注いでいた。
「クリフト、お前が落ち込む気持ちも理解かるけどな、」
濡れて束になった前髪の隙間より覗くクリフトの上目に、彼は確りとした口調で言う。
「アリーナだって驚いたと思うぞ」
「……」
男の裸なんて、きっと初めて見ただろう。
それもアリーナは見たくて見たのではない。入浴時間を間違え、張り紙を読みもせずに乗り込んできた彼女は確かに不注意であった。しかしそうかと言って、見られたクリフトばかりが被害妄想に駆られて落ち込んでいるのは。
「お前がそんなじゃ、アリーナがへこむぞ」
「……」
暫くしてクリフトが立ち上がる。
「……そうですね。その通りです」
私が事なきを構えてさえいれば、姫様とて。
そう自らを立て直してクリフトが腹を据えた。
「姫様にこれ以上ご迷惑をかけてはなりませんね。戻りましょう」
彼が笑顔を振り絞った、その時。
「クリフト」
少し離れた所で、アリーナが二人の様子を伺いにやってきていた。
「ひ、姫様……」
見れば彼女は非常に気まずそうに、しかし何かを言いたげに俯いている。二人との距離をなかなか縮めることも出来ず、もじもじと足を止めていた。
彼女の姿をとらえたクリフトは、自分でも無意識に両手で身を隠して慌てていた。もはや服を着ているというのに。
「……おっ、と……」
気まずい場面に出くわした。
ソロは何かに気付いたフリをして頭に手をやると、まだ乾ききっていない髪をクシャクシャとさせながら、よそよそしく言い始める。
「じゃ、俺はこれで」
「ソ、ソロさん」
急用を思い出したと嘘を繕い、まるで逃げるようにソロはその場より消えた。
(ソロさん、ひどい)
クリフトは恨みの視線で彼の消えた先の廊下を見つめる。
それと同時に、この場に取り残された己とアリーナの微妙な雰囲気を感じ取って、彼は言葉を失くしてしまった。
「クリフト、あのね……」
アリーナが申し訳なさそうに話しかけてくる。
クリフトは少々ぎこちない態度でその声に振り向いた。
「え、あー、姫様。 ……コーヒー牛乳はいかがですか」
「うん……ありがと……」
クリフトが売店の棚より新たに瓶を取り差し出すと、アリーナは小さく頷いて受け取った。
「……」
「……」
長椅子に二人で越しかけ、しばし無言でコーヒー牛乳を飲む。
コクリ、コクリと小さな口で飲み継ぎ、アリーナは半分ほどになったところで口を開いた。
「その……、ご、ごめんね」
何を謝っているのかは理解る。
「い、いえ……こちらこそお見苦しいものを……」
「……う、ううん……」
二人の頬が同時に桃色に染め上がった。
クリフトはごほん、ごほんと咳払いすると、聞きにくそうにアリーナに尋ねる。
「そ、それでですね、」
自分の中では確かめたい、いや縋りたい気持ちだった。
「……あの、何処まで目に入りましたか……?」
「……」
アリーナが言いにくそうに口を噤んでいると、クリフトは恐る恐る尋ねた。
「ぜ、全部ですか……?」
尤も、クリフトにとって確認したい事はひとつしかなく、「肝心な部位」が見られてしまったかどうかでしかない。しかしそれを口にすることは憚られ、彼は敢えて「全部」と言っていた。
「……」
しかしアリーナは答えない。
「そ、そうですか……」
クリフトはこれで全てを悟った。唯一の希望の光は失したと。
自分でも覚悟はしていたが、無言の「是」と確認した今の衝撃は予想以上だった。
「ク、クリフト、あのね」
クリフトががっくりと肩を落とすと、アリーナは慌てて口を動かす。
「全部って言っても、ちょっとしか見えなかったよ! タオル被ってたし! 一瞬だったし! ほんのちょっとだから、全然っ、その、全然……ね……?」
「……」
彼の前で懸命に手を振って言うアリーナは、戸惑いに満ちながらもクリフトを慰めているよう。顔を朱に火照らせながらも精一杯に笑顔を繕うその姿は、優しさに溢れていて。
「……」
そう、彼女を困らせているのは自分だ。
