「坂井に」
普段は白い手袋に包まれているブロンズの左手を眺めながら、下村は呟いた。ベストを脱ごうとしていた坂井はその声に手を止めて、問う。
「俺に、何だ?」
「俺を足すと、どうなるんだろう」
酷く静かな声で言った下村は、視線を坂井に合わせるとちらりと口許だけで笑った。
「俺から坂井を引くと、どうなるんだろう」
「何を、言ってるんだ」
「そんなことを、考えていた」
坂井は瞳を伏せた下村を、呆れたような顔で見た。
「そんなことを考えていたら、切なくなった」
「……馬鹿だろう、お前」
「そうかもしれない」
どこか切なげに笑って見せた下村を見て、坂井は深く溜息をつく。脱ぎかけていたベストを脱いでロッカーの中にきちんと戻すと、立ち竦んでいる下村を引き寄せて抱きしめる。背は坂井の方が高い。
子供をあやすようにぽんぽんと背中を叩いてやると、下村は坂井の肩に顔を埋めて縋るように背中に手を回した。力が入りすぎていて、少し痛い。
「俺からお前は引けないし、足せないだろ。俺は俺でお前はお前なんだからな、下村」
坂井の言葉に、下村はうん、だかああ、だか分からない声を上げた。手の力が緩む。安心したのだろうかと思って、坂井は微笑して下村の頭に手を置いた。
これじゃあまるきり何かに怯えている子供をあやしつける保父か何かだ、そう思って坂井は小さく苦笑した。下村は時折、酷く死を恐れているような言動をすることがある。その時は、精神的なものが不安定になっている時らしい。人肌でも恋しくなるのかもしれない。
だからその時は必ず、坂井が抱きしめてやって大丈夫だと囁くのだ。呟きに答えて、俺がいると言う。それだけで大分安定する。
もうそろそろ30にもなろう男二人が何をしているんだろうと思わなくもないのだけれど、その辺りは惚れた弱みというやつだ。寧ろ、惚れられた弱みと言ったほうが正しいかもしれない。
足し算や引き算、人間同士でそんなことが出来るとは思ってはいない。それでも坂井は、ふと思い出すことがある。あの時の言葉を。俺からお前を引いたらどうなるだろう、そう言った下村の声を。
引く、というのはどういうことだろう。足し算は何がしかの感情が芽生えた時として、引き算は。傍にその人がいなくなった時のことだろうか。今の坂井のような状況を、示すのだろうか。
(下村、)
お前は何が言いたかった。口の中で呟く。
色々あったことが全部片付いた最近は、物事を考える事が多くなったような気がする。
ここでは、人が死にすぎた。結局坂井がこのN市に訪れた時から変わらない面というのは、川中と宇野くらいのものだ。たくさんの人が訪れて、そしてその分、血が流れてしまった。下村も、結局死んでしまった。
命とは儚いものだと、刑務所にいる時よりも深くここでしみじみと考えた。考えたと言うより、ようやっと理解出来たと言った方が正しいかもしれない。残される苦しみなんてものは、藤木が死ぬ時まで想像をすることさえなかった。
もしも自分の傍からその人が離れる事を引き算に例えたのなら。坂井は足し算が間に合わないくらい、引き算をしてきた。結果的にはマイナスだ。
そして坂井から下村を引き算した結果は、坂井にも未だに分からない。辛いのか痛いのか悲しいのか、それともまさか、嬉しいのか。そんな風に数ある感情を全てはめ合わせてみても、ぴたりと当てはまる答えが見つからない。
そこまで考えて、坂井は自嘲でもするように唇を上げた。答えが見つかったところで、それが正解だと誰が言うのだろう。答えを知っていたはずの下村は、死んでしまったのに。
そもそも下村の考えは坂井の想像の斜め上を突っ走ることが多々あったのだ。だからおそらく、坂井がどれだけ考えても下村の言わんとしていたことなどはかけらも分からないだろう。考えるだけ無駄というやつだ。
だけど考えることを止めないのだろう自分を、坂井はきちんと理解していた。答えが見つからないと分かっているのに、それでも必死に答えを探す。
まるで死者への餞のように。
そして坂井はふと、思った。もしかすると自分は答えなどは見つけようとしていないのかもしれない、と。
答えが見つかれば恐らく、下村のことを思い出す機会が少なくなってしまうから。疑問を死者との繋がりにしたいのかもしれない、そんなことを、思った。
タイトルはRADWIMPS。