―8月12日 午後8:00
彼女の意識は、未だに戻らない。
1分=10分
遡る場合、過去の私は姿を消す。
ツマミを持ち上げ時を動かし、再びそれを元に戻すと同時にその時間軸へと辿り着く。
昨夜色々試してみて、この3つの事は解った。
時を遡る事によって私が2人存在する事も無く、肉体的な害も今のところは無い。
ならば。
―彼女がくれたこの時計で、彼女を救えるかもしれない。
成功する確率が、何%有るのかは解らない。
彼女は明日にでも目覚めるかもしれない。後遺症も残らないかもしれない。
だが・・・何もせずには居られない。
君と会ったのは、一昨日の16:30。
ごくりと唾を飲むと、時計のツマミを持ち上げる。
5時間と12分、時計の中の時を戻す。
14:48に時計を合わせると、私はツマミを押し込んだ。
辿り着いた部屋には、夕日が射し込んでいた。
身支度を整え、日付を確認しようと玄関先へ行く。
新聞受けから夕刊を取り出し、日付を確かめる。
―8月10日 午後4:00
取り敢えず、無事スタート地点に立った。
軽く安堵の溜息を洩らすと、地下駐車場へと急いだ。
臨海公園の待ち合わせ場所へ辿り着くと、君の姿を探す。
時計塔で時刻を確認すると、4時30分。
そろそろ君が、満面の笑みで駆け寄って来る頃だ。
「零一さーん。」
・・・来た。
その笑顔に、私の顔も思わず綻ぶ。
「零一さん!会いたかった。ぎゅ・・・。」
彼女の困った台詞が飛び出す前に、私は彼女の唇をそっと指先で塞ぐ。
驚いた顔で、君が私の顔をを見る。
・・・2人きりの時に、君の望むようにするから。
突然の私の行動に固まったままの彼女の腕を掴むと、観覧車へと歩みを進めた。
―8月10日 午後6:00(推定)
無事観覧車にて夕日の鑑賞を終え、予定通り彼女を私の部屋へと招く。
観覧車の中で、彼女は待ち合わせ場所での私の私の行動をしきりに不思議がっていたが、
軽く口付けをすると追求はアッサリと止んだ。
予定通り、問題の諍いを避ける事に成功したが・・・若干頭痛がした。
過去を変えてしまったからなのだろうかと、一抹の不安を覚える。
が、この程度の害であれば、何の問題も無い。
彼女が事故に遭わずに済むのなら、この位安いものだ。
「・・・・一さん?」
彼女の声に、遠ざかっていた意識が蘇る。
「どうした?」
気付けば食後のコーヒーが、テーブルに置いてある。
彼女は心配そうに、私の顔を覗き込んでいた。
「どうしたんですか?さっきからうわの空で。」
「いや、何でもない。」
彼女は納得のいかないといった表情を浮かべながら、私の横に腰を下ろす。
「顔色・・・良くないですよ。疲れてるんですか?それとも・・・風邪かなぁ。」
洗い物をして冷たくなっている手が、私の額に触れる。
「大丈夫だ。」
「・・・無理、しないで下さいね。」
心配そうな声で彼女は私にそう言うと、そっと私に寄り添ってきた。
「零一さんが無理して倒れちゃったら・・・私・・・悲しいですよ?」
「それは・・・私も同じだ。」
彼女の髪を撫で、彼女の存在を確かめる。
私が居た時間の君は、元気でいるのだろうか?
ここに居る君は間違いなく君なのだが、ふとそんな不安がよぎる。
不安になると同時に、また頭痛がした。
・・・先刻より、酷い。
それを振り払うように、彼女を引き寄せ額に口付ける。
ふと、彼女の困った我侭が思い出された。
―零一さんは、きっと私の事好きじゃないんです。
だからぎゅってしてくれなかったんでしょ?
「愛してる。」
耳元で囁くと、彼女はキュッと唇を噛んだ。
君が恥ずかしい時に見せるその表情が、愛しい。
「・・・私も、です。」
嬉しい君の言葉の礼に、今度は唇へと口付けを贈った。
―8月11日 深夜0:00(推定)
割れんばかりの頭痛に、目が覚める。
隣には、すやすやと眠る彼女の寝顔。
やはり、してはいけない事だったのだろうか?
激しすぎる痛みが、眩暈を誘発させている。
体がこんな苦痛を訴えた事は、今まで無かった。
心臓が激しく脈打ち、五体がバラバラに裂かれるような痛みを感じる。
「・・・彼女が無事なら、安い・・・。」
ぐっと胸元を掴み、襲い来る苦痛に耐える。
穏やかな顔で眠る彼女の頬に、起こさぬようそっと口付けた。
時を越え、運命を操作した報いならば・・・受けねばなるまい。
そして覚悟を決めた時、意識が飛び散ってゆく感じがした。
白く染まる意識の中、誰かの声がする。
―返して。
あなたが勝手に使った時を、返して。
・・・報いは、受ける。
例え私の命が、散っても。
―零一さんが無理して倒れちゃったら・・・私・・・悲しいですよ?
彼女は、私の勝手な行いを詰るのだろうか。
我侭を言って、周囲を困らせなければいいが。
ふと白だけの空間に、悲しげな顔で跪き、祈る彼女の姿が現れる。
歩み寄り、抱き寄せようにもすり抜けてしまう。
私に気付くまでもなく、彼女は何か呟いている。
聞き耳を立てると、彼女の声が響き渡る。
―零一さん・・・お願い・・・目を開けて。
彼女の願いどおり目を開けてみると・・・真っ白な天井が飛び込んできた。
右手に感じる重みに体を起こす。
「ここは・・・?」
見る限り此処は、病室のようだ。
白で統一された棚の上には、幾つかの花束が花瓶に生けられている。
重みの方へ視線を遣ると、私の手の腕の上に頭を預け、椅子に座ったまま君が眠っていた。
「ん・・・。」
目覚めた彼女と、目が合う。
「おはよう。」
私の挨拶に、彼女が一瞬目を丸くする。
そして間髪入れずに、その目に涙が滲んでいった。
「・・・おはようございます。零一さんっ。」
胸に飛び込んできた君を、強く強く抱きしめる。
ストーブから吹き出す風が、壁に掛かったカレンダーを揺らす。
カレンダーには12月19日まで、×印が付けられていた。
私は約4ヶ月もの間、原因不明のまま眠り続けていた。と彼女から聞かされた。
あの不可思議な出来事は、夢だったのだろうか?
眠り続けた日数は130日。時間に換算すると、ちょうど3120時間。
遡った分数と、奇しくも一致している。
この身に起きた事が夢なのか、現実なのか。
どんなに考えても、それは推測の域を超える事は出来ないだろう。
私は眠ってしまい、ずっと渡せなかったと彼女がくれたプレゼントは・・・あの日手にしたものとデザインが全く同じ懐中時計。
私の掌の上で、とぼけたように何食わぬ顔で時を刻んでいる。
ならば。
私もこの不思議で貴重な記憶を、何食わぬ顔で胸の奥にしまっておこう。