クリフトは脱力感に打ち拉がれながらも、これ以上彼女に迷惑をかけてはならないと思った。
「私の事は、どうかお気になさらないで下さい」
クリフトは笑顔を繕った。
「クリフト、ごめんね。恥ずかしかったよね」
「いいえ、姫様こそ驚いたでしょう」
二人、言い合う。
「もう、私ったら向こう見ずだから、時間も確かめずに」
「私こそ手早く服を着ていれば、姫様にご迷惑などおかけしなかったものを」
「クリフトは悪くないよ。悪いのは私」
「いいえ。姫様は悪くありません」
「ううん、違うよ」
「いいえ、そうです」
交互に言葉が重なって、互いに赤い頬を見せ合って。
「……」
「……」
そうして一生懸命に相手を庇い合うやりとりに気付き始めた頃には、二人の顔に自然と笑みが零れていた。
「……これじゃ堂々巡りだよ」
「……そうですね」
クスリとアリーナが小さく笑うと、クリフトはようやく安堵の微笑を見せた。
売店の返却棚には、飲み干した瓶が二つ。寄り添うように仲良く並んでいる。
クリフトとアリーナは互いに口を閉ざし、少し恥ずかしそうにそれを眺めていた。
「……でも良かった」
あぁ、と息を吐き出して、彼は己自身に対する感想じみた言葉を吐く。
「姫様に嫌われると思っていました」
「私が?」
裸を見たからといって、クリフトを嫌いになる筈がない。
アリーナは驚いてクリフトを見た。
目一杯に否定を表した瞳で見つめられたクリフトは、嬉しそうに苦笑を交えてふんわりと微笑む。
「嫌われたらどうしようかと、心配しておりました」
「……」
アリーナの心臓がドクンと波打った。
少々に当惑を含む、でも朗らかな笑顔。時折これに目を見張るような色気が挿すのだが、今の破顔がそれだ。戸惑いの微笑の奥に潜み、それでいて強烈な色香を薫らせる美が漂う。
見つめられた瞬間、アリーナは鼓動を早くさせて全身を火照らせた。胸の高揚が止まらない。
「……」
それに。
(……ねぇ、今……クリフト……)
クリフトの今の台詞。
(私に嫌われないか心配してて、嫌われなくて良かったって、)
それはどういう意味?
自惚れでなく、自分の期待する通りの言葉なのか、それとも。
「クリフト」
アリーナは今や顔中を真っ赤にして、高鳴る心臓を押さえて言っていた。
「……聞いても、いいかな……」
「? 何でしょうか」
クリフトは優しい笑顔でアリーナの質問を待っている。
それが分かると、アリーナは咽喉元に言葉が詰まって、息が苦しくなる。唇が震えてしまう。
そう、この唇が。
「……」
(聞いて良いのか理解らない。だけど、今、ものすごく聞いてみたい)
熱を帯びた唇に、あの感触が蘇る。
クリフトの柔らかい唇の、心地よい感触が。
とても優しかった、あの口付けが。
「あのね、」
あなたの「嫌われたくない」と思う気持ちは。
こっそりとおやすみのキスをくれたのは。
温泉イチゴ
アリーナの唇が、ゆっくりと、開いた。
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【あとがき】 |
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夢というものは、それは色々なモノを見せてくれるのですが、
経験したことのない五感の刺激を与えてくれることはあんまりなくて。
キス経験のない乙女に、その味を教えてはくれないと思ってます。
それは恋も同様で。
「恋がイチゴのように甘酸っぱいもの」だということは、
恋を経験しないと分からないもので。教えてくれるものではない。
マーニャ姐様がチラッと呟いた言葉は、そういう意味です。
こちらは投票に参加してくださった皆様に☆
感謝を込めてお捧げします。ありがとうございました♪
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