いつかのそして今年の Merry Xmas
「クリスマスやったんか……」 24日。何の気はなしに、日用雑貨と食料品の買い出しに出て、私は初めてそのことに気付いた。 勤め人ではなく、家にこもり気味で、あげくに彼女の一人もいない中年一歩手前の30過ぎともなれば、イベントごとに疎くなって仕方有るまい──勿論、言い訳(誰に?)以外の何ものでもないが──と思う。 そして、クリスマスだと気付いた途端、勤め人だった頃の記憶が蘇る。 そう、印刷会社に勤めていた時は、忙しさに忙殺されながらも、季節感だけはやたらに感じたものだ。 広告というのは、何かのイベントにからめて打つのが、ある意味基本であるから、やれ正月だ、やれ入学式だ、やれ運動会だの……。 もちろん、他の人間がそれを感じるのよりは多少早めではあるが。 よって、勤めていた頃は、11月も末になると年末の前倒し進行も相まって、クリスマスを感じ始めたものだ。 といっても、心浮き立つことはない。なぜなら、それが地獄の始まりなのだから。 もともと印刷業界とは、キツイ・休日少ない・給料安いの3Kが揃ったところなのだが、年末進行のこの時期は、それが2倍(当社比)程に跳ね上がる。 その証拠に、私は会社に勤めていた頃、勤労感謝の日に休めたことがなかった。『勤労感謝』というネーミングの祝日なのにも関わらずだ。 11月半ばから年末年始の休みに入るまでのこの1月半は、1日最低14時間は働いて、休日は4日あれば良い方。ひどい時なら1日の労働時間が16時間を超え、休日が3日位の時もある。 とはいえ、クリスマスの頃になれば、その地獄の年末進行も下火になる。 下火というよりもクリスマスが過ぎればそのまま年末年始休暇に突入するというのが正確だろう。新聞の折り込み広告を受け付けるセンターが、その頃には休みに入ってしまうからだ。したがって、それに間に合わせるべく我々も死ぬ思いで仕事をし、26〜27日には休暇に入るのが常だ。 但し、それまでの疲れが蓄積しているため、大抵の人間は休み初日は寝て過ごす。 知らない人から見れば、ただただ1日を無駄に過ごしている様に映るだろうが、思い切り眠ることが一番の幸せで有意義な過ごし方だと感じる程に、印刷会社の年末は過酷なのだ。 そして、その年のクリスマス。 当時は、それがサラリーマンとしての最後の年末になるとは思ってもいなかったのだが、結果的にはそうなったその年のクリスマスは、最後なだけあって、非常に印象深いものだった── 色々な意味で── * * * 「有栖川、緊急事態や。社員食堂に行け」待ちに待った年末年始休暇の前日、世間的にはクリスマスと呼ばれる日だ。 取引先に校正刷りを出しに行き、帰社した途端、主任に謎の指示を受ける。 緊急事態は日常茶飯事のこの業界だが、何故社員食堂? 「何ですか?」 「折り指定ミスや。西村の野郎、裏と表の折り指定間違えよったんや。今、手の空いている人間総出で折り直してる」 「ありゃ〜、最悪ですね〜。それ、手伝うたらいいんですか?」 思わず声が上がる。 それは前代未聞の間違いだ。考えようによっては刷り直しよりも時間がかかる。機械なら一瞬で折ってくれる物だが、それを人の手で折り直すとなると、時間がどのくらいかかるのか想像も付かないし、したくない。 「最悪っちゅう台詞は最後まで話し聞いてから言うた方がいい。西村が指定ミスしよった広告は、よりによってB1(ビーワン)版(畳1畳分位のサイズ)、5万通しの大物や。心当たりないか?」 「心当たりって、それまさか俺の担当しとった……」 「せや、明日の朝刊折込のエトーナノカドウや。もう半分位は折り直し出来てるみたいやけど、どう頑張っても発送が間に合わん分が出てくる。意味、解るな」 「……販売店持ち込みですか?」 「ほんで、一番遠い所に誰が持っていくかも解るな」 「私……でしょうね」 当然だ。私が担当した広告なのだから。 しかし……販売店持ち込み。 これが行われる時は、本当に本当の緊急事態だ。 新聞に入ってくる広告というのは、最初から新聞に挟まれて各販売店にくる訳ではない。 新聞が到着してから、販売店側の人間が配達する直前に広告を挟み込むのだ。 