遠く、遠く、空の終わりまで。そんな場所がないと知っていたのに。
果てなく続いてゆく青い空に、そこだけを切り抜いたかのようにぽっかりと浮かぶ白い小鳥。それは確かに白いのに、何故だかおとぎ話で見た青い鳥だと思い込んで、ただひたすらに追いかけた。息が切れても、必死に走った。
遠く、遠く、空の終わりまで。行けると信じていた、それは幼い頃の記憶。
ふ、と思い出した遠い記憶に、ミツルは苦笑した。
それを思い出したきっかけとなったのは、目の前に広がる青空だろう。あの時のような夏の空ではなく、冬の空ではあるが、それでも真っ青で美しいということには変わりない。現世でも幻界でも、空だけは変わらない。
だからこそ、幼い日の、空ばかりを見上げていた記憶が蘇ってくる。
だけどあの時と違って今のミツルは、青い鳥がいないことを知っている。いや、青い鳥は探せばいるだろう。それではなく、幸せを運んでくる青い鳥、がいないことを知っている。
「馬鹿みたいだな」
呟いて、目の前に広がる美しい景色と豪華な屋敷内のあいだに境界線のように存在しているガラスへと触れる。その冷たさは、熱を奪う。寒さで身体を震わせて、ミツルはそれから手を離した。
用意された部屋へ戻ろうとミツルが踵を返すと、こちらへ向かってきている人影を見つけた。それを見慣れた人物の者だと認める。無視をするという選択肢もあったが、あまり良い案だとは思えないので、出しかけていた足を引っ込めた。佇む。
その人影の髪で煌いている髪飾りの色が判別できるくらいの距離になったところで、ミツルはその少女を呼んだ。
「皇女さま」
両手を胸の辺りで固定して、それをじっと見つめていた皇女ゾフィは、その声にぱっと顔を上げる。綺麗な顔でミツルをじっと見て「ミツルさま。探しておりましたよ」と完璧に微笑む。
「僕に何か、ご用でも?……見たところ、護衛の方もいらっしゃらない」
小首を傾げながら素早く辺りに視線をやって、ミツルはそう言った。護衛の連中は実際には目に付かぬ場所にいるのだろうが、それでも目の届く範囲にいない。城内であろうとも中々珍しいことである。多少なりとも不思議そうな顔をしたミツルに、ゾフィは囁くような笑い声を上げた。
「護衛の方には、必要がないと言っておきましたから。わたくし、ミツルさまに見せたいものがありまして」
そう言って、胸元で何かを包むように合わせた手を開く。ちち、と小さな声で鳴く鳥の雛が、そこでうずくまっていた。その鳥の色は、目の覚めるような青だ。
「ミツルさまが、少し前にお話してくださったでしょう。貴方のいた世界のお話」
そう言われて、頭の中を覗かれたのかとでも思うくらいのタイミングでその鳥を出されたミツルは、視線を無理に引き剥がして鳥からゾフィへと移動させた。そして、そういえばそんなこともあったなと思い出す。あれは確か初めてのお茶会の時で、ゾフィが現世のおとぎ話を聞きたがったのだ。
「青い鳥、ですか。皇女さまはあの話が好きなのですか?」
「ええ」
ミツルの問いに、ゾフィは力いっぱい頷く。ぱっと輝くような笑顔で、鳥を抱きしめた。
「素敵なお話ですから」
「そうですか……それで、この青い鳥は、どうして?」
潰れてしまいませんか、と苦笑して、ミツルは鳥を握ると言っていいような持ち方をしているゾフィの手を緩めてみせる。すみません、と赤面したゾフィが手を開くと、変わらず小さな声でさえずる鳥が現れる。
ゾフィはほっとしたように息を吐くと、ミツルの顔を見て楽しそうな笑みを浮かべた。まるで子供が母親に秘密のプレゼントを渡すような、そんな顔。
なんだろうとミツルが思っていると、ずいと目の前に白い手と、それに乗った青い鳥が現れる。
「差し上げます」
「……え?」
いきなりの言葉に鳥とゾフィを見比べていたミツルは、間抜けな声を上げた。それにくるくると鈴の鳴るようにゾフィが笑うと、もう一度「差し上げます」と言う。
「何故ですか?」
しょうがない、と内心で呟いたミツルが両手でその鳥を掬いながら、思わず問いかける。ぬくもりのなくなったらしい掌を合わせていたゾフィが、それに不思議そうな顔をした。
「だってミツルさま、青い鳥が欲しかったって言っていたでしょう」
(幸せを運んでくる青い鳥。それを、僕は幼い頃、捕まえようと必死になっていたんです。)
青い鳥の終わりに呟いた声が蘇る。笑うゾフィに目を向けていられなくて、ミツルは幸せなどを運んでくる筈もない鳥へと視線を落とした。湧き上がる感情は、ただの呟きを憶えていたゾフィに対する憎しみか、それとも喜びか。(それはきっと、ないけれど)
この青い鳥は、ミツルに幸福を運んでくるのだろうか。そうすれば、それは同時にゾフィが不幸になるということだ。このまま行けば、そうなる。本当にこの鳥が童話の青い鳥ならば、ミツルは幸福になるためにこの幻界を壊して現世に戻り、幻界のことをいつか全て忘れてしまうのだ。青い鳥の飼い主であったゾフィを不幸にして。
そのことに疑問は何も感じず、実際にそうするしかないと思っていたのに、そこに誤算が起きた。今でもたまに思い出す幼い頃の夢を叶えてくれた人間のことは、忘れそうにない。
忘れそうになくとも、それでもミツルは躊躇はしないのだけれど。
だが、それでも、実際にそのときになればこの目の前の少女は出来るだけ苦しませないようにしようと、心の隅でちらりと思う。それか、何があっても、生き延びさせてみせると。そう、ミツルが誰よりも救いたいと思っている女性のように、どれだけ辛かろうと生きろと教えて見せようかと、そう思った。
(良い考えじゃないか?)
自嘲のように心の中で笑って見せたミツルのことなど何も知らずに、青い鳥はミツルの両手のなかでまださえずっている。