頭のいい人は恋ができない
「素敵なフェイスペインティングやな」 「ああ斬新だろう」 「斬新かどうかはともかく、実際に目にしたのは初めてやな」 とある金曜日。 普段の時間より、随分と遅れて学食に現れた火村の頬に残る赤い手形を見つめ、私は、漫画みたいやな、という感想を抱いていた。 なんせ、綺麗に5本の跡が見て取れるのだ。 咄嗟に避けて力を軽減することをなく、その平手打ちを受け止めた火村。 トレイに灰皿とコーヒーだけを乗せて現れた火村は、昼食を取る気がないらしい。 もしかすると、口の中が切れているのかもしれない。 ゆっくりと私の前の席に腰掛け、火村は煙草に火を点けた。 大きく吸い込んで、大きく吐き出す。 いくら一緒に煙が吐き出されたところで、それがため息であることなど、隠しきれるものではない。 変なところで見栄などはらずに、ため息くらい普通につけばいいものを。 そして、彼がこの後言う台詞も想像が付く。 「アリス、今晩空いてるか」 ほら、来た。 「バイトが退けてからやったらな」 「何時になる?」 「9時過ぎかな。泊めてくれるなら、付きおうたるで」 人が書いている小説を断りもなく読み始めるという行動力と、秀才と誉れ高い頭脳を持つ友人が出来てから1年ばかり経った頃合。 気付けば、私は火村の行動パターンのひとつに組み込まれていた。 愛想とファッションセンスには大いに欠けるものの、件の友人は、はっきりきっぱりとイイ男だ。 バケツで水でもぶっかけてやれば、水もしたたるいい男のいっちょ上がりってな具合に。 従って、彼に対して告白を試みる女性は後を絶たない。 だが、その果敢な挑戦に勝利した者の噂はとんと聞こえてこない。 聞こえてくるのは、奴がどんな台詞で女を振ったか。 そんな内容の話ばかり。 それも、仮にも好意を持っていた相手にそこまで言うかという、悪し様な罵り言葉と共に。 その噂話が全て本当ならば、彼は『こっぴどい振り方講座』という本で一儲け出来るに違いない。 ことによると、相手の性格を見て、微妙に言葉を換えているのかもしれないが、多分それは、せいぜい多くて3パターン。 友人としてのひいき目ではなく、火村は人の心が解る人間だ。 どんな酷い仕打ちを受けても、自分が相手を傷つけたことに傷つかずにはいられない位には。 いくら、中途半端に優しくせずに、付きあえないなら付きあえないとキッパリ振るのが、最終的には相手にとって一番良いと知ってはいても、振る方だって辛いのだ。 出来れば言いたくない言葉を、敢えて口にしなくてはならないから。 そうしなくてもいい様に、細心の注意を払って行動をしている火村だが、今日みたいに避けきれない時も3ヶ月に1度くらいはある。 そんな日の夜。 火村は決して強くはない酒を、浴びるように飲む。 そんな日にひとりでいたくないは、火村の弱さ。 しかし、決して愚痴っぽいことを言わないのは、火村の強さだ。 「なら、《たぬき》に9時半。おごる」 「割り勘でええよ。俺も飲みたい気分やから」 「何だよ。誰かに振られたのか?」 「いや、ほら、俺って感受性強いから」 「意味解んねぇよ」 「解らんでいい」 笑顔と共に言うと、私は学食を後にした。 ★ ★ ★ 「なんだかなぁ〜」その仕事の存在理由にイマイチ納得しかねつつも、私はバイト先の本屋でスリップ──店頭に並んでいる本の中に挟まっている書名等が印刷された短冊状の紙で、精算時に店員が引っこ抜く例のアレだ──のはさみ換えをしていた。 この仕事は文字どおり、本の真ん中あたりに挟まっているスリップを、最終ページに挟みかえる仕事で、ありていに言えば、あまり売れない本に対して行われる。 不思議なことに、売れはしないが、立ち読まれ度が高い書籍というのは存在する。 それは小じゃれたカクテルの作り方の本であったり、芸能人の自伝であったり、ハーブのある生活の本だったりする。 立ち読みをする人にとっては、邪魔にしかならないあの紙は、実は本屋にとっても出版社にとっても重要な代物だ。 本に挟む為に二つ折りになっているあの紙の、前面部分(書名等が印刷されている側)を切り取り、100枚単位に束ねて出版社に送り返す。 この本が当店でこれだけ売れましたという報告をする為だ。出版社によってはそれをすることによって、書店に利益が還元されるところもある。 よって、立ち読みをする人があっちに挟みおし、こっちに挟みなおしボロボロになってしまう前に、更には邪魔な紙切れだと床にポイ捨てされる前に、店側で一番邪魔にならないところに挟みなおすのだ。 入荷したと思えば、次の日にすかさず返品されてしまう本もあれば、この様にスリップを挟みかえながらも、長く棚に並んでいる本もある。 そして、その選考基準は、店長にしか解らない。 日常生活には、こんな細々とした謎がたくさん含まれているのが世の常だ。 