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肩に違和感を感じ出したのは、高校二年の夏の終わり。
三年生が引退し、新人戦に向けて始動しだした時のこと。
肩の骨が軋むような、筋が引き攣るような、それは小さな悲鳴。
それでも痛みはすぐに消えたおかげで大丈夫だと言い聞かせた。
だが、どんどん練習や試合をこなしていく内に、痛みは三日に一度感じるようになって。
ついに、ボールを握るだけで電気が走るような鋭い痛みに・・・・観念した。
本当は嫌というほど覚えがある痛みだった。
小学生の時、体の限界を超えて肩を酷使したせいでドクターストップをかけられた。
悔しかった。最上級生として責任を果たし、仲間と勝利を目指して動き始めた矢先のことで。
中学校ではどの部にも所属せず、病院と学校の往復でリハビリに全てを費やした。
それはすべて野球を始める切っ掛けとなった高校野球に懸けるためだ。
毎年、真夏を更に熱くさせる甲子園の舞台を夢見て、ピッチャーを志望したのだから。
医者に止められて治療に専念した甲斐もあり、怪我はちゃんと治った筈だったのに。
だから、祈った。誰かを恨むより、自分を呪うより、願うことはただ一つ。
願いを叶えてくれたのは、医者でも神でもなく、真っ黒なスーツを着た悪魔だった。
祈りは彼方、月は君の傍らで 3
「山本、起きろ。朝練に行く時間だぞ」
すっかり目覚まし代わりと化したリボーンの声。
寝起きは良い方なのに彼の低く落ち着いた声を聞くと、何故か睡魔に負けそうになる。
これも悪魔の力なのか?と心の中で首を捻りながら、どうにか瞼を持ち上げた。
「よう、山本。今日もいい朝だぞ」
「おはよう、リボーン。今日も起こしてくれてサンキューな」
布団から起き上がり、隣りで胡坐をかいて座るリボーンに笑いかけた。
そうするといつも右手が伸びてきて、気にすんな、というように頭を撫でられる。
その感触は擽ったいのにとても優しい。本当に悪魔なのかと疑うのはこんな時だ。
山本がこれまで持っていた悪魔のイメージは蝙蝠のような翼や口元に鋭い牙を持ち、
人を襲ったり、誰かを不幸にしたり、地獄に落とす悪者なんていう漠然としたものだった。
テレビや漫画から植えつけられるイメージなんてどれも同じ。
必ず天使や正義の味方と比較され、対峙して負けてしまう嫌われ者。
しかし、実際に出会った悪魔と名乗る青年からそんな雰囲気は全く感じない。
とても紳士的で、挨拶や御礼の言葉をちゃんと返してくれるし、意外と世話焼きだ。
また、こちらの意思を汲みとって好きにさせてくれる。時には厳しい言葉で諭す。
たった数ヶ月の付き合いだが、どんな時も静かな瞳で見守る姿勢を崩さない。
山本はそんな姿に好感を抱き、信頼できる人物だと本能で感じ取っていた。
きっと、いや、彼の誇りにかけて必ず願いを叶えてくれるだろう。
だから、いい。
約束を忘れずにいてくれるというのならそれだけ満足だ。
たとえ願いが叶った後でどんなことになろうとも・・・。
「おう、武!商店街の皆さんから勝利のお守りが届いたぞ」
夜の自主練とランニングを終えて家に戻ると、閉店後の後片付けに勤しむ父に声をかけられた。
「すげぇ数なのな。おっちゃん達の期待に応えるためにも頑張らねぇと!」
「ついに明日、甲子園に向けて出発か!試合には父ちゃんも店休んで行くからなっ」
「ったく、親父の方が張り切ってるのなぁ。オレは頂点まで行くんだから決勝戦だけでいいんだぜ?」
「お前にしては珍しく強気じゃねぇか、頼もしいな全くよぉ!さすが父ちゃんの息子だ」
アッハッハ、と豪快に笑う父はここ最近、とても機嫌が良い。
これまでは試合があっても、父ちゃんは仕事だから、と意地を張って見に来なかったのに。
