そこは、ただただ何もなかった。
足が触れる場所は真っ白で、それでも恐らく白という色ではない。何も見えないと思えば、何もかもが見える。
何もないのに、何もないということを感じることは出来る。何も出来ないのに、心は残っている。
なるほど、それはまさしく死ぬよりも辛い事だな、と他人事のようにロンメルは思った。
いっそ人としての心を殺してくれるのならば、何も感じずただそこに在るだけの存在になれる。いたずらに心がそこに留まっていては、何か口出しでもしたくなるではないか。世界を変えることなど出来はしないのに。
おのれが死ぬよりもなお苦しいのだろう。ただ見守ることしか、出来ないというのは。
それなのに、それほどまでに苦しくて辛い荷を、なぜ女神さまはこのような少年に託したのだろう。
ロンメルはじぃと遠くて近い、どことも取れない場所で座っている人形のような少年を見つめた。幼さを存分に残した、だけれどそれを一切感じさせない表情をその見事に整った顔に浮かべている。自分の名はミツルだと言って、ロンメルの名を聞いた後は、ずっとそこに座って俯いていた。
言動の全てがその幼さとはかけ離れたもので、だがしかしロンメルにはそれが強がりのように見えた。だから、余計に思ってしまうのだ。まだ強がりをしてみせる、幼く華奢な少年に、なぜ女神さまはこのように思いものを背負わせるのだろうか、と。
人は平等ゆえ、か。独りごちると、ミツルが不可思議そうな瞳でロンメルを見た。なんでもないよ、と言えば、何も言わずにまた視線を戻す。何か楽しいものでも、映っているのだろうか。
ロンメルがミツルと同じように下を向くと、そこには今まで気付かなかったのが不思議なほどに、色々な映像で溢れていた。息を呑む。(これが、世界か)
目まぐるしく流れていくそれぞれを個々に見てゆくなどは無理に決まっているのに、なぜだか頭に入ってくる。それが人柱が人柱である所以なのだろう。だけれど、じっと見ていると、流石に気分が悪くなってきた。実際に体調が悪くなる事はないのだろうが、それでも気分というのは心がある限り同時に存在しているのだろう。それが、唯一の人である証のように。
視線を上げたロンメルが顔を顰めて頭に手をやっている間も、ミツルは変わらず世界を見ていた。その背は、何かをじっと耐え忍んでいるようにも見える。まるで、罪を犯した咎人が、神の前にひざまずいているのかのように。罰がくだされるのを、じっと待っているように。
だからといっても何が出来るわけでもないが、話でも聞いてみようかとロンメルは思った。だが、その決意は、唐突に耳に届いた声で打ち破られる。その声は、眼下に広がる世界の中から聞こえた。
じっくりと、ロンメルはその一つ一つに目をやっていった。抱き合って喜ぶ者、何かを抱いて泣き崩れる者、途方に暮れたように祈る者。多くの者達がいるが、その内の一人に目が留まった。
それは、その人は、喜びの声を上げる騎士たちの中、一人で必死に何かを探していた。兜が脱げてはいるものの、他は鎧をきちんと着込んでいる。どこもかしこも真っ黒になっているが、その者が誰であるか、ロンメルに解らないはずがなかった。
シュテンゲル騎士団の隊長であったロンメルの部下、だ。つい先ほどのように感じられる魔族との戦いで、共に戦っていた者。
彼が半泣きになって手で人々をかきわけ、必死にロンメルを探している。壊れたように「隊長、」と呟き続けている。
そんな彼を見た瞬間、何かを思う間もなく、涙が頬を伝った。
その涙を合図にしたかのように、とめどなくきちんと生きていた頃の思い出があふれ出してくる。あふれ出て、そしていつかは零れ落ちていく記憶たち。それは、千年を共にするには中々の物だ。全く、それなりの人生だったと言っても良いだろう。幸福だったと、そう言っても構わないだろう。
いなくなれば心配してくれる者だっていた。いつの間にか眼下の世界では、その場にいた部下の全員がロンメルを探していた。ああ、本当に、全くの幸せ者だ。
このまま千年、この心を持ち続けていくことは出来るだろうか。死よりもなお辛くとも、それでもロンメルは心があり続けることを望むのだろうと、おぼろげながらに自覚した。辛くとも、うつくしいものはある。
心を持ち続けていようと、ロンメルは心に誓った。生きている者であっても、人柱としてであっても、必要なものだ。自分、であり続けるという、なくしてはならない境界線を守るためには。