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およそ被造物の全ての自然素質[Naturanlage]は、
いつかは完全に合目的的に開展されるように規定されている。
[Kant:Abhandlungen nach 1781,S.18]
クリフトは聖典に目を通しながらも、机の向こう側のソファに佇む恋人の姿が気になって仕方なかった。
「……申し訳ありません」
「いいの。私が勝手に入って来たんだし」
杯に注がれた葡萄酒を手に何をするわけでもなく座る彼女が、先程から己の走らせる羽ペンの先を見つめていることには気付いている。そして内心ではそれが止まることを期待しているということも。
「邪魔じゃない?」
「えぇ」
小首を傾げて窺う彼女は、それでも満足そうに見つめてくる。アリーナが今手にしている杯は、今朝クリフトが取り仕切った聖餐式にて聖別されたもの。彼女はその時の彼の姿を思い出しながら柔らかい微笑を湛えて言った。
「お仕事してる時のクリフトってかっこいいよね」
「そ、そうですか?」
「うん」
聖酒を含んで唇を濡らしたアリーナは愛おしそうにクリフトを眺める。
今は夜。燭台の灯に照らされたクリフトが書物に向ける視線は、アリーナに対して注がれるそれとは別の情熱を持っている。更に今日は、この後聖堂において聖職者による聖典編纂が行われるとあり、机に向かう彼の真剣はいつにも増していた。
「よく分からないけど、凄い」
アリーナ自身はその作業がどれ程の知識と素養、識見や造詣を必要とするかは知らない。神官学校を主席で卒業した彼が未だ篤学に勤しまなくてはならないというのなら、余程だろうとは思う。
「そろそろ時間かな」
彼女はテーブルに置いてあったクリフトの懐中時計を覗いて言う。
彼が自室を離れるならば、自分もまた此処を出て階上の部屋に戻らねばならない。アリーナは残りの葡萄酒を勢いよく飲み干し、ソファより立ち上がった。
「……何のお構いも出来ず、」
咄嗟に謝辞の出るクリフトを制し、アリーナは杯についた口紅を拭った。
「ううん。いいの」
冒険を終えた今はずっと傍に居られるわけではない。こうして彼の部屋に来て姿を見るだけでも幸せな時がある。人目を忍んで逢瀬を重ねることもあるが、時が経つにつれそれも難くなってきたのはお互いに感じており、仕方ないとは言い聞かせているのだが。
「見てるだけで良かったから」
それで十分、とアリーナは努めて笑顔でそう言った。
「、お待ちを」
クリフトは慌てて椅子より立って部屋を出ようとするアリーナを呼ぶ。ドアノブに手を掛けた彼女の肩に手を置いて振り返らせ、傍に寄る。
「クリフト、」
「姫様」
せめて夜の挨拶を。
クリフトはアリーナの身体を引き寄せて彼女の瞳を覗き込むと、細い顎に指を掛けて持ち上げた。
彼女に触れて、瞳を合わせて。彼女に忠実なる愛を伝えたい。クリフトが静かに唇を寄せると、次の行為に気付いたアリーナは身を竦めて躊躇った。
「キ、キスは駄目……、」
自分の身体を覆い包もうとするクリフトの腕より逃れるように、アリーナは彼の胸元に両手を当てて押し戻そうとする。勿論彼女であればクリフトを壁向こうまで張り飛ばす力もあるだろうに、しかしその抵抗は彼女の戸惑いを表す如く弱々しいものだった。
「姫様?」
「キス、しないで……」
普段でもキスの直前は恥らう事の未だ多いアリーナだが、今夜の態度は些か過敏すぎる。頬を桃色に染めて困惑する彼女を見るのは、実は密かに男の性を擽られるのだが、嫌がる彼女に無理強いするのは本意でない。
「いけませんか?」
戸惑いの唇に駆り立てられる己を押し留め、クリフトは彼女の許しを請う。主従の関係を越えた今も、彼は男としてアリーナの同意を求めるのは当然だと思っていた。
「……」
「ただのご挨拶も?」
「……」
本気で拒んでいるわけではないだろう。では何故?
