ね・が・い──

「いいぜ。後で後悔するなよ」
 相変わらず小憎たらしい火村の言いぐさ。
 だいたい、後悔っていうのは後でするから後悔と言うんだ。
 6月のとある日。
 アリスは既にかすんでよく見えなくなっている目でワープロ画面を睨みつけながら、忌々しげに火村の台詞を思い出していた。

★   ★   ★

 事の発端は、学園祭でクイズ研が主催した『英都雑学チャンピオン』なる、マニアックなイベントだった。
 役に立たない雑学の貯蓄量だけには自信のあるアリスは、優勝商品のビール大瓶2本券×10枚をゲットを目論み、いそいそとそれにエントリーした。
「大瓶20本やで、これでしばらく酒には困らんな。火村にもお裾分けしたるから楽しみにしとき」
 例によって火村がたぬきそばなんかすすっている学食で、アリスは目の前の月見うどんに手も付けずに、いわゆるピースサインの様に右手の指を2本立て──多分、テーブルの上にずらっと20本の大瓶が並んでいる様子でも想像しているのだろう──うっとりと真っ昼間っから夢を見ていた。
「……アリス。捕らぬ狸の皮算用って諺知ってるか?」
 既に汁の量が半分くらいに減っているアリスの月見うどんをチラリと眺め、火村はアリスにこれ以上はないというくらい解りやすく嫌味を言ってやる。
「もちろん知っとる。実は俺、諺の方が自信あるんやけどな〜。あっ、ビールは俺持ちなんやから、君、せいぜい美味いつまみ作ってな」
 自分の嫌味を気付く気配もなく、結構ずうずうしいことを抜かすアリスに火村はやれやれと煙草に火を点けた。
 百歩譲って、優勝する前から皮算用をするのは、まあ、いいとしよう。
 だが、どうやらアリスは火村の下宿にそのビールを持ち込んでの酒盛りまでを予定してるらしい。
 いや、それが駄目とも嫌とも言わない。
 ただ、そういう予定は本人に断ってから立てて欲しいと思うのは、火村の我侭なのだろうか。
 再びアリスのうどんに眼をやって、これ以上友人が夢の世界に行ったままだと、完全に汁が無くなってしまうと判断した火村は彼に現実を思い知らせてやることにした。
 貧乏学生の火村は食料を無駄にすることに、耐え難い罪悪を感じるのだ。
「そこまで言うならアリス、この問題に答えてみろ。ピラミッドの語源は何語だ?」
「へっ? なに?」
「だから、この問題に答えられない様じゃ、優勝は無理だって言ってんだよ」
「言ったなっ。受けて立ったるわ。問題もう1回言え」
「問題聞き逃してるんじゃ、いよいよ優勝は無理じゃねぇのか。まあ、いい。じゃあ、問題だ。ピラミッドは何語だ。制限時間は10秒」
「……」
 なんで、コイツにそんな問題出されんとあかんのやとか思いつつも、アリスの頭は急速に回転を始めた。
 これが問題になるということは、単純にエジプト語という答えではないだろう。否、その発想を逆手にとってエジプト語かもしれない。
「後5秒」
 腕時計を眺めて秒読みをする火村はなんとも感じが悪い。
 アリスは小さく舌打ちをして、再び考えを巡らせた。
 ここまま時間切れを宣告させるのは、あまりにも悔しすぎる。
 この際、意地悪問題説は捨てよう。エジプト語ではないとすると、一番確立が高いのは、様々なものの語源になっているラテン語だ。決めた、これでいくっ。
「ラテン語っ」
 火村が時間オーバーを告げるため、口を開きかけた瞬間にアリスの答えが滑り込む。
 勢い込んで答えたアリスに、火村は意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
「残念。正解はギリシャ語。エジプトの歴史を考えれば解りそうなものだろうが。言っとくがなアリス、出題者はクイズ研なんだぜ。きっとウル○ラクイズ並の問題出してくるぞ」
「ウル○ラクイズなら俺も毎年チェックしとるわっ。アメリカ本土くらいには余裕で行けるっちゅーねんっ。そこまで言うなら勝負や火村。君もエントリーし。もう、優勝なんて関係ないわ。単純に得点勝負や。負けた方は勝った方のいうことを何でも聞く。これでどうや?」
 と言いつつも、アリスは火村がこんな賭に乗ってくるとは思っていなかった。
 大体、この火村が、クイズ研手作りの変にデコレーションされた回答席に座って、ピンポ〜ンとかやっている姿なんて想像がつかないではないか。
「いいぜ。後で後悔するなよ」
 が、火村から返ってきたのは、小憎たらしくはあるものの、予想外にその賭に乗るというものだった。
「あほ抜かせ。俺が勝ったら外国書購読のレポート代わりに書かせたる。覚悟しとき」
「そっちこそ覚悟しとけ。じゃあ、エントリーしてくる。俺が帰ってくるまでに、そのうどん残さず食っておけよ。捨てたりしたら、一生俺の見ている前でうどんは食わさねぇからな」
 アリスのでろでろのうどんを指差しながら、火村は席を立った。
 そんな火村の背中に、「おかんか君は…」と呟いて、アリスはすっかり汁気の無くなった月見うどんに箸を伸ばした。

