何も見えないのは闇の所為でないことくらい、西田はきちんと理解していた。
思考力が落ちているのかもしれない、とぼんやりと思う。霞でもかかっているのかのように、全てがなんだかはっきりとしない。己の存在さえも危うい。痛みはもう思い出せない。
少尉、と呼びかける声がどこか遠くから聞こえた。薄っすらと瞳を開ける。目蓋を下ろしていたことさえ、気付いていなかった。人というのは、直感的に悟ってしまうものだ。自分の死が近付いているという事を、いやになるほど鮮明に。
自分を呼んでいる部下だろう者に、西田は苦労して捨て置きなさい、と伝えた。いっそ即死してしまえばよかったものを、と己を心のうちで呆れながら。だがそれと同時に、言伝を頼めるという事実に、狂喜と言っても良いほどの感情を憶えていた。
どうしても、最後に言いたいことがあった。だから西田はこれが最後の力だと思いながら、部下の男に話しかけた。君、一つ伝えてはくれないか。新城直衛中尉殿に。相手は西田の手を握って聞き入っているらしい。感じることが出来た。
中々良い最期じゃないか。そんなことを、西田は思った。言伝を頼んだ部下が生き残るか否か、その心配はしなかった。伝わらなければ、それでも構わない。



He laughs best who laughs last.
自分は新城中尉よりも先に死ぬのでしょうね、緩々と口許を上げて微笑った後輩の言葉に、新城は何を言っているんだ君は、と返そうとして、止めた。実際問題、中尉と少尉では後者の方が先に死ぬことが多いだろうからだ。
だから代わりに、それがどうしたんだと問うた。僕よりも先に死ぬということを恐れるのか、と。西田はどこまでも変わらない真っ白な景色にやっていた視線を新城へと向けて、穏やかに笑いながら首をふった。
はい、新城中尉。自分はそのような事を恐れているわけではございません。
ならば何なのだ、と新城が訝しげにたずねると、西田は部下ではなく幼年学校の後輩の顔で唇を歪めた。悪戯っぽい光を含んだ瞳。ろくなことは言わないだろうな、と新城は心のうちで息を吐く。
愛すべき中尉殿に呪いを一つ。西田はそう言った。意味が解らなかった新城は今度こそ、何を言っているんだ君は、と苦笑した。

そんな少し前の、遠い昔のようにさえ感じられる出来事を新城は不意に思い出した。あれはいつだったろうと少し考えて、天狼会戦が起こる少し前のことだったなと思い出す。西田は、新城が三日ほど前に訃報を知った西田少尉は、今日のようなときを頭に思い浮かべていたのだろうか。新城が目の前にいないじょうたいで死んでゆくという事を。
そういえばあいつは昔から勘が良かった、と新城は思った。彼が雨が降りそうですね、と言って見せた時は、大抵の場合少しした後に雨粒が額を打つのだ。初めの一回二回は耳を貸さなかった新城だったが、そのうち西田の言葉にあわせて傘を持って出かけるようになっていったものだ。何故分かるのだと問うと、何、ただの勘ですよとはにかんでいた。
(西田、)
お前の言っていた呪いとは何だ、新城は呻くようにそう思った。これが呪いか。お前の言葉を、答えのない問いを考えて考え続けることが。お前を忘れない事が。
いや、あいつはそんなに女々しい男じゃあなかったあはずだと考え直す。心理効果なんぞを期待するよりも、寧ろ化けて出てきたほうがあいつらしい。そんなことを思って新城は無意味に笑いたい気分に陥った。顔を伏せて肩を震わせる。
ひとしきり肩を震わせた後、新城は気合を入れて立ち上がった。のんびりともしていられない。生き残った兵のうちで一番位の高い新城が何もしないでいて、他のものが何かをするはずがない。空を一度仰ぐ。そこに死したものが向かう、などという御伽噺を信じる気にはなれないが、それでもそうあれば良いとは感じる。瞑想するかのように瞳を閉じていた新城に、控えめな声がかけられたのはそのときだった。
新城中尉殿でございますか、その控えめな声はそういった。いかにも。答えた新城は、声の主を見る。歳若い兵がそこに立っていた。彼は自身の名と位を言った後に敬礼して、少し泣きそうな瞳をしながら息を吸った。私は西田少尉殿の最期を見守りましたものです。西田少尉殿より伝言をお預かりいたしましたので、新城中尉殿にお伝えに参りました。
死者からの伝言か、と新城は思った。矢張り化けて出てくるのが似合う。頭のどこか冷静な部分でそんなことを考えながら、だがそれでも思考の大部分は急いている。伝言?何だ?何を伝えようとした?
どんな呪いを、僕にかけた?
心のうちで酷く急いて、だが微塵もそのような態度を表に表さず、新城は歳若い兵に続きを促した。彼は右手を上げたまま、背筋を伸ばしたままの体制で続ける。
愛すべき中尉殿、貴方が居りまして、自分は幸福です。
少尉殿は最期まで微笑っていました、兵は痛みを堪えるような顔をした。少なくとも彼にとっての西田はよい上官だったのだろう、新城はそう思いながら彼に礼を言った。一切の感動も喜びも哀しみも憶えていないような顔をしている新城に兵は少し咎めるような顔をしたが、何も言わずに最敬礼をして去ってゆく。
その背中を眺めながら、新城は今度こそ腹を抱えて笑い出したい気分が襲ってくるのを必死に堪えるのに苦労していた。無表情でしかいられない。
西田。その無表情の裏の笑顔で、新城は後輩へと呼びかける。届く筈のない呼びかけは、だがしかしどうしても抑えられなかった。思うだけならば何にもならない。呪いをかけた当人にとって、全くの吉報であっても。死した者に、声は届かない。だけどしてやられたとばかりに、思わずにはいられなかった。西田、君の企みは成功したよ。
なにが幸福です、だ。どうして現在進行形で話す。幸福でしたならば、死にゆくものの最期の言葉としてあっている。自分はもう幸福を感じることさえ出来ないのだから、生きていた頃のことを思い返したならば過去形にならなくてはならないはずだからだ。だけどそこを西田は幸福です、と言ってみせた。それはつまり、幸福である状態でとこしえになったということだ。永遠に彼は幸福だという事だ。新城がいることによって。
それはつまり、僕に死ぬなと言っているのか。新城は額に手をやった。そして愛の言葉を紡ぐように、憎悪の言葉を叩きつけるように、自身にさえ聞こえない声で呟いた。ああ、それはまさしく呪いというほかに何もない。





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