甘やかすことなく、厳しい態度で勝負の世界で戦う大変さを教えてくれていた。
ただ、甲子園出場を決めてからは近所の人たちに自慢して歩くほど喜んでくれている。
よかった、と何度思っただろう。
こんなにも笑顔の父を見られるだけで、毎夜通った神さまへの祈りは無駄じゃなかった。
だからこそリボーンとも出会うことができたのだから。
「本当にお前の父親は親バカだな。あと声がデカ過ぎだぞ」
「・・・・・うぉっびっくりしたのな!リボーン、読書中だったのか?」
「まぁ、そんなトコだ」
「邪魔しちゃったのか、悪いな」
「おぃ、武。さっきから何ひとりでブツブツ言ってんだ?熱でもあるんじゃねぇだろうな?」
店のカウンターで包丁を研いでいた父が目を丸くしてこちらを見ている。
うっかりリボーンと喋ってしまったが、自分以外の人間にはリボーンの姿を見ることができないのだ。
何とか笑って誤魔化したけれど、随分心配されて困ってしまった。
「バカだな、山本。油断するとすぐボロが出てるぞ」
「失敗したのなー。はぁ、オレはそんな器用な方じゃねぇんだって」
階段を上って自室に入って電気を付けようとした瞬間、呆れたように声をかけられた。
リボーンによると契約を交わした人間以外、彼の存在を認知できることは決してない。
姿が見えないのはもちろん、声も聞こえず、そこに居ることに気付かないのだ。
頭では理解しているが、山本の目にはハッキリ映り、簡単に会話できるからつい忘れてしまう。
普段はよく分からない分厚い本を読んでいたり、自前らしい拳銃の手入れをしていて、
栄養を得るための食事は必要ないくせに、苦いコーヒーを好んで飲む。
本来は睡眠だって必要なく、暇潰しに目を閉じているんだということも後から知った。
出会った頃から不思議なヤツ。謎は深まるばかりだが、何かを問いかけることはしなかった。
「フッ、まぁ今は目の前の野球に専念してろ。どうせあと半月のくらいの話だからな」
開けたままのカーテンから漏れる月の光がリボーンを照らしていた。
逆光によってボルサリーノの下の表情は見えないが、赤い唇の笑みだけは分かる。
ゾクリ、と本能的に後退りそうになる足を叱咤して、何とかその場に踏みとどまり、
雰囲気に呑まれてしまわないように対峙するリボーンの目をしっかりと見つめた。
これは普段、潜められているリボーンの本性、いや、彼の一部分なのだろう。
捕食者として全てを圧倒する、絶対的な支配者としての笑み。
しかし、山本にとってそれは怯む要因にはならない。
「はは、リボーンはオレ達の優勝を信じてくれてるんだな。あと少し、頼むな!」
今、楽しくて楽しくて仕方がない。
みんなと野球ができる。それも、最高の舞台に立つことができるのだから。
願いを叶えてくれたリボーンに対する信頼は揺るがない。
「・・・・山本は本当に幸せそうに笑うんだな」
照明を点けてリボーンと向き合うと、リボーンは不思議そうな顔で立っていた。
「野球ができて、親父が嬉しそうで、リボーンが優しいからなのな」
大事な時期に、これからという時に、全力でプレーできるか分からない状態で。
誰にも知らせず、一人で行った病院でもう二度と野球はできないと告げられた。
そんなまるで海の底に沈んでいくような昏い絶望の中。
救いだしてくれたリボーンは、山本にとって神よりも尊い存在になっていた。
「バカだな、山本。夢は覚めるからこそ美しいんだぞ」
殆んど口の中だけで囁かれたその言葉が、山本の耳に届くことはなかった。
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2011/03/20
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