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「クリフト殿。無礼を承知でお開け下さい」
 真夜中、ではないだろうが、こんな夜半に書庫を訊ねる者が居るだろうか。クリフトが重厚な扉をゆっくりと開ければ、その隙間からランプを手にした汗だくの近衛兵士が身を乗り出した。
「どうされました。そんなに急いで」
「姫様が居なくなられた。そして、気絶した王子が発見された」
 クリフトは目が飛び出るかと思った。代わりに心臓が飛び跳ねた。
「宴が終わって、姫様が王子に城内を案内なさる所までは確認されております」
 近衛兵士は小声ながら早口に事態を説明する。
「部下が定期警邏に見回ったところ、廊下で完全に伸びている王子だけを発見しました」
 大方の予想はつく。迫られたアリーナが鉄拳を繰り出し、倒れた王子を置いて逃げたということか。
「王子は客間に運びました。現在、姫様を捜索中でありまして」
 足早に事態を説明した近衛兵士が、ここでようやく声を落とし、言葉を濁した。
「その、こちらに来られてはいないかと……
 近衛兵士達は、アリーナが避難先としてクリフトが入り浸る王宮の書庫を選んでいることを前々から知っていた。そこを敢えて捜索しなかったのは、彼女に対する気遣いに他ならない。
 しかし今回はこれまでの捜索とは異なる。近衛等もいよいよメスを入れねばならない事態に差し掛かっていた。
「私は夕よりこちらに居りますが、姫様は見ておりません」
「そうですか……
 近衛兵士はクリフトの背より奥に広がる書庫を見渡すと、クリフトの表情を一瞥して踵を返す。
「姫様が来られた時はお伝え下さい。国際問題になる前に、王の間へ戻るようにと」
「分かりました」
 一呼吸した後、近衛兵士は額の汗を拭って再び廊下を走っていった。クリフトは神妙な面持ちで後姿が消えるのを見送ると、扉を閉めるべきかどうか一考する。
 その時、
「クリフト」
……姫様!」
 クリフトは再び心臓が跳ね上がった。アリーナを捜索する近衛兵士を見送ったばかりだというのに、扉のすぐ前に彼女の姿を捉えたからだ。
……
 そして更に息を呑む。
 見ればアリーナの表情は、これまで見たこともない程憔悴しており、それは止まり木を手折られた小鳥か、雨に打たれた捨て猫のそれ以上に痛々しい瞳をしている。
 この距離ではクリフトと近衛兵士の一連の会話を聞いていただろう。兵士が伝えた通り、彼女は国際問題へと発展する前に、サントハイム王の前に立って説明せねばなるまい。
 だが、
……
 クリフトは無言のうちに迷わず扉を開いた。
 
 
 
 
 
