拝啓、桑原水菜様
■ 2004/05/16(日) なぜお見捨てになったのですか いろんなサイトさんめぐりをしていると 皆さん少しずつ胸の中に高耶を産み育ててられるんだなあ…って感じだなぁ。
私はあまりキリスト教を知らないので、クリスチャンの方々から怒られそうだ、けど。
高耶の受難、苦悩、
イエス・キリストの最期。
キリスト教に殆ど無知な私でもしってるあの言葉。「エリ・エリ・サバクタニ」
(これをそのまま取るのは違うかもしれないらしいですが。
参考ページ→http://www.susume.or.tv/newpage71.htm)
エリ・エリ・サバクタニ
悔いはない
愛してる
ありがとう
雑草の根を剥ぎ取るのとはまた違う 一段上の調伏法。
熱量が絶えることなく、冷めることもなく、続いて欲しかったと願うのは
ゴルゴダの丘を歩ませた民衆同様、
エゴに過ぎないんだろうか。
景虎の唯一の願い-直江の永遠を確かめること-は既に叶っている。
■ 2004/05/15(土) 重箱閑話 前回のようなことを書くと だんだん自分が何言いたいかわからなくなってくるー。
ぶり返しかなんなのか、ちょっとどっと疲れが。 なので話題閑話。
40冊もあれば そりゃま登場したもののそんなに重要視されなかったエピソードもたくさんあるわけで、
だからこそ千差万別の解釈や個人の希望に繋がるわけですが。
結果的には重箱突きになりますが、
・信長は蘭奢待の効用が脳まで侵していると言ったが、結局高耶は呆けたり思考に支障を出してない。
→信長よ、あれはハッタリか。
・が、その一方で口移し呪詛は最終的に仰木高耶の肉体の致死原因になっている。
(あれねぇ、、もし使われなければ一時的に高耶の動きを封じるための呪詛って感じで終わったろうね…)
↓
・「!」 魂は畏縮してもう思念を発することのできないはずの景虎だった。(40巻P301)
→直江、予想裏切られる(まぁこの人結構しょっちゅうあるけどなぁ)
・あとしばらくすれば、弾けて粉々になってしまうだろう(P339)
→運命の地の文であるか、直江の予想かってとこで分かれますが(まぁ地の分ではあるけど、
なにせ私も一体どれが正しいか使われるかもうこの40冊の間でなんか変な癖がついてるようで…)
直江がそう体感してることには間違いなく。が、直江だ。何しろあの直江だ。
案外、直江の予想ってあっさり裏切られるかもなー。
だって『あの』景虎様だもんなー。
この先何が起こったって不思議じゃないわ。
と、思ってみたりする。
止まった振り子を再び動かすだけがいいってもんでもないけれど。
■ 2004/05/15(土) 昔話 第1巻のあの赤い表紙、
後書きを読んでデビュー作と書いてあったので、「凄いなぁ」と単純に思いました。
当時 やれ転生ものや前世だと量産されてたので、(それはそれで好きなんですが)換生というアイディアが結構斬新に見えたのも楽しかった。
デビュー作を続きものにして、どうなっていくか、とても楽しみでした。5巻まで。
6巻頃から段々直江が嫉妬やネガティブ感情を露にしだして…いやもう正直読むのがつらかったです。
まだあの頃は景虎の記憶がそんなに戻ってなかったから、読者も高耶と一緒になって世界に入れる…ということもできたんで、何とか『作品の中に入る』ということができてましたが。
「まだか、まだ言うのか」→(新刊発行)「またいうてる〜〜」この繰り返し。
もうヘキヘキしてました。
なんで他に楽しい作品はいっぱいあるのにわざわざ炎の蜃気楼を読むのか。
でも新刊が出ればまっ先に買う、好きな本は?と聞かれれば「炎の蜃気楼」と答える、辞めるという選択肢はありませんでした。
(景虎女王様化が楽しくて期待してたってのもある。って期待って何をなんだか。)
なんでこの作家さんはこんなに魂を詰めて詰めて、普通なら(作品だけでなく、通常の日常生活の中でも)妥協と言うか、双方生きれるよう折り合いつけるぞ…、と思いながら、
だからこそ 現実じゃたいていの人はやらない(やってる方いらっしゃったら御一報下さい)極めを、物語の中とはいえ どういう解決をするか、どういう境地に行くか…。
