形のない忘れ物

「えっ? 帰るんか?」
 寝起きのコーヒーを胃に流し込んだ火村が、うまそうに燻らしていた煙草を灰皿に押しつけ「邪魔したな」と言って半時間前まで自分が横たわっていたソファから腰を上げた時、私は思わず声を上げた。
「ああ、さすがに新学期最初の講義が休講じゃまずいだろ」
 これが2回目だったら迷わず休講なんだけどな、とめんどくさそうに髪の毛をかき回しながら呟く火村は、今日──いや、明日が何月何日であるのかをすっかり失念しているらしかった。

*   *   *

 予想をはるかに超えて手こずらされたフィールドワークになんとか決着を付けて、十年来の悪友である火村が我が家に姿を現したのは、今日の20時を回った時分だった。
 火村から「来るか」と声がかかった時点で、3日前に過ぎ去った締切に首を絞められていた私は、今回それに同行することが出来ていない。
 いや、その原稿自体は、校正者の残業時間を大いに増やしたかもしれないが、製版屋の休日を潰しはしない程度の遅れで仕上がったので、途中から合流しようと思えば出来ないこともなかったのだが、さして捜査に役立てるとは思えなかったし、火村から「そろそろ暇か」という再度のお声掛かりもなかったので遠慮したのだ。
 どうやら火村は火村で、私にプレッシャーをかけてはならないと思ってくれていたらしく、フィールドワークを終えて電話を入れた彼は、私の明るく元気な声を聞いて、受話器の向こうで『だったら、顔ぐらい出せよ』と呟いた。
 ──解った、今度からそうしてやろう。
 心で呟くと同時に、火村に『悪いが、そっちでちょっと寝かせてもらっていいか?』と尋ねられ、私は快諾した。
 程なく顔を出した火村に聞けば、犯人との追いかけっこはどうやら熾烈を極めたらしく、もう若くない犯罪学者はこの二日間、まともに睡眠をとっていないらしかった。
 なんでなのかは不明だが、仮眠を取るなら奇数時間にしておかないと却って調子が悪くなるという不思議な体質を持ち合わせる火村に、取りあえず3時間後に1回起こしてくれと頼まれ、半時間ほど前に彼を起こしたのは、確かに私である。
 その依頼には、今日はここに泊まらず自宅に帰るという意志が含まれていると考えるのが普通だとは思うが、その時の私は大変脳天気なことを考えていたのだ。
 こうなってみると、その発想がとてつもなく恥ずかしいものに思えるのだが、火村が日付の変わった瞬間に恋人から誕生日プレゼントを取り立てる為にそうさせるのだと。
 いい歳をした男が自分の誕生日を指折り数えて楽しみにしていたらそっちのほうが問題アリだと、確かに私も思いはするが、それはそれで、これはこれだ。
 火村の恋人は、彼とそういう関係になってから、一番最初に「誕生日おめでとう」のメッセージを贈ることを決めている。
 もう一昔前の電報のCMではないが『君が生まれてきたことにありがとう』という気持ちを込めて。
 相手に都合があることは重々承知していても、ラインや電波を通さず直に火村にそのメッセージを伝えられる機会を奪われたことを、その恋人──ええい、面倒だ。ああ、そうだとも、今更、ぼかして表現してみたところでバレバレ過ぎて却って見苦しい──私はすごく残念に思っているのだ。

*   *   *

 こういう自体に陥ってしまうと、本日の火村の来訪はなんとも具合が悪かった。
 ちょっと前まで顔を突き合わせていたのに、日付が変わった瞬間を狙って火村の携帯に電話やメールを入れるのはなんとなく白々しく感じるし、運転中でしかも疲れていることが解りきっている相手の集中力をより低下させることなどしたくない。
 ならば自宅の留守電?──いや駄目だ。携帯電話がその代役を果たすのか、半年前に壊れた火村の部屋の留守電は未だ修理も買い換えもなされていない。
 ──畜生。横着しくさって……
 と、こんな時だけ腹立たしく思いはするものの、電話自体は繋がるのだから、そのまま放っておく火村の気持ちも解らなくはない──というか、ウチの留守電が同じ故障をしたならば、私も確実にそのまま放置するだろう。
 これはもう、火村の帰宅時間を神通力で見極めて、絶妙のタイミングで電話をかけるしかないかと、およそ実現不可能なことを考え始めたところで、どこでどう切れていた線が繋がったのか、私は唐突に思い出した。
 私がそうであるように、火村にだって携帯以外のメールアドレスがあることを。
 気付いてしまえば、なんで最初に気付かなかったのか不思議なくらい、今となっては普通の連絡手段であるにも関わらず、私が咄嗟にその存在を思い出せなかったのには理由がある。
 私の中で、火村がPCメールで連絡をとる人として振り分けられていなかったからだ。
 誰しもがそうなのか、それとも自分だけであるのかは解らないが、私はなんとなく相手によって連絡方法を使い分けてしまっている。
 その主な分類は、固定電話・携帯電話・携帯メール・PCメールになるのだが、その選別基準は本当に自分でもよく解らない。
 敢えて理由をつけるのならば、後ろにいけば行くほど気安くない相手ということになるのかもしれない。
 もちろん、複数の方法で連絡をとる人物も居るし、その状況によって一概には言えないのだが。
 いや、そんな分析はどうでもいい。
 0時丁度に送信できるよう、急いでPCを立ち上げなければと、私はそそくさと書斎へと向かった。

