§1:君に言えなくて
今日もまた夢を見る。「猜疑」 僕の足は重い枷で雁字搦めになり、もう動くことすら困難だ。 それでも進む――あの交叉点に近づくために。 あの、少年に会うために。 夢の中だというのに頬から首を伝う汗が妙にリアルだ。 まるで空気が四肢に絡みつくようで気味が悪い。 足元の青白い光は日に日に薄く、細く、頼りないものになっている。 僕は今日が『最後』だと感じ取っていた。 視覚はただ、頼りない青白い道にだけ。 聴覚は煩わしいあの笑い声に満ちている。 濃密な空気が息苦しく感じられる。 胸を喘がせてもまるで苦しくて、今にも窒息しそうだ。 頭の中を笑い声が…… 突然地面が揺れた。 青白い光が、近づく。 倒れ込んだのだと気づくまでには時間が必要だった。 僕の身体は青白く光るそこを衝撃も無く突き抜け、宙に舞った。 無力な僕はあるのかないのかわからない重力に身を任せた。 落ちている。 それだけはわかる。 もう、終わりだ。 僕は見えなくなった青白い光に別れを告げ、目を閉じた。 瞼の裏で、少年が有り得ない微笑を浮かべていた。 僕に……ではなかったけれど。 「ねぇ、聞いてる?」 「あぁ……」 生返事を返して、ドラコはドラゴンの鱗の粉末を大鍋に振り掛けた。 何より大事な魔法薬学の授業すら心あらずといった様子のドラコにパンジーは眉根を寄せる。 いつも顔に貼り付けている厭味な程綺麗な笑みは、顰め面に覆い隠されていた。 いつもドラコの後ろにくっついている二人は呑気に欠伸をしては大鍋を覗き込んでいた。 「ガリオコルネ液を取ってくださらないかしら?」 「あぁ……」 渡されたラベルを見てパンジーはため息をつく――ココモロ粒だ。 仕方なくすぐ目の前にあるガリオコルネ液を取り、10ccほど量って大鍋に入れた。 「具合が悪いの?」 「いや……そんなわけはない。」 「ドラコ?」 ドラコの視線の先にはスネイプに厭味を言われる少年の姿があった。 憎らしいほどドラコの思考を占領する少年、ハリー・ポッター。 パンジーは下唇を噛んで、スネイプが指示した通りの物を順番に大鍋に入れた。 「グリフィンドールから5点減点。ポッター、居残りたまえ。」 「……わかりました。」 上目遣いに見上げるその目が、背中を向けられた途端、ほんの一瞬だけ笑ったような気がした。 気のせいかどうか確かめるまでもなく、ハリーはもう赤毛の少年と何かを囁きあっていた。 「それでは、片付けた者から帰ってよろしい。火曜日の授業までに結果と精製法の問題をレポートにして提出すること。」 にわかざわめきが戻った教室の中をドラコは立ち上がった。 立ち塞がるように片付けるグリフィンドール生を押し退け、教座に腰掛けるスネイプの前に立った。 「先生、僕も残ってよろしいでしょうか。」 スネイプは目を細めてドラコの顔を真正面から見た。 「マルフォイ、君はよくできていたようだが?」 ニヤリと笑って言った教師にドラコはすぐに首を振った。 「いいえ、だからこそです。出来の悪いポッターに、手本を見せてやりたいんです!」 高らかにそう言うと振り返り、片付けの途中らしいハリーを睨んだ。 驚きに満ちている顔が次第に怒りを交えて険しくなる。 ざまを見ろ。 ドラコは笑いたくて仕方なかった。 怒りにゆがむ表情がドラコの心を躍らせた。 「よろしい。では片づけが終わったらそのまま残るように。」 「はい、スネイプ先生!」 意気揚々と席に戻ったドラコにパンジーが羊皮紙を渡す。 「片付けておいたわ。これ、実験のデータと結果ね、確かに渡したわ。」 「ああ、済まないな。」 羊皮紙を受け取ってそれを紙ばさみの中に差し入れたドラコは椅子に座ってニンマリと笑った。 じきにほとんどの生徒は教室から消え、スネイプ、ドラコ、ハリー……それにロンとハーマイオニーが残った。 「ウィーズリー、グレンジャー。君たちを引き止めた覚えは無いが?」 じっとりとした視線がハリーの二人の親友に注がれる。 