「俺が死んだ時は」
ベッドに寝転んだままの叶の声が聞こえたのか、椅子に座っていた桜内は文章を追っていた視線を向けてくる。本を読むのは、随分と久しぶりだと言っていた。
そんなことを何とはなしに思い出しながら、叶はその冷たい端整な顔に微笑みかける。そうして「俺が死んだ時は、」と同じ言葉をもう一度繰り返した。
「川中には金魚を押し付けてやる。ポルシェは坂井に預けて、キドニーにはあの場所に行く権利を返してやる」
「……へえ、」
そうなのか、と頷いて本へと視線を落とした桜内に、叶は苦笑した。苦笑しながら立ち上がって、桜内の座っている椅子の後ろに立つ。そして、背中から手を回して抱きしめた。
「あんたには、何もやらない」
まるで睦言のように、耳元で囁く。桜内は少しも表情を変えず、本へと視線を落としたままで「そうか、」と頷いた。反応らしい反応はそれだけだ。予想に反しているわけでもなかったので、叶は微笑んだ。そして過去に付き合った女たちに死後の話をしたときの反応を思い出し、ふと呟く。
「生きているうちに死んだ後の話をするな、とは言わないんだな」
「死んだ後の話は、生きているうちにしか出来ないからな」
「なるほど」
ページを捲る手も文字を追う瞳も休ませないままの桜内の答えに、叶は感心したような声を出した。
「死体が動いた事はないだろう」
などと言いながら、桜内が本を閉じる。そして、その小説の類ではなさそうな本の表紙を眺める叶を見上げた。口許が小さく笑っている。
「それで、結局のところ何が言いたいんだ?」
そう言われて、叶はなんともいえない微妙な表情をその顔に浮かべた。何だろうな、と苦笑染みた笑みを浮かべると、指で桜内の目元に触れる。そして何かを確かめるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「そうだな……あんたには何もやらないから、あんたはそのことを時折思い出して俺を恨んでくれれば良い、と。そんなことを言いたかったんだ」
そうすれば、桜内は叶のことをきっと忘れない。品物はいつか消えてゆくけど、思い出もいつか消えてゆくけど、恨み辛みというものは長く残るものだから。多分、一番消えにくい感情だと言っても良いくらいに。
叶は結局、憎悪の対象であろうとも何であろうとも、彼の記憶の中にいる事が出来れば良いのだ。何て身勝手なのだろう、そう思わずにはいられなくとも。
(俺は臆病者のエゴイストだ、……今更、か)
そう考えて、叶は瞳を伏せた。呆れたような顔をしている桜内と、目が合う。慌てて顔を上げるも、桜内の手が頭に伸びてきたので、それは中途半端な位置で止まった。じぃと、真剣な瞳が叶を見つめる。
「……何を考えているのかは知らないが」
手を離して桜内が立ち上がりながら、独り言のように言う。本を自身がついさっきまで座っていた椅子の上に置くと、その場で伸びをする。そして、何かを企んでいるような顔で笑った。
「確かに多少は思い出したとしても、それでもいつかは忘れるぜ。それに俺は、多分おまえのことを恨まない」
「恨まないのか」
いささか驚いた声で叶がそう言うと、桜内は当たり前だとでも言いたげな顔で肩を竦めた。
「ただでさえ大勢の奴らに恨まれているのに、どうして自ら誰かを恨まなきゃならないんだ?」皮肉のように笑う。「第一誰かが死んだところで哀しみも喜びもしない」
「そう、か」
医師というのはこんなものなのか、それとも桜内という男が例外なのか。そんなことを考えた叶が複雑な表情で頷く。その複雑な表情の裏には、自虐的なものも含まれていた。殺し屋が何を言っているのだろう、と心のうちで苦笑する。そもそも誰かの記憶の中で鮮明に残っていたいと考えるところから、殺し屋らしくもないことだったが。
叶の内心を知りもしないだろう桜内が腕時計を見て「病院に、そろそろ行かないとな」と叶に言っているのか独り言なのかよく分からない具合に呟く。とりあえず前者だと解釈した叶は「そうか」相槌を打ちながら、桜内ほどの医者がほれ込んでいる人間を思い浮かべていた。
「それじゃあ」
「ああ」
頷いた叶がひらりと手をふってみせると、白衣を着込みながらの桜内は何をしているんだとでも言いたげな顔で苦笑した。扉に手をかけて開いたところで、ふと何かを思い出したように叶を振り返る。
何だ、と言おうとした叶に、桜内は黙れと手で示した。そして笑う。
「一つだけ教えておこう、叶」一旦区切って、「本当に恨まれたいと考えている人間は、自己申告なんてしないものだ、ってな」
「……確かに」
「ああ。だから俺がお前のことを忘れるその瞬間まで、俺の記憶の中でのお前は、変で良い友達だったってことになってるだろう」
神妙な顔で唸るように言った叶に、桜内は呆れたような顔を向けて、同じ感情を存分に表す声で言葉を紡ぐ。そして今度こそそれじゃあな、と叶に背中を向けて、今度こそ病院へと出かけていった。
その背を見送った叶は、息を吐く。そして「何があっても友達どまりなのか……」と、桜内がいれば何を言ってるんだお前と蔑みを含んだ目で見られそうなことを、真剣な表情で呟いた。