つまり、発送が間に合わない位切羽詰まっているということは、その広告の持ち込みが本当にギリギリになるということで、よって迷惑料の代わりに持ち込んだ人間が、その挟み込み作業を手伝う羽目になる。 なぜなら、その作業が終わらない限り、新聞が配達できないし、自分が持ち込んだ広告が挟まれないまま配達されたりしては、もっと困るからだ。 よって、導き出される結論は、私が自宅で布団と仲良くできるのは、早くても明日の朝日が昇った後になるというものだった。 否、私と布団との逢い引きはともかくだ、この後の予定も完全にキャンセルになる。 「ほら、早う手伝いに行け。折り直しが遅うなればなる程、お前が帰れるのも遅うなる」 どうしたものか、と思案していたところに主任から催促が入る。 「すいません。その前に電話1本掛けてきます」 「彼女か? 何やったら俺が証言してやろか? 有栖川は涙と鼻水たらしながら仕事してますて。クリスマスに予定キャンセルしたら、一発で浮気や思われるやろ」 「そんなええもんちゃいますよ」 にやにやと品の悪い笑みを浮かべ続ける主任に背を向けて、私は階段の踊り場に自動販売機と並んで置いてある赤電話へと向かった。 主任の誤解は、この際そのままにしておくことにする。 下手に本当のこと──言うまでもなく火村との約束だ──を言って、心底気の毒そうな視線を送られる位なら、居もしない架空の彼女の噂を立てられた方が、まだ男としてのメンツが立つ。 火村も今日までは雑用で大学に顔を出すと言っていたから、この時間ならまだ研究室か。 システム手帳を開き、直通番号をダイヤルする。 コール3回待って、相手が出た。 『はい、杉下研究室』 聞き慣れた悪友の声がする。 「火村か?」 『ああ、アリスか。どうした?』 「今日の約束駄目そうやわ。仕事が押してもうて。明日……は忘年会か。明後日にずらしてもええか?」 『2〜3時間で片が付くってんなら、お前の部屋で待っててもいいぜ。どうせ、鍵は何も生えてない植木鉢の下なんだろう。相変わらず』 「放っといたれや。けど、あかんわ。少しどころやない、多分、帰れるのは明日の朝や」 『大丈夫なのかよ? 昨日の口振りだと、お前、体がもう休みモードに入ってるだろうが』 「大丈夫やない言うても、どうなるもんでもないやろ。一端解散した気力をまたかき集めるのはしんどいけどな、それが勤め人ちゅうもんやろ。悪いな、ドタキャンで」 『別にそれはかまわねぇけどな』 「ほんま悪いな」 『アリス』 「なんや、俺、もう行かんとならんのや」 『俺、礼服持ってないから、そこんとこヨロシクな』 「? 意味が解らへんのやけど」 『死ぬなってことさ』 電話の向こうで、火村の含み笑いが聞こえる。 「縁起でもないことぬかすなっ!」 私はガチャンと受話器を叩き付けた。 とはいえ、表現は悪いものの、火村の心配は的を射ていると言えるだろう。 ここまで気力で頑張ってきたものの、私は子供の頃から気が抜けた途端に風邪やら急な腹痛やらにみまわれる、病は気から──意味は違うが──を地でいく人間なのだ。 頼むぞ私の気力、せめて販売店に辿り着くまではもってくれ── * * * 「ほら、あともうちょっとや、頑張れ自分」翌朝、私はへろへろになりながら、自分のアパートの階段の手すりにしがみついていた。 結局、販売店で折り込みを手伝って、営業車で会社に到着したのが朝の6時半。それから動き出した電車に乗って帰宅。 必至にかき集めていた気力も、とっくの昔に限界を通りこしている。 まさしく生きて帰れて良かったと実感する。 私もキツかったが、私が戻るまでただただ会社で待機していた主任も気の毒だった。 そして、どえらい迷惑をかけられはしたものの、新年早々赤伝を切らされることと、夏ボーカットが既に決定してしまった西村さんも気の毒だ。彼だってベテランなのだ、余程疲れていない限り、あんな初歩的なミスをやらかす訳がない。 ああ、印刷会社の社員は気の毒すぎる。 そういう俺も印刷会社の社員♪ なーんてな。 既に思考もメロメロだ。 やっとの思いでドアの前まで辿り着き、コートのポケットから鍵を取り出し開錠する。 丸一日部屋を空けたのだ。