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昔はよく泣きながら教会に駆け込んできた貴女が、
涙一つ見せなくなったのは何時からの事だろう。
強くなったからだとばかり思っていた私は、
なんと愚かしい間違いをしていたのだろうか。
 
 
 
/niji
 
 
 
 人の姿を消した空城のサントハイムは、次に足を踏み入れた時には魔物の城と化していた。我が物顔に城内を闊歩する魔物達をなぎ払い、王宮出身の三人は玉座の間へと辿り着く。
 扉を開けて直ぐ瞳に映る惨状。恐れていたことが目の前に飛び込む。
「!」
 本来の主人を失った玉座はモンスターに踏み躙られ、惨憺たる姿を成してそこにあった。嘗ての威信を失い埃を被った今はベンガルが踏ん反り返って座っている。
……そこはお父様の、」
 アリーナはその猛々しいベンガルと視線をぶつけた。彼は久々の獲物に鋭い牙を剥き出し、柔らかそうな肉に涎を垂らして不敵に笑う。
 モンスターの挑発を受けたアリーナは、拳を握って飛び出した。惨たらしく千切れた赤い絨毯を一直線に、単身駆け出す彼女の激情を「危ない」とクリフトが制した時、二人の隣を冷たい殺気が横切った。刹那、息の止まる程の冷気がブライの杖から放たれたのである。
「無礼者め」
 それはまるで青い炎。玉座を蹂躙するベンガルは一瞬にして氷の砂と化して消えた。
 冷静沈着な老魔法使いの怒りを初めて目にする。今しがた頬を掠めていった凍てつく氷の刃に、クリフトは底冷えするほどの彼の忠誠を見た。己の年輪の大半を王宮に捧げたブライである。杖を構えた横顔は、突き刺さんばかりの鋭い眼光で王の間を見据え、仇敵を探していた。
 バルザックの姿は見えない。どうやら城を空けているようだ。
……
 でなければベンガルが玉座に横臥してはいなかっただろう。勇者を含めた一行は機を逸したと唇を噛んで王宮より出る。倒すべき相手が居ない此処に長居しても体力を削るだけだ。まして此処が故郷である三人にとっては苦痛以外の何物でもない。ここに棲みついた魔物の全てを殲滅すると血気はやるアリーナを抑え、メンバーは魔城と変わり果てたサントハイムを後にした。
……
 クリフトは去り際に振り返って城を眺める。
 嘗ては屈強の衛兵が両側に控えていた王宮の門も、今や朽ちて閉まることはない。季節の花が生い茂っていた美しい景色は一変し、醜い蜘蛛の巣を張り巡らせた中を毒蛇が這っている。もはや己の知るサントハイムは消えたと思った。クリフトは崩れ落ちそうな門を静かに抜けると、前を歩くアリーナの背を見つめた。
……
 既に他の仲間は去った。先程マヒャドを放ったブライは、あれ以来一言も口を利かずに馬車に乗り込み、アリーナもまた振り向くことなく馬車の後を追う。
 独りサントハイムを眺めて足を止めたクリフトに気付いたアリーナは、居城に背を向けたまま立ち止まって彼の名を呼んだ。
「クリフト」
 彼を促す声が滲んでいる。
 顔を見せず言う彼女は、彼の方向に振り向けないのだ。醜貌を晒した居城を見れず、怒りと悲しみに耐えている。屈辱を抑えるのに精一杯で、喉元を通った声は身体と同じく震えていた。
 凍えるような主君の声を聞いたクリフトは、無礼を承知でその小さな背に言う。
「泣かないで下さい」
「泣いてなんかないわ」
 咄嗟に否定の言葉が返されたが、まだまだ幼い少女の瞳は潤んでいるに違いない。事実、彼女の声は昂ぶる感情に揺れていた。
「今は涙を見せる時ではありません」
「泣いてないったら、」
 否定の言葉を聞いても、クリフトは更に続けた。
「泣いてしまえば、認めたことになってしまう」
 静かな低音がアリーナの耳に届く。
 堪えていた彼女はクリフトの声に肩をいからせ、彼の発言を振るい捨てるように拳を握って言い捨てた。
「じゃあどうしたらいいのよ!」
 アリーナの叫びが虚空に響く。
「どうしたら!」
 叩きつけるように乱暴に吐かれた問いにクリフトが口を開こうとした時、背後から魔物の気配を感じ取る。見上げれば王宮の門上で一行の動向を見張っていたサブナックが、今しがた大声を上げたアリーナを狙って飛びかかってきた。
「姫様、」
 叫んで注意を促す間もない。
 瞬間。上からの奇襲にクリフトは剣を抜く暇もなく、ただアリーナを呼んで身体を盾に差し出すしかなかった。
 
 
 
 
 