しかしながら、挟みかえをしようがしまいが、このスリップというヤツは無くなるときはなくなるのだ。 この作業によって行方不明になるのを免れるスリップというのは、一体全体量のなん%なのだろう。 多く見積もったところで、それがコンマ以下の数値であることは明らかだ。 本屋というのは、大量に新刊が入荷されて、帳簿付けやなんかでとてつもなく忙しい日もあれば、特にするべき仕事がなく、どーにもこーにも暇な日というのもある。 もしかすると、この仕事はこんな日──つまり、今日だ──の為に存在するのかもしれない。 斯くして、スリップの挟みかえという作業は、バイト仲間の中では、仕事をしてる振りをしながら、興味のある本をパラ見する為の時間として存在する。 ちらりと腕時計を眺め、この本の挟みがえを終えたら、レジに入る前に雑誌整理でもしてこようと決心し、私はその時手にしていた本のページを捲った。 小説にしては大きな字で、しかも余白をたっぷりとって印刷されていたその本は、やっぱり小説ではなく、その名も『恋の名言集』。 既に誰かに立ち読みされ、適当なところに挟まれてしまったらしいスリップは、なかなか見つからない。 1ページにつき一つの名言、といったレイアウトの文章は読む気がなくとも、目が映像として捉えてしまう。 「なんだかなぁ〜」 スリップの挟みかえという仕事同様、この本の存在意義に私には疑問を感じる。 名言という形で、美しくまとまった文章は、『ふ〜ん、なるほどね』とは思えるものの、それ以上でも以下でもない。 そもそも、名言というのは、誰がどんな選考基準で決めているものなのだろう。 経験その他で、感銘を受ける言葉というのは、人それぞれ違ってくるものではなかろうか? ん? ああ、違うからこそ、それを捜す為の本なのか。 そんなことを考えながら、私はスリップを探し続ける。 21ページと22ページの間という、スリップ探しにおいては意外と盲点になる──大抵は本の真ん中あたりに挟まっているのだ──場所で、ようやくそれを発見し、ウグイス色のその紙切れを引っ張り出した時、私は出逢った。 現在の自分が最も実感できて、感銘を受ける名言に。 『頭のいい人は恋が出来ない。恋は盲目だから』 ああ、だから── 寺田寅彦(随筆家)の『科学者とあたま』という文章から引用されたという、この一文を目にした時、私は何かに、ものすごく納得した。 謎は全て解けた。 そんな気がする程に。 以前、女を振っては自分が傷つき、酒をあおる火村に、誰かと付き合ってしまえば、面倒を避けられるのではないかと提案したことがある。 その時の火村の返答は、「お前が言う台詞じゃねぇよ」という言葉と、苦々しい表情。 言われてみれば彼の言う通りだ。 私は、『嫌いじゃないから』『好きになれるかもしれない』といったところから、恋愛を始めることの出来ないタイプだ。 まず、『好き』がなくては始まらない。 そんな私が、火村に対してあんなことを言う資格は確かにない。 それに、私が思いつくようなことを考えつかない火村ではないのだ。 色々と思考を巡らしたあげくに、誰とも付き合わないのがベストな方法だと導き出した。 きっと、そんなところ。 やってみもしないで、机上の計算のみでメリットデメリットを判断する。 これは、頭のいい人が陥りがちな穴である。 損得を考えずに、突っ走ったその向こう側に、自分が発見したい何かがあるかもしれないのに。 余計なお世話ではあろうが、心秘かに願う。 いつか、彼が盲目になれる相手に出逢えることに。 そして、秘かな心の、さらに奥底で。 何故か私は、その日が少しでも遠いことを願っていた。 ★ ★ ★ 「悪い、待ったか」「それなりに」 その晩、私は10時近くになって、待ち合わせの店に到着した。 最後の最後でやっかいな客に引っ掛かってしまい、20分もの時間を無駄にした結果だ。 不定期発売の雑誌は、2〜3日前まで入荷情報が入らない。 入らない情報は、いくら本屋の店員といえども、解りませんとしか応えようがないのだ。 ましてや、自分の理解力のなさを棚に上げ、本屋としての自覚がなっていないと絡まれる筋合いは何処にもない。 しかしながら、客商売である手前、解らんゆーとるやろがこのドアホ、とキレる訳にもいかず、ただただ時間を無駄にするという災難に逢ったあげくに、友人のこの返答。 私はため息をついた。 「こういう時は、嘘でも、今来たとこやてゆーとけや」 「それなりにって言った時点で充分気はつかってる。本音を言うなら、ああ、待ったともって言いたいところだ」 ああ言えば、こう言う。 この言葉はきっと、どこぞの名工が火村の為に腕によりを掛けて作ったに違いない。 「いいから座れよ」 何か気の利いた反論でできないものかと、ジト目で彼を睨んでいると、火村が向かいの椅子を指差し言った。 