中は完全に冷え切っているだろうし、腹も減っているがそんなことはどうでも良かった。今の私は布団の中に潜り込みさえすれば寝られる。否、玄関先でも寝られそうだ──凍死はするかもしれないが。 倒れ込むように部屋に入り、玄関先に座り込む。 この後、靴を脱ぐのとスーツを脱ぐ作業が残っている。今はそんな簡単なことが耐え難く面倒なものに感じる。 のろのろと靴を脱ぎかけたその時──冷え切って外と殆ど変わらない温度の筈の室内が、何故か暖かいのに気付く。 ストーブの消し忘れか? 現在まできちんと部屋が存在しているのだから、今更焦ってどうなるものでもないと、冷静に思えるのは後のこと。 私は慌てて振り返った。 「よっ、無事ご帰還か」 途端、今の今までベッドの脇で居眠りをしていたことが丸解りな火村が声を掛けてくる。 「火村──君、なんでおるんや」 驚きのあまり、一気に目が覚める。 「そりゃ、ここがお前の部屋だからろうよ。他人の部屋なら今頃警察に突き出されてる」 「俺の部屋かて不法侵入に違いはないで。そんなんやなくて、ここに居る理由や。俺、帰られへん言うたやろ」 「ああ、言ったな。万が一の可能性ってヤツに掛けたんだが、日頃の行いが悪かったらしいな」 「何を今更。どないしたっちゅうねん。まさか、クリスマスを俺と過ごしたかった訳やないやろ」 私の冗談に火村は大仰に目を見開いた。 「まさか。クリスマスに限らず、どうしてもお前と過ごさなきゃならない義務の有る日っていうのは存在しねぇだろう」 「そりゃもっともやけどな。火村そろそろ勘弁してくれへんか。俺くたくたなんや」 「それは申し訳ない。では、用件を。アリスと過ごさなきゃならない日っていうのはないが、どうしてもお前に会いたい日っていうのはあるんだよ……えっと、あっ、ここか」 火村がおもむろに尻の下から何かを取り出す仕草をする。 というか火村。 もし、もし仮にだ。 何だか知らないが、その尻の下から取り出した何かを私にくれるつもりならば、それはあんまりじゃないのか。 「ほら」 火村が何やら古びた本を私に差し出す。 やっぱりくれるのか。 包装も何もされていない、その古本を受け取って、私は驚愕した。 「火村っ──」 「欲しかったんだろ」 「お前っ、これをケツの下に敷いてたのかっ。なんちゅうバチ当たりなことをっ!」 「正確には座布団の下だぜ」 「同じやっ、よりによって桃源社版の澁澤龍彦『黒魔術の手帖』を足蹴、否、尻に敷くとはっ。知っとるやろ、コレもう絶版……ああ、もう、そんなんどうでもええわ。火村、ありがとな」 「どういたしまして。欲しがってるの知ってたからな。なるべく早く渡したかったんだよ」 「ああ、持つべきものは友達や」 「喜んで貰えて良かったよ。じゃあ、俺は帰るから、その本抱いて寝るんだな。壊すなよ」 ポンポンと私の頭を数回叩いて、火村はコートを羽織った。 「あっ、火村、この本はありがたく頂戴するけど、なんかお返しに欲しいもんないか? 奮発したるで」 既に玄関先で靴を履いている火村に、思い立って声を掛ける。 「ん? ああ、別にいいよ。もう、貰ったしな」 「はあ? 何を?」 「お前が無事に帰ってきたことさ」 * * * 「結局、火村にクリスマスプレゼント貰うたのは、あれが最初で最後やったな」かくいう私は、結局奴に一度もクリスマスプレゼントなるものをしたことがない。 少々の思案の末、私は自分の買い物を取りやめて、いつぞや火村が目を付けならがも、その値段に購入を諦めた革のコートを買いに行くことにした。 私が貰った本よりもかなり値段は張るが、ええい、利子も含めて出血大サービスだ。 そして、寒々としているであろう、奴の下宿で待ち伏せしてやろう。 そう、フィールドワークを終えて、今頃東北新幹線に乗って西に戻りつつある助教授を。 紙袋がぐしゃぐしゃになるにもかまわずに、プレゼントのコートを枕にして寝てやろう。 きっと、数年前のやりとりが、役者を入れ替えて再現される筈だ。 だから、私も言ってやるのだ。 君が、無事に戻ってきてくれたことが、なによりのプレゼントだと── 2002. 12. 25
今日上げる為に書いていた中編がどうにも間に合いそうに無いことに気付き、急遽予定変更。 |