1巻から高耶が好きで彼が主人公だったから読んでただけですけどね。
彼(ら)がどこに行くか 読むのはしんどくてもその確認作業でした。私にとって蜃気楼は。
当時は 「自分の感覚の手の届く範疇」でその境地に行くと思ってましたし、
実際39巻まで思い続けていました。
まぁ、だから、
うっとうしくても辞められない、惹き付けられるというよりは掻き立てられるものがある、
辞めたいのにどこまでいくか求めてしまう、
自分の中のものがざわめき立つ、
あなたが漫画化やOAV化に当たって見返した時、「若かったなぁ」と後書きで述べられているあの部分、
若さが至上ということではありませんが、
あの2人の極めようとする魂の詰め方や 熱のこもリ方、 圏外から眺めるだけのつもりだった、
決して 作品を肯定的にとってるだけでもない1読者まで 鷲掴みで引っぱり込むような、あのエネルギー。
その感覚で「最上のあり方の眺め」を求め続けた私がたぶん大バカなんでしょう。
だから自分の肌で感じる範疇じゃない、と思ってしまうんでしょう。
それ以降の高耶達を「感じられなくなってしまった」多分最大のこれが理由なんでしょう。
■ 2004/05/15(土) 後書き 拝啓、桑原水菜様
あなたが「生意気盛りで物も知らない勢いだけはありあまってた」頃、
私は 自分では何も知らない癖に他人の意見を自分の言葉として使いたがる、とってもイタいクソガキでした。(いますよね〜、思春期独特のこういうガキ)
二人が最上を言い出した頃、こう思ってました。
「作者さんもエライことに手を出したなぁ。できるんか??」
そしてどんな結論が出てくるかとても楽しみでした。 あの時はよもや14年かかるとは思わなかったし。
(頑張って”直江の年に追い付くまでには終わらせたい”というのを目安にしてた。後書きで言わなくなった頃、長期戦を覚悟して見届けることにした)
9巻以降どんどんどんどんあの2人は最上のあり方を言ってくるし、(こっちが気にしなくても繰り返し台詞が出てくるから『……ああ、そうなんですか……やる気あるんですね……』と意識せざるを得ない)
その割には陰険というか、暗いというか…ネガティブというか……。
巻が進めば進む程「もういい加減にしてくれー!」とこっちの方が参ってました。
「最上のあり方」は興味があったけど、そんなもの本当に結論が出るのか?
お互いやりあってる(性的意味ではありません。)、それを最上にするしかないか、
途中で最上っぽいものを提示してあれに向かって頑張ろう、か、
どこかで聞いたことのある哲学の結論を持ってくるか。。
まだ20代半ば(だったかな)の、こういっては申し訳ないが、コバルトの作家さんで、
そんなに 最上のあり方の出来や中身は期待はしてませんでした。
そこまで徹底したら人生かけて最上のあり方を模索して生きなきゃならない。
血ヘドを吐いて、独特のこれだというオリジナルの結論を持ってくるんだろうか。持ってこれるんだろうか、
まさか、それはないだろう、やるのか?できるのか??と思ってました。ええ、当時の自分を思い出すと殺したいぐらいのクソガキでしたもので。。言葉悪くてごめんなさい。で、当時そういうことをいうクソガキは私以外にも2人いました。(ようは結末はどうなるか皆で喋ってたのね)
いわゆるライトノベルの後書きの楽しみって、作家さんがどんな人かわかりやすいってのもありますね。
私はあなたの後書きが結構好きでした。
コアなファンの人でなければわからなかったり、する部分もありますけど、(風雲縛魔伝に至ってはTちゃん宛てに1行だけ私信がある) 読んでて楽しかったですよ。
無論、いつまでもミーハーなことは年令を重ねればやってられず(してる作家さんもいるようですが)
段々と後書きは落ち着いてくるようなって、寂しくは思いましたが、、
炎の蜃気楼1本に絞られてからは 比較ができなくはありますが、
なんだか 冷静になったのか、蜃気楼という熱が冷めて来たのか。心配してました。