「庇ってくれなくたって良かったのに!」
 アリーナはクリフトの背中を見て言う。利き手の肩口から走る傷は既に癒えてはいるものの、サブナックの爪痕は当時の攻撃をそのままに伝えていた。アリーナを庇って背に受けた攻撃は、彼の予想以上に深く鋭いものだった。
「すみません」
 彼女の詰るような叱責を聞いたクリフトは咄嗟に頭を掻いて謝ったが、あの時振り向いたアリーナに魔物の爪が刻まれていたとしたら、と思うと堪らない。内心では彼女の場所まで辛うじて動いた身体に感謝している。
 ただ、残った傷が今でもアリーナの表情を曇らせてしまうのが残念だった。こうして肌を晒す度に彼女の大きな瞳を俯かせてしまうのは何とも心苦しい。果てしない冒険が終わって、全ての出来事が過去の思い出となった今、背に刻まれた傷跡だけが名残を留めている。
 アリーナはクリフトの背に細い腕を回し、薄く皮の張ったそこを慈しむように撫でて呟いた。
「私、何度もクリフトを傷付けたね」
 自分が負う筈の傷を彼が代わりに受けただけではない。強さに対する己の無知故に、クリフトの弱さを詰ったこともあれば、彼の援護を否定したこともあった。彼の手を振り払ったことは何度もある。
 痕の残らない傷も、見えない心の傷も。無意識であれ故意であれ、自分は幾度となく彼を傷つけたに違いない。
「クリフトの気持ちも考えずに、ごめんね」
「、そんな事は」
 そして自分が最もクリフトを傷つけていたのは、感情の幼さ故に彼の気持ちに気付かなかったことだろう。クリフトの秘めた積年の恋にようやく気付いたのは冒険も中盤に差し掛かっていた頃だろうか、しかしアリーナはそれでも気付かぬふりをして彼を避けていた。そんな自らの態度がどれだけ彼を悩ませ傷付けたかと思うと、アリーナは後悔に胸を締められる。
「せめてこういう傷は私が受けるべきだった」
 癒す術を持たぬ自分に出来ることは数多くない。目に見えて直接身体を刻む傷ならば、せめて打たれ強い自分が代わりたかった。
「この傷だって……クリフトが受けるものじゃなかった」
「まさか」
 これを聞いたクリフトは、胸の中のアリーナを抱き締めて言う。
「あの時傷ついたのは私ではありません」
 己の懐にすっぽりと納まる小さな身体を慈しむように腕に包み、クリフトは柔らかい微笑を湛えた。
「貴女の心です」
 アリーナを守ろうとして飛び出した背にサブナックの鋭い爪が深々と走り、鮮血が滴る。衝撃と共に激痛が肉体を裂き、不意を突かれた痛恨の一撃に視界が歪んだ時、クリフトはアリーナの表情を見た。
 驚愕の色を浮かべて己の名を呼び、飛び散る血の赤を見た彼女は泣いていたのだ。大きな瞳に涙こそ見せはしなかったものの、畳み掛ける苦痛は彼女を限界まで追い詰めていたに違いない。
 父王が不在になった当時、次代の王としての責を負うアリーナに対し「泣くな」と己は言った。しかし、まだこんな幼い少女に背負わせるものではなかった。あまりに酷な事を強いた。
……クリフトはいつもそう」
 聞いてアリーナは首を振る。
「いつもそうやって自分が」
 今までも、そしてこれからも。クリフトは永遠に自分を庇い続ける。そうして傷を負い、さして深手でない自分を優先して回復に回る。
 それが彼の性格であり性質であり、アリーナに対する想いなのであるが、その結果として彼は酷く傷つく。今も背に残る爪痕はその証だ。こうして肌を合わせる度にアリーナは彼の優しさと切なさを感じて涙が溢れそうになる。
 クリフトは瞳を震わせて胸に埋もれるアリーナの髪を撫で、静かな声で言った。
「今は泣いてください」
 胸元の彼女の耳に唇を寄せ、クリフトの低音がゆっくりと響く。
「全てが終わって平和になった今は構いません」
 アリーナを守りこそすれ甘やかしはしなかったクリフト。泣いても良いなどと彼が言うとは思わなかったアリーナは、顔を上げてクリフトを見つめる。
「でなければ貴女の涙が拭えない」
 アリーナの瞳に映ったクリフトは、穏やかな佳顔を湛えて言っていた。
 
 
 
 泣けなかった貴女は、傷だらけの心に血を流されていたことでしょう。
 しかし全てを乗り越えた今は、どうか涙で洗い流して癒してください。
 その傷は、私の魔力では治せないものだから。
 
 
 
「クリフトって何気に気障な事言うのね」
「貴女の前だけですよ」
 アリーナは冗談っぽく笑って言う。そうして緩んだ目尻よりひとつ、ふたつと雫が頬を伝い、クリフトは塩味のするそれをそっと唇で吸い取って、慈しむように彼女を抱いた。
 
 
 
 
 
/niji
 
 
 
 どうか泣いてください。
 頬を伝った涙の跡は、貴女の中で虹になるから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【あとがき】 愛する人を泣かせたくはないけど、
愛する人の涙を拭うのは自分でありたい。
そんな矛盾を抱えてるクリフトは、結局女泣かせの色男。
 
今回のクリフトはそんな感じを目指してみました。
(そして失敗)
 
 
 
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