 
「失礼。こちらに姫様は居られぬか」
 別の近衛兵士が切羽詰まった表情で扉を叩いた。重厚な扉をやや乱暴に叩く音は、事態が芳しくないことを物語っている。
「いいえ。先程も別の方が来られましたが、あれから何も」
「そうであったか」
 ゆっくりと扉を開けたクリフトは、再び書庫の中をぐるりと眺める兵士の視線を眺めつつ、知らぬ顔で問う。
「城内が慌しいようですが」
「うむ。サントハイム王も心配され、寝ずに待っておられる」
 時間が惜しいと、クリフトとの会話もそこそこに中断して兵士は走り去る。鎧の金属音を小刻みに鳴らして消える兵士を見送ると、クリフトは硬い面持ちのまま振り返ってアリーナを見た。
……貴方が嘘をつくところ、初めて見たわ」
 クリフトと初めて会った時、アリーナは追いかけてくる兵士達を撹乱するため彼に嘘を吐くよう命令したが、あの時のクリフトは虚言を否定した。以来、彼が嘘を言葉にするところを見たことがなかったが、その男がこれほど流暢に偽れるものかと驚きが隠せない。
 暫し新鮮な瞳で己を見るアリーナに構わず、クリフトは真剣な面持ちで口を開いた。
「此処も時間の問題です。他を探して見つからなければ、いずれ捜索が及びましょう」
 今まで兵士達が書庫の探索を行わなかったのは、此処が聖典と共にサントハイム王宮の歴史や禁忌の魔術書を揃えるからであった。蔵書目録はサントハイムの知の結晶であり、何人たりとも冒涜することは許されぬ。アリーナが書庫を隠れ家としたのは別の理由からであるが、彼女の本能的な選択は正しかった。
 しかし、不踏の聖所である此処は隠れるに易く、囲まれれば退路がない。
「ここからどうやって?」
 四方より近衛兵士が走り回る硬質な靴音を耳にしながら、アリーナは不安気に問うた。
……第12代主任司祭のノンベエ神父を御存知ですか」
「えっ、し、知らない」
 アリーナは浅学である事を咎められるかと言葉を詰まらせたが、クリフトの本題はそこではない。
「彼は非常に神を愛した徳のある神父でしたが、同時に葡萄酒をこよなく愛し、隙を見て王宮を離れては何度も酒場へと足を運んだそうです」
……?」
 クリフトは書架に囲まれた暗い通路を歩きながら、奥へ奥へと進んでいく。
「勿論、城内の出入りは門番の許可が必要ですが、彼は別の方法を考えました」
「どういう……
「サランの城下町へと続く隠し通路を掘ったのです。なんと、此処に」
 説明を続けていたクリフトの足が止まり、アリーナは彼の背にぶつかりそうになりながら前を覗いた。
「!」
「これは私しか知らない、ノンベエ神父の秘密です」
 書庫の最奥部、闇と埃で覆われた書架の間にある柱。そこにはサントハイム王家の紋章と十字が描かれたタペストリーが飾られていたが、それを捲った奥に、更に暗闇が見えた。
「隠し階段……こんな所に通路があったなんて」
 アリーナが驚くのも無理はない。酒好きの神父が密かに掘った抜け道である。王家の許可などなく、また歴代の神父すら気付かなかった衝撃の事実。書庫の隅にある古い書物を手に取る者は余程居らず、聖典の修復に携わったクリフトのみが知り得た秘密だった。
 
"葡萄酒を愛する兄弟よ 乾杯しようではないか"
 
 神父が彫ったであろう、この隠し通路を見つけた者へのメッセージ。刻印された長閑な綴りにアリーナは息を呑む。
「ここから外に出られましょう」
 クリフトは腰に差した魔法杖に光を宿すと、隠し通路の奥にある螺旋階段を照らしてアリーナの瞳を見た。
「待って。私一人で行くわ。貴方も罪に問われる」
 本能的にクリフトを頼ったアリーナだが、彼女は事態の大きさを理解していた。国際問題になる以上、彼を巻き込む訳にはいかない。
 しかしクリフトは有無を言わさぬ表情で答える。
「そのような顔の貴女を一人になどさせられますか」
 既にクリフトは右手の包帯を解き、自ら回復魔法を唱えて傷を癒している。
「怪我を? いつ?」
「戒めに痛みを残しておりましたが、事情が変わりました」
 理由は言わない。クリフトは折れていた骨が馴染むよう手首を振ると、元通りに動くことを確認して振り返る。
「わっ」
「灯りをお願いします」
 彼は魔法石に光を宿した杖をアリーナに手渡すと、両手で杖を掴んだ彼女の膝をさっと抱えて階段を下りた。
「クリフト、」
「私も通るのは初めてです。どうかお怪我のないよう」
 闇に閉ざされた螺旋階段の先をアリーナが照らし、光が導くままにクリフトが駆け下りる。
 早く、早く、ただし静かに。
 クリフトの靴音は狭い通路に低く響いたが、城内に気付く者は居ない。夜が更けて雨雲が月を厚く覆い、大気を掠める雨音が城に満ち始めていた。 
 
 
 
 

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しまった、骨折って治せないんだっけ?
       

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