★   ★   ★

「絶対、勝つっ。勝つのは俺や」
 学園祭2日目。アリスは『英都雑学チャンピオン』の回答席で自分に気合いを入れていた。
 あの社会学部の秀才がクイズ研のイベントに出場するらしいという噂が英都中を飛び交い、それが主催されている大学裏の駐車場は結構な人数のギャラリーで埋め尽くされていた。
 50人程いた出場者をまずは○×クイズで10人に絞り、次に三択クイズで5人に絞る。
 最後はいわゆる早押しクイズで先に10ポイント獲得した人間が優勝というシステムでそのイベントは進行されていた。
 つまり、回答席に座っているアリスは、その5人の中に残ったということだ。
 イベントも大詰めを迎えて現在のトップはアリスの9ポイント、続いて火村の7ポイントである。他の3人は4ポイント前後でウロウロしていた。
 火村はああ言っていたが、一般学生が出ることを考慮して、このイベントの問題は電車の中で読む雑学の文庫本程度のレヴェルに押さえてあった。
 それならばアドバンテージはアリスにある。火村の知識量も大したものだが、この様なイベントの時にはより役に立たない雑学の方が問題に出やすいのである。
 結局、その差がアリスと火村の点差を生み出していたのである。
 ギャラリーの反応が、アリスが回答した時には『なんでそんなことを覚えているんだ』という感じの失笑で、火村の時には「おぉ〜」という感嘆の声だったりするのは気にくわないが、勝負はあくまでもポイントなのだ。
「問題です」
 司会者が手にしたカードを捲ってマイクに向かったのを見て、アリスは慌てて意識をそちらに戻す。
「濃口醤油と薄口醤油、塩分量がおお…」
 ピンポ〜ン。
 問題が読み終えられない内に、火村の席に発言権を得られたランプが点る。
「薄口醤油」
「正解です。では、問題を最後まで。薄口醤油と…」
 問題を読み直し、火村の回答に補足を加える司会者の言葉を聞き流しつつ、アリスは舌打ちをした。
 博識で美形で足も長いあの友人は、何故か料理も出来るのである。
 1人の人間にそんなに何物も与えんなやっ、と天に向かって心の中で悪態を付きながらアリスが次の問題に備える。
 なんであの火村がそんなこと知っているんだ? と目を丸くするギャラリーの反応は今度こそどうでもいい。
「では、次の問題です」

