劇的ビフォーアフター
「アリス…」 「あかん」 浪速のエラリー・クリーンを自称する、某推理作家宅のソファにて。 今の今まで、温いコーヒーを口に運びながら学生のレポートの出来の悪さを嘆いていた某助教授が、ふいに黙り込み、一呼吸おいて私の名を呼んだ。 二人の間を取り巻く空気が変化する前にと、私は聞く前から内容が解ってしまっている、その提案を却下した。 「……まだ、何も言ってねぇだろうが」 「言わんでも解る。最近の君は口を開けばそればっかりや」 「俺にそればっかり言わせてるのはアリスだろうが。言っとくがな、俺の主張は成人男性として至極真っ当なものだぜ」 「それを言うなら、そーゆーことは相手の同意を得てからするのが成人男性として真っ当な生き方いうもんや」 「ちっ、こういう時だけ口が立ちやがる」 苦々しい表情で吐き捨てると、火村は煙草に火を点けた。 こうなると、今までの話はなかったことになる。 幾度と無く繰り返したこのやりとり。 それと同じ数だけ、私も胸の中で火村に手を合わせていた。 悪いな火村。もうちょっとだけ待ってくれ──と。 * * * 一番の問題点は、私たちが長年友人であったということだろう。紆余曲折のあげくその関係に一応の進展をみてから約ふた月。 他人から見てどう映っているかは知らないが、私だっていい大人だ。 それ相応の性欲というものがある。 それを、処理という形ではなくて、お互いの体温を共有するために使えたならとも思う。 その、いい大人が何を戸惑っていると思われるかもしれないが、いい大人だからこそ一歩を踏み出す勇気が出ないのだ。 怖さを知らない子供の方がよっぽど大胆な行動に出られる。 今は親指サイズのアマガエルさえ怖くて触れないという女性が、昔はイモリを鷲掴みできていたように。 そして、現在の私は恋心というものが、いつしか当たり前になり、色あせてしまうことを知っいる。 友人のままなら来ないであろう別れが、恋人という関係になった途端に身近に迫ってくるような気がするのだ。 今なら、今ならまだ友人に戻ることが出来るかもしれない。 キスを交わして、お互いの肌に触れ合ってしまっている今でさえ──最後の一線を越えさえしなければ、友人に戻れるのではないかと。 それが無理だということを、自分自身が一番良く知っているにも関わらず。 それほど── 彼──火村と友人として過ごした日々は、私にとって大切な思い出なのだ── * * * 「おばちゃん。コレどないしたん?」ある日、いよいよ冷蔵庫の中を調味料のみにしてしまった私は、近所のスーパーへと買い物に出た。 そして、その道すがら、馴染みの駄菓子屋が騒々しいことになっているのに出くわすこととなる。 板やら角材やらを持ってその駄菓子屋を出入りする業者の人間と、その様子を表から感慨深げに見守る老婦人。 私は思わず、その駄菓子屋のおばちゃん──というより、ばーちゃんだが──に声を掛けていた。 「ああ、有栖川さん。何がて、見ての通り改装っちゅうやつですわ」 私の姿を認めたおばちゃんが、力無い笑顔と共に、全くもって見たの通りの状況を告げる。 けれど、私が聞きたいのはそんなことではない。 「……せやけど、おばちゃん。自分の目の黒いうちはこの店はこのままでやる言うてたやろ。駄菓子だけなら今時スーパーにも売ってるて。このいかにもな外観が駄菓子屋の存在価値やて」 「まあ、色々思うところがありましてな。私もずっとそう思うとったし、近所の皆さんもそう言うてくれはります。せやけど、現実問題として何をするにも不便でな。店だけやなく住んどる部分も、段差は多いし階段は急やし。まだまだいけるつもりでおったけど、この間階段踏み外しましてな──いや、3段くらいやから大したことはあらへん。気持ちの問題やな。それに、前から息子夫婦が一緒に住もう言うてくれとったし。思い切って改装に踏み切りましたわ」 遠い目をして語る駄菓子屋の店主は、サバサバしたようにも、淋しそうにもどちらにも見える。 私は尋ねた。 「駄菓子屋、やめたりせんよね」 「もちろんや。今更あの小うるさいクソガキ共の声聞かん生活やなんて考えられへんわ」 クソガキ共──言葉の悪さの裏側に彼らへの愛情が隠れている。 彼女が使ったその言葉は、独特の優しさを持って私の耳に響いた。 「そうかー。それ聞いて安心したわ。でも、やっぱ俺としては残念やな。あの、絵に描いたような駄菓子屋がなくなんのは」 「なくなりはせんですわ」 「はい?」 「工事が始まるまでは、私も有栖川さんと同じ気持ちやったけど解ったんよ」 「何が?」 「壁はがされて柱がむきだしになっとっても、私には見えるんよ。有栖川さんの言う、絵に描いたような駄菓子屋の姿が。あの駄菓子屋はこれかも私の心の中に有り続ける。人の記憶いうのは、新しいもんに塗りつぶされるんやなく、積み重なっていくもんなんやて……。それに気付けただけでも、改装決めた意味はあるいうもんやわ」 穏やかな笑みを浮かべておばちゃんが語る。 その瞳は、在りし日の駄菓子屋の姿をしっかりと捉えているのだろう。 そして、今後新しい店舗での思い出が積み重なってゆくのだ── * * * 「アリス…」「ええで」 悪友曰わく、売れない作家として一本立ちしている某推理作家宅のソファにて。 温くなってしまったアイスコーヒーをすすりながら、牛乳パックに頭を突っ込んでしまった飼い猫の話なんかをしていた臨床犯罪学者が、ふいに黙り込み、一呼吸おいて私の名を呼んだ。 「まだ、何も言って…えっ?」 同じやりとりを重ねすぎて、駄目もとが身に付いているのだろう。いつもの台詞を口にしかけた火村の言葉が途中で途切れ、目が見開かれる。 「えっ? ってか。そんなに意外なら、や…」 やめておくか、という私の言葉の続きは、火村の唇に遮られた。 やっと手に入れたとでもいうように、火村の腕が私の身体をかき抱く。 彼の重さを受け止めながら、私は心の中で呟いた。 待たせたな──と。 * * * なんということだろう。皮肉屋の悪友は姿を消し、私の前に現れたのは、嬉しさに頬を紅潮させ、今までになく甘く囁き、身体中にキスを降らせる、優しげな瞳の恋人だった。 その変貌は私を不安にさせるものではなくて、むしろ、より彼に対する愛情を深めるものだった。 だから、理解ではなく実感ができた。 記憶というのは、新しいものに塗りつぶされるのではなく、積み重なっていくものだということが。 これから、そして、ここから── ふたりは新たな関係を積み重ねていくのだろう。 ある時は、相手の傍らで。 ある時は、遠く離れた場所で。 ある時は、お互いの腕の中で── 2003.08.09
微妙に長めだし、分類もできるけど、 |