確かに、ここで立ちつくしているのも、変な話だ。 言われるままに椅子に腰掛け、結局これぞという切り返しも思いつけなかった私は、言葉ではなく、行動で報復することにした。 火村の前に置かれたビールのグラスとお通しの小鉢を奪って、全て自分の胃袋に納めてやる。 畜生、空きっ腹にビールが効きやがる。 「ラッキー、それ、もう温かったんだよ。すいませんオーダーお願いします」 そんな私の行動を見て、火村が涼しい顔で言った台詞は周りのサラリーマンから笑いが漏れる。 火村が、外で飲むならココ、と決めているこの店は、大勢で騒ぐには向いていない店の作りな上に、お値段も少々──ほんのちょっとだが──張るので学生はあまり来ない。 よって、この店の客の殆どが仕事帰りのサラリーマンだ。 そんな中で、私が客の中で少々浮いてしまうのは仕方がないと思いつつ、浮かない火村もどうかと思う。 「又しても、有栖川くんの負けやね」 負け惜しみに、そんなことを考えていると、オーダーを取りに来た女将の台詞が追い討ちを掛けてくれた。 「次は勝ちます。とりあえず休戦や火村。飲むで」 いつ戦いが始まったんだよという火村の呟きを聞き流して、私はとりあえずこれでという台詞の前に、12品の料理の名前を口にした。 ★ ★ ★ 「う゛〜、気持ち悪い」翌日の夕方、よれよれになりながらも、私はバイト先の本屋へと向かっていた。 昨夜は確実に飲み過ぎた。 友人のやけ酒(?)に付き合うつもりで、自分の方が先に潰れたら世話はない。 俺ってやつは、なんて役に立たない友人なのだろう。 潰れた私を連れ帰るだけでも火村にとってはいい迷惑だ。 しかも、今になっても酒が抜け切らなくて、へろへろしているていたらく。 駄目だ、ちょっと休憩。 すぐ先の公園の自動販売機で缶コーヒーを買い、ベンチに座る。 コーヒーを半分ほど一気飲みして、ふぅと一息ついた時、頭上から声が振ってきた。 「あら、有栖川くん」 見上げると、そこには買い物袋を持った、《たぬき》の女将の姿。 考えてみればこの公園は、商店街から《たぬき》までの近道だ。開店前に何か足りない物でも買ってきたのだろう。 「昨日はどうも」 私はぺこりと頭を下げる。 「見るからに宿酔いて感じやけど、あれから大丈夫やった?」 「大丈夫って? ああ、火村が頑張ってくれたみたいで、きちんと部屋まで辿り着きましたよ」 「そうやなくて。火村くんの背中に吐いたりしなかった?」 「はぁ?」 私が上げた間抜けな声に、女将が詳しく語ってくれた昨夜の出来事は、正に衝撃の事件だった。 潰れた私を肩に担ぎ上げて帰った火村に、店内の人間から『頑張れ色男』とかいう、ヤジが飛んだのはこの際どうでもいい。 私が店内で吐いただって? しかも、いち早く私の様子がおかしいことを察知した火村が、トイレまでは間に合わないと咄嗟に判断して、自分のデイバックを犠牲にしただと? 嘘だ──嘘だと思いたい。 仮にそんなことがあったとしたら、火村は何故ひとこともそれを言わないのだろう。 「それはもう、早業よ」 面白そうに女将は笑う。 「でも、中身をぶちまけ損ねてレポートを駄目にしたのは痛かったみたいよ。そこまでの犠牲払うてもらわんでも、私らそんなの慣れてるのにねぇ」 あらこんな時間、また来てね有栖川くん、と立ち去る女将の背中を私は呆然と見送ることしか出来なかった。 ★ 「畜生、おしゃべりな女将だな」女将の背中が、公園を抜けて見えなくなるとほぼ同時に、聞こえて来たのは何故か火村の声。 私の隣にどかっと座り、煙草をくわえている火村の表情はなんだか苦々しげだ。 「火村……何で?」 「お前抱えて、ぶちまけたデイバックの中身を持って帰ってこられる訳がないだろうが。《たぬき》で預かってもらってんだよ。取りにきてみりゃ、女将が暴露の真っ最中だったって訳だ」 「そうやなくて」 そう、私が聞きたいのは、火村がここにいる理由ではない。 なんで、そんなことをしたのか。 なんで、それを黙っていたのか。 そのことだ。 「解んねぇよ、気付いたらそうしてた。考え無しにとった行動の割には駄目になったのはレポートだけだっていうのは、ラッキーだったけどな」 「ラッキーて、どっちか言うと最悪やん。提出期限は?」 「週明けに決まってるだろ。1回書いたレポートなんて書き直すの訳ねぇよ」 なるほど。秀才は言うことが違う。しかし、 「どうして黙ってたん?」 「さあな。やっぱりそれも解んねぇよ」 言うと、火村はゆっくりと煙草の煙を吸い込んだ。 夕焼けに染まる公園のベンチに無言で座る大学生ふたりの頭上に、巣へと帰るカラスの鳴き声。 アホォ〜。 全く── カラスの言う通りだ。 恋が出来なくたって、火村、君は頭が悪い── 2003.10.19
はは〜ん。誰よりも頭が悪いのはきっと私。 |