クリフトはやや抱擁の強さを解いて彼女の顔を窺うと、アリーナは可愛らしく首を左右に振って「あのね、」と言葉を濁らせていた。
「嫌じゃないけど……」
「えぇ」
クリフトの優しい低音が彼女の返事を待つ。
「キ、キスすると……止まらなくなるから、」
アリーナは顔中を朱に染めて言う。
「さ、最後まで……」
「……」
キス以上を知った身体は、唇の交接で宿る熱を互いの肉体で分かち合う術を得ている。じゃれあうだけの軽いキスが、やがて深さを求めて咥内を侵し、想いと共に火照る肉体を絡め合うことになる。その熱さと激しさはとても恥ずかしくて口には出せない。
「……」
「……」
クリフトは身を小さくして強張らせたアリーナを見て「確かに」と呟くと、これを聞いたアリーナは更に頬を染めて俯いた。
成程アリーナを求める時の自分は狂っている。獣の雄のように猛々しく、貪欲に狡猾に彼女の女を屠る。彼女の本当の美しさといじらしさ、存在の全てを味わった自分は、その唇だけでは満たされないことを重々理解していた。
「いつもはそうかもしれませんが」
しかし今夜は自戒が働いている。後に控えるものがある以上、今の状況では彼女を堪能したいという欲望は抑えられている。
「そんな気はありませんよ。ただのご挨拶です」
幼子をあやすように優しく、クリフトはアリーナの髪を撫でて言った。努めて丁寧に言うことで己の性を抑制し、彼女の緊張を解く。
「そうじゃなくて……」
「?」
それでもアリーナは首を左右に振るばかり。
「クリフトじゃなくて」
アリーナはぎゅっと瞳を閉じて口を開いた。
「私が……」
私の方が。
アリーナはクリフトの胸元に添えた拳を握り、恥じらいながらも必死にそう訴える。
「……」
この方は、ご自分にどれだけの魅力があるのか気付いておられるだろうか。クリフトは内心で眩暈を起こしそうになるほどの強烈な誘惑に頭を抱えた。瞳を伏せて身じろぐアリーナは無自覚にも艶めいて、己の本能をこうも掻き立てる。
しかし、こんなに嬉しいことはない。
クリフトはふっと笑ってアリーナを覗き込むと、悪戯っぽく言ってみせた。
「仕事をする気が失せてまいりました」
「し、してよ」
「どちらを?」
「! ……し、仕事の方だよ」
唇を尖らせて言う姿がいじらしい。
「理解りました」
クリフトはそう言うとアリーナの唇を咄嗟に塞ぎ、そのまま深く深く彼女を堪能した。
「っ、」
突然振り落ちた口付けに一瞬身構えたアリーナも、痺れるような甘く長い口付けにやがて弛緩し、支える力を奪われた細い身体は次第に彼の胸中へと預けられる。彼女を完全なる支配下に敷いたクリフトは、そこでようやく強いキスから彼女を解き放った。
「……クリフト、」
駄目だと言ったのに。
アリーナは詰るような声で名前を呼んだが、甘い溜め息を交じらせたそれは戒めにならない。目元を赤らめて上目見るアリーナは、その躊躇いの表情は、クリフトの悪戯な心を甘美に擽る極上のもの。
(余計にそそられる)
クリフトは胸元の彼女に向かって心中呟くと、己もまた誘うような瞳で愛する少女に提案を持ちかけていた。
「ここでお待ちいただけますか?」
身を屈めて彼女の目線になり、唇から唇に囁くように言葉を紡ぐ。
「お待ちいただけるのであれば、直ぐに済ませてまいります」
キス寸前の至近距離。僅かに唇を掠める唇がアリーナの心臓をみるみる昂揚させていく。我を失ったアリーナは、薄く開いた口の間から片言の返事を小さく発するのみ。
「う……うん……」
待ってる、という是の返事はつまり、その先を受け容れるということ。自身の言う「最後まで」を期待して待つということ。アリーナは己の返事に再び顔中を朱に染め上げる。
「ありがとうございます」
彼女の返事に満足したクリフトは、触れるか触れないかの位置でそう謝辞を述べると、間髪入れず、啄ばむようなキスを落として微笑した。
「貴女の熱が冷めないうちに戻りますから」
「、」
だから待っていて。
そう言うと彼はアリーナの抱擁を解いて颯爽と部屋より出て行った。本気で手早く片付けて来る気らしい。
「……」
アリーナは熱くなった耳より彼の靴音が小さくなっていくのを聞きながら、惚けるような溜め息を吐いてその場にへたり込んでいた。
やがてその靴音は、半刻を待たずして帰って来ることになる。
行きよりも更にその音を早めながら。
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【あとがき】 |
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冒頭は哲学者カントの言葉です。
タイトル中の「パッション」(passion)は、ある行動に駆り立てる、
自分でも制御できないほど激しい情熱の意味です。
キスしたらキスだけで終わらない、そんな感じでお願いします。
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