*   *   *

 結局、突き詰めれば人間なんて自分勝手なもので、私が火村に誕生日のメッセージを贈るのは、自己満足に過ぎないのだと思う。
 いや、どちらかというと『忘れている訳やないぞ』という自己主張だろうか。
 最初最初と言ってはみても、火村が私の送信したメッセージを見つけるのがいつになるかは解らない。
 うまくゆけば、自宅に戻った火村が寝る前のメールチェックで発見するかもしれないが、明日の午後、通りすがりのゼミ生辺りに「先生、お誕生日おめでとうございます♪」とか言われてしまった後になる可能性の方がずっと高いだろう。
 私が送り火村が受け取ったメールに、00:00とゼロが4つ並んでいさえすればそれで良い──これを自己満足と言わずしてなんと言う。
 ただ、その自己満足を押しつけられた人間が、それをどういう風に受け止めるかによって、人の関係は変わるのだ。
 嬉しいと思うか、鬱陶しいと思うか、気の毒に思うか、何とも思わないか──
 好意の度合いの順としては、嬉しい・何とも思わない・気の毒・鬱陶しいになるのだろうが、大抵の場合、人間関係が変わりやすいのは先に挙げた順となる。
 良いにしろ悪いにしろ、感情をゆさぶることが出来る人間は印象深く、それができない人間はその逆だ。
 そして──出会った時から現在に到るまで、ずっと私の感情をゆさぶる男。
 それが、火村なのである──

*   *   *

 ──柄でもないことを真剣に考えてしまったな。
 舌打ちをひとつして、また変なことを考え出さない内にさっさと寝てしまおうと、私が寝室に向かいかけた時──ドアチャイムが鳴った。
 一瞬、びくりと身をすくませてしまったが、すぐに火村が戻って来たのだと察した──というか、こんな時間にドアチャイムを鳴らす理由があるのは、彼と泥棒くらいなものだ──私は、急いで玄関に向かった。
 チャイムを鳴らしたのが火村ならば忘れ物、泥棒ならば不在確認、どちらにしても無視はできない。
 泥棒であることはまずないだろうと思いつつも、一応ドアスコープを覗き込み、その姿を確認した私は鍵とドアを開けて火村を中に招き入れた。
「忘れ物か?」
「ああ」
「何を? というか、君、手ぶらで来たのに、どうやって忘れ物したん? ある意味、究極に器用なやっちゃな」
 煙草・ライター程度なら忘れてもわざわざ戻っては来ないだろうし、ポケットから携帯電話でも滑り落としたのか?──と、何気なくリビングのソファへと視線を流した私は、次の瞬間「うわっ!」と大声をあげる羽目に陥った。
 なぜなら、火村が無言で私をいきなり背後から抱きしめたからだ。
 予想外の出来事に驚愕し、ドアチャイムが鳴ったとき以上に身をすくませた私の耳元で、火村が囁く。
「俺の忘れ物は、アリス──お前から貰う誕生日プレゼントさ」

*   *   *

 結局──全てが明らかになり、火村が私から後々まで形として残る誕生日プレゼントを受け取ったのは、翌日、太陽が南中する頃合だった。
 互いに間抜けが過ぎて、笑い話にしかならない昨夜の出来事の真相はこうだ。
 徹夜の続いた火村は日付を1日勘違いしており、自分の誕生日になんのリアクションもない恋人に大いに不満を抱きつつ、更にはそんなことですねる自分を苦々しく思いつつ帰路についた。
 そして、火村が自分の間違いに気付けたのは、私が彼のPCに送ったメールが携帯に転送された為。
 待受画面がカレンダーであるのに日付を勘違いしていた火村も抜け作ならば、気をつかったつもりでいながら結局は運転中の人間の携帯を鳴らしてしまった私も大概間抜け。
 けれど、折角の日にすれ違わずに済むのなら──
 私は間抜けな自分が好きだ。
2005.04.15

ここを外したら、いよいよ有栖川サイトの看板を降ろさにゃならんだろと自分を叱咤しつつ、助教授のお誕生日ということで、彼のことが好きで仕方がないアリスなどお贈りしてみました。
とか言ってみたところで、糖度ゼロ(というよか、マイナス値?)っぽいのは、相変わらずなんですが(爆)
プレゼントの内容は、形があるのもないのもご想像におまかせ♪ ということで。
着々と彼らの年齢に追い付きつつある自分の年齢を恨めしく、何年経っても34歳の彼らのことを羨ましく思いつつ…
何度目だか解らない34歳のお誕生日おめでとう火村。

● Alice top ●


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