魁の蟲の頃から、作者さんにとって 熱がない作品であるとは思わなかったけど、質が変わって来たように見えた。
少しずつ 重荷になって来てるのか、情熱はあるのだろうけど1部の頃のような熱が感じられなくなり、
やがて燿変黙示録あたりでの必要最小限的な後書きに変わったように感じました。
(で、赤の神紋がでた時 あなたが今どうして何を感じているか確認するため 後書きだけ読みました。
素晴らしい思い込みでした書けないので 後書きの感想書くの、やめときます)
私は 自分が予想した以上の最上のあり方を目にして、満足したはずなのに、
何でちっとも全然納得出来ないんだろう。
あの時の自分達が予測すらしえなかった、「これ以上はないだろう」って結論なのに。
こんなの見たくなかった、ではありませんが。
もし、私が「桑原水菜のファン」であったなら、 あの作品を書き上げた力量に いい14年だった、と
思ったでしょうね。読者の期待する作家さんの楽しみの一つは 作家が時間を重ねてどう変化するか、
それがどう作風に出てくるかってことでもあります。
ついていってよかった。楽しめた。よもやこんな眺めを見定めることができたなんて、と。
■ 2004/05/15(土) タイタニック あんまり他作品を出すのもどうかと思うものの、最近 タイタニック(ジェームズ・キャメロンの)をやたらと思い出す。
ミラージュと構造が似てないか、と。
(あれも、タイタニック2の製作デマが流れたり続編を希望されたあたり…)
ああいう刹那的な美しさもいいけど。。
タイタニックファンの方々が気分を害されたら申し訳ないですが、やっぱりあの作品でも思ったものです。
一緒に生きて暮らしてたらお互いの都合の悪いこともあったり、いろいろ乗り越えながら
それでも2人で生きて行けたら、もっと二人の絆はよかっただろうに。。
400年に対しての2年と少しって、僅かな瞬きにしか過ぎないような気が。。
お互いに曝け出してこれからって時に。。やりきれない。
タイタニックのような刹那的なものじゃなくて、(ある意味、あちらは2人の人間的な都合の悪い点は描かれてない…というかタイムリミットまでの時間がそんなになかったし…)
最初はドロドロした生き様だったから(特に直江さん)、お綺麗じゃ済まない、生き急ぐことを美しいと感じさせる終わり方に変化していってるのを、
わかってなかった私が阿呆なんですが。
……400年という数字に捕われすぎてたか。。
だからって第1巻目でイセの直江が出てきてもらっても困るけど…。
■ 2004/05/14(金) 昨日から 夜中に突然泣いて、 本日も書こうとしたら胸一杯で、(別件で時間がとられたというのもある)
ちょっと書けない。困った。
雑誌のコバルト、今月出る分 私は知らないんですが、
某BBSさんの推測だと 40巻の美弥ちゃんに当てた手紙が絡むかもしれないらしいですね。
私はあれの全文が読みたい。
現代人にわかりやすく優しく説明されてる文章が、
なんか景虎が読者に語ってるようにも聞こえる。
■ 2004/05/12(水) 蜃気楼の向こうの遠い実体 最終章をね…受け入れたとか(感情的に無理) そんなんじゃないんですが。
やっぱり一番目に行くのは そこなわけで。
繰り返し繰り返し見ていると、 あなたを安ませることのできる自分 永久を信じてくれたから安らかに眠ってくれる 途方もない信頼 弾けて粉々になってしまうだろう
こればかりが飛び込んでくる。
一体いつのことか途方も検討がつかないけど、いつの日か砕け散った魂が星空のように照らしてた景虎と、
直江の魂が老いて 死滅か爆発か、消滅かしたときに、
やっと2人交わることができる、んかなぁ。と。
なんとなく その瞬間を思うと 『ようやく あなたを この肱で抱きしめることができる』ってふと思いついてね、 思いついただけなんですが。
そこでやあああああーーーーっと 私の中の蜃気楼が終わるんですよ。。
彼等は不幸じゃない、自分達で見つけた一番の最上の幸せを持ってるんだ、といくら思っても、
遠い。遠すぎる…
『半眼で立つ直江』(40巻P295)