★   ★   ★

 結局──
 あの後、答えは解っているのに、早押しに押し負けてしまい、アリスは火村に怒濤の3回連続正解を許してしまった。
 加えて奴にレポートを押しつけることも出来ず、現在のアリスが何をしているかというと、大学のワープロ室で火村が所属ゼミの教授に頼まれた論文のワープロ打ちをしているところである。
 レポート用紙20枚にも及ぶその論文は打っても打っても終わらない。
 確かに、バイト代で学生の中でもいち早くワープロを手に入れたアリスは火村よりも入力に慣れている。
 しかし、それは日本語ならばだ。
 そして、この論文は英語である。
 ワープロ打ちが面倒な気持ちは解るが、英語の怪しさには大層自信のあるアリスが入力したならば、後々火村が全文をチェックしなければならないのだ。そんなことをするくらいなら、火村が最初から全部自分で打った方がよっぽど早いと思う。
 あいつめ、そんなに俺を苦しめたいか、と、時折呪いの言葉なんかも呟きながら、アリスがこのワープロ室に通い詰めて既に3日が経過していた。
 いくら悔しくたって、約束は約束だ。
 もし、自分が勝ったならば、火村も文句を言わずにレポートを書いてくれたことが解るだけに、アリスは黙々とその拷問の様な作業を続けた。
 最後に参考文献の一覧を入力して保存。
「終わった〜」
 力つきて、ワープロのキーボードの上に突っ伏していると頭上から声が掛かる。
「終わったか? じゃあ、帰るぞ」
 声の主は火村だった。
 今までは約束だからと押さえに押さえ、慣れない英文入力の刑に耐えてきたアリスだったが、この言葉でブチッと切れた。
 大体、このタイミングで登場できるだなんて、アリスのことを見張っていたに違いない。
 そんなことして無駄に時間を潰すくらいなら、自分で入力すればいいではないか。
 ガタッと音を立てて、アリスは椅子から立ち上がり、火村に詰め寄る。
「火村、ええ加減にしときっ。貧乏学生がこんなことで時間無駄にしとる場合やないやろっ」
「無駄じゃねぇよ。俺がやるよかよっぽど早く終わったじゃないか」
「ああ、入力だけならな。せやけど、コレ、この後君がチェックするんやろ。無駄以外の何ものでもない」
「チェックなら1時間で出来る。でも、俺が入力してたら少なくても5日はかかるぜ」
「それにしたって、君が俺を待ちかまえとる理由はないやろ」
「別にアリスを待ってた訳じゃねぇよ。図書館でレポート書いてたんだよ」
「レポート? 君、提出間近のレポートなんて抱えとったか?」
「ああ、抱えていたさ。俺じゃなくてアリスがな」
 ひょいと手渡されたレポート用紙の表紙には、火村の字で『アジア地域の社会・経済事情──有栖川有栖』と書いてある。
「火村、コレ……」
「賢い役割分担ってやつかな。さて、この後はこれを使って酒盛り、でいいんだろ」
 ビール券をポケットから取り出し、にやりと笑って火村が告げる。
 アリスはそんな火村の肩を抱いて、次にそのまま彼の首を軽く絞めた。
「君、俺のこと甘やかしすぎや。後で後悔したって知らんで」
「ばーか。後悔は後でするから後悔って言うんだぜ。未来の作家先生。それで大丈夫なのかよ」
 アリスの腕を首から引きはがしながら、火村は相変わらず小憎たらしい台詞を吐く。
「誤字脱字は君にチェックして貰う。その賢い役割分担てやつでな」
 言うと、アリスは火村の手からビール券を奪い取り、「先行っとるで〜」と叫んで、廊下を駆けだした。
 行き先は聞くまでもなく火村の下宿の近所の酒屋。
 そんなアリスの背中を見送って、ふっ、と笑みを漏らすと、火村はワープロからフロッピーを取りだし、電源を落とす。
 単純で無邪気なアリス──
 相手が自分にない物を持っているからこそ、その人間に惹かれるのだろう。
 そんな相手がいるならば、ふたりでそれを補い合えばいい。
「ああ、そうさ。誤字脱字のチェックは俺の役目だ」
 先刻のアリスの台詞を反芻しながら、火村は誰も居ないワープロ室で嬉しそうに呟いた。
 こんな役得でもなければ、あんな色物イベントに、恥を忍んで出場した意味がない。

 だから──
 他の誰でもない、俺と居ろよ──

2003.06.08


久しぶりに冴木の最後の一文マニアっぷりが炸裂。
この一文が書きたかっただけなんで、途中の展開は少々意味不明。
でも、なんとか最後に辿り着いたから、まあいいか(←よくねぇよ!)

● Alice top ●


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