「私もちゃんと実験は成功しました。彼でなくても、私がお手本を見せます!わざわざ彼の手を煩わせることも無いと思います。」 「ウィーズリー。これ以上減点されたくなければその小娘を連れてこの教室から出て行け。」 ハーマイオニーは真っ赤な顔になってスネイプを睨みつけた。 「行こう、ハーマイオニー……。」 その腕をロンが引き、二人分の教科書を抱えて教室を出て行った。 扉が大きな音を立てて閉ざされると空間は妙な沈黙で満ちた。 物音一つしない中、ドラコはハリーの表情を伺い見ようとしたが、その前に立ち上がったスネイプがカツカツと靴を鳴らして二人に近づいてきた。 「さて……」 品定めをするようにハリーを眺めるスネイプに乗じてドラコはハリーを見た。 挑戦的にスネイプを見上げるその目は自分に対するものと違っている気がする。 急に居心地の悪さを感じたドラコは、先生、とスネイプに声をかけた。 「先ほどやった精製法の問題を解決したやり方で薬を精製するというのはどうでしょうか?」 「なるほど。よろしい、すぐに材料を出そう。」 自ら薬品庫を開け、いくつかの薬瓶を取り出して机の上に並べる。 危険という訳ではないが、撹拌すると別の物質になってしまうものがある。 それゆえにスネイプは全ての薬品を魔法で収納したり移動させるのを禁じていた。 「期限は二時間以内だ。まあ、マルフォイがいるのなら問題は無いだろう。」 そのままスネイプは自分の研究室へと入っていった。 おそらく二時間の間に別の薬の調合でもするのだろう。 「どうしたんだ。やらないのか、ポッター?せっかく僕が手伝ってやるというのに。」 ハリーの正面に立って不遜に言い放ったドラコを無視して、小さなため息をついて薬瓶を手に取る。 「邪魔だよ、どいて。」 不機嫌な顔をくずさずに言うハリーにドラコは頬を引き攣らせた。 引き攣ったのは顔だけではない。 心臓が嫌な痙攣を起こした。 だんだん早くなる鼓動と共に顔が熱くなっていくのを感じる。 唇が震えた。 「邪魔だと?せっかく手伝ってやると言っているのに、邪魔だとは何だ?礼儀を知らないのか、ポッター!」 「そんなの君が勝手に割り込んできたんじゃないか。帰ってくれて良いよ。僕は君と実験するために残ったわけじゃないんだ。」 「何だって……もう一度言ってみろよ、ポッター!」 襟首を掴まれたハリーは不適にドラコを見返す。 そして心底嫌そうな顔をしてはき捨てるように言い放つ。 「君が邪魔だって言ったんだ。僕は君と一緒に実験するつもりはない。僕は一人で残りたかったんだよ。」 「……僕にそんな口きいて良いのか?先生に言いつけるぞ。」 ハリーはニヤリと笑った。 思わず力の緩んだドラコの手から抜け出したハリーは襟元を正しながら笑みを濃くした。 「本望だね。そしたらあの人、益々僕のことを気にしなきゃならない。僕の思惑通りってわけだ。」 ドラコは身体というからだから血が抜け出ているのではないかと思った。 それほどに血の気が引いた。 気がつけばハリーを平手で叩いていた。 不意打ちに反応できず頬に受けた衝撃で床に倒れこんだハリーを呆然と眺めて、急に焦燥感に襲われた。 「僕が悪いんじゃないぞ、お前が悪いんだ!」 騒がしさに気付いたスネイプが研究室から出てくる前に、ドラコは教室を飛び出した。 振り返らずに一気に階段を駆け上る。 まるで何かに追われるように。 陽の当たる廊下に出て初めて壁に手をついた。 心臓が激しく打ち鳴らされて煩い。 「静まれ!」 自分の鼓動を止めてしまいたかった。 鼓膜の内側から鳴り響くビートが煩わしい。 顔を上げる。 その顔は無表情に固まっている。 「何をしているんだ、僕は。」 瞬時に頭の芯までが冷えた。 「たかがポッターに、何を動揺してるんだ……たかがポッターだろ。」 ゆくりと二、三度瞬きをしてゆっくりと息を吸った。 「たかが、ポッターなんだ。」 目の前の円状に周回する廊下はまたあの夢を思い出させる。 |