なんというか、、ね。
なんというか。。 凡人には理解できないとこまでいってるっていうか。
少なくとも 生きるんだとか 謙信の抱擁まではなんとかついていけても、
悟られた向こうの、そのまた 何億という世界の向こうで、 ようやく終了。。
と ここまで考えて、 結局 赤鯨衆入隊後から ちょっとずつ高耶の考えてることや感じてることが
わからなくなってきた 者としましては、
いきなり そんな遠くへ行っても、状況は頭でついていけても 自分は『高耶の死んだこの現時点の
時間』 しかしっくり 感じることができないんで、
お陰さまで ぐるぐるぐるぐるぐる…。
その果てに「約束の場所」があるのだろう…けど、
世界が向こうすぎて、
果ては見えるけど まるで蜃気楼のごとく その向こうに実体があって直江はそこへやがては行くんだろうけど、
揺らめいた蜃気楼までしか 見えなくて、
『約束の場所』を せっかく結末が示しても その眺めは綺麗なんだろうけど、
あまりにも遠すぎて、
自分の目の前には 高耶の死があって。
まぁ なんというか 向こう行き過ぎー。
せめて肌で感じれる範囲内に 居て欲しかったよ…。
■ 2004/05/12(水) ブックオフ ブックオフに行ったら、炎の蜃気楼が1〜23巻までいきなり入ってた。
数日前に行った時は怨讐の門が数冊だけだったのに。。
ありゃま。 そりゃ誰かはやると思ってたけど。
もし 徹底的に大嫌いになってしまってたら、40冊全部編集部に送りつけるのに、
ってできるはずもない。ラストがアレだからって高耶が嫌いになったわけじゃないのよ。
■ 2004/05/09(日) 革命の鐘は鳴る 読み返し ちょいとイセの直江の姿を再確認する必要があったため、37巻読み返し。
なんでこんなに高耶の死が悲しいのか、ちょっとわかった。
桑原先生、あたしね、信じて疑わなかったんですよ。
高耶が死ぬわけないって。
どんだけ状況が悪くなっても、だってあの人ずっと生き続けるっていってたし。
自分の力で何とかするって。
自分はどこかで決めつけているせいだ、生きるんだろうって。(37巻P150)
……布都御魂の失敗の前の台詞ですけどね。
だから、何とか成る、というより、
あの人自分で何とかして生き残るって。
どんなに読者がもうダメだって思うような状況でも、
絶対絶対生き残るって、、
約束してくれてたような気が、してたんです。
■ 2004/05/09(日) 続き 40巻は全て読んだ後、自分が読みたいと思うところではなく、もう自分の目に任せて読んでいます。
ここが見たい、という強い欲求より 自然と目が行く先が今読むべきところ、と。
今日読んだ分。 天御柱のところと、謙信とのところ。
4/27の時は一気に駆け抜けてたのが、ゆっくりゆっくり読んでると、あの時より高耶に追い付く事ができる。
謙信と会って、抱擁されて、直江と同化して…。
あの時は視覚で眺めるだけだったのが、少しゆっくり自分の肌に入ってくる感じ。
まぁなんというか、言葉のひとつひとつがクリアに入ってくるって感じですか。
自分に照準を合わせて納得する、しないでなく、素直に景虎の感じる事が入ってくる感じ。
謙信と 冥界軍放逐後の道と、直江と。 高耶の見て来た、作って来たもの。
それから高耶と直江の別れのところを見ると、あいも変わらずやっぱり悲しいけど。
これはしかたがない。蜃気楼に限らずどんな本や映画だって人の死ぬシーンには慣れないもの。
けど。
御柱で少しそーいうのを体験した後だから。
私ですらそうなんだから、同化しあった直江と高耶のモノはまだまだ想像も付かない遥かに凄いものなんだろう。
あの臨終の時の彼等の語りあいが、綺麗で怖くて、高耶の呼吸がもっともっともっともっと、繋がればいいのに、と
思ってただけだったけど、
あの感覚で触れ合えた最後の会話は、眺めを傍観するだけでは理解できようもない、細胞からあるものがあるんだろうと思う。
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