Recollections of summer
京都の取引先でありがたくも校正刷りに一発OKを貰えた私は、作業を進めてもらうべく、主任に報告の電話を入れた。 お疲れさんという言葉と共に、直帰していいという、一瞬意味が理解出来ない程に信じがたい指示を受けた。しかも、週末なのに。 電話を入れた時点で、確かに定時は回っていたが、印刷会社のそれは、一般企業の昼休みの感覚に近い。 その後、少なくても4時間、多ければあと半日程度は働かなくてはならないのが常だからだ。特に週末ともなれば、休日出勤をさけるために、日付が変わるまで働くことも少なくない。 そこまでしたって結局は休日出勤がさけられなかったり、時計の針が1桁を示している時間に帰宅できれば、今日は早く上がれたと喜ぶ生活において、定時上がりは休日と近しいものがある。 よく考えてみるまでもなく、それがまともな人間の感覚であるとは思えないし、完璧に労働基準法に反しているとも思うが、悲しいかな、それが現実というやつだ。 とはいえ、そんな印刷会社も夏場には仕事が多少──あくまでも多少だが──落ち着く傾向にあり、月に1度くらいは定時であがれる日があったり、休日出勤も殆どしなくてよくなる。 どうやら今日は、丁度仕事が落ち着いて定時であがれる日にぶちあたったらしい。 普通ならば、出先にいる時にそんな日にあたるだなんて、不運極まりないのだが、今日は場所がいい。 主任との電話を終えるとそのまま、火村が助手を務める研究室の直通番号をプッシュした。 夏といえばビヤガーデン。 お互い都合があわず、なかなか会えないで居るが、夏の間に1度くらいは足を運ぼうと、実行できる確率が50%未満の約束を先日火村としていたのだ。 火村が暇かどうかは不明だが、本日の私のツキっぷりからして、本日約束を実行できる可能性は75%くらいには上がっているとみたのだ。 電話が繋がると、案の定、まだ研究室に残っていた友人の声が耳に飛び込んできた。 どうした? と尋ねる彼に私は自分の状況を告げる。 そして、火村の返答はというと、今帰るところだったという、確率を100%にあげるもの。 30分後に約束を取り付けて、火村の下宿近くの駐車場に向かう。 うちの会社は変なところで気前が良くて、ガソリンさえきちんと補充すれば、休日に営業車を使用することも可能だ。しかも、今回は仕事の帰り道扱いになるのでその補充も不要だ。 一泊料金800円という、その激安駐車場に営業車を突っ込んで友人の下宿へと足を向ける。 今日は本当にタイミングがいい日らしくて、下宿の前で丁度帰宅した火村と出くわした。 そんな些細な出来事で、今日はなにか良いことがありそうだと期待に胸躍らせて出掛けたビヤガーデンは楽しかった。 現実問題として、ビヤガーデンというやつは、売っているつまみが味の割に高かったり、人が密集しているせいで粘っこくなっている空気が不快をだったりもするのだが、それでも楽しく感じるのはその場所が醸し出す雰囲気のせいなのだろう。 この場に似合うのは、商談や失恋話や仕事の愚痴ではなく、ちょっと笑える四方山話。 今日は、薄給の大学助手とは違い、ボーナスという臨時給料──というか、もちろん予定の給料だが──ものが存在する私のおごりだと告げると火村は遠慮もせずにハイペースでジョッキを空けて。負けじと自分も随分飲んだ。 「大体、君の辞書には遠慮という文字が落丁しとんのやろ」 「ちゃんと142ページに載ってるさ」 「ほんまに142ページなんやろな。後で確認するで」 「ああ、するがいいさ。それに、今更、いやいやそれは申し訳ないですからって遠慮されて嬉しいか?」 「いや、気持ち悪いからやめてくれ。それに、次回は君のおごりやで」 「だろ、ならいいじゃねぇか」 「ああ、勘弁したるわ。たとえ、君が奢ってくれるのが、ワンカップとスーパーで半額になった唐揚げでもな」 「そんな不経済なことするかよ。奢るのは焼酎1本と冷凍の唐揚げ1袋だ」 「千円でお釣りくるやんけ」 「文句は受け付けない。これが俺とアリスの貨幣価値の違いってやつだな」 「同じ日本に住んどって、貨幣価値に違いがあるかっちゅーの。ほんま、口だけは達者な奴やな」 「失礼な。達者なのは口だけじゃないぜ。試してみるか?」 「試す? 試すて何を?」 確かに火村は口だけが達者な訳ではないことは認めるが、何を試すというのだ。 まさかこの場で微積の問題でも解き始めるのかと思って問うと、にやりと笑って火村は私の右手首を掴み自分の方に引き寄せた。 「アリス──」 その手を離さぬまま、火村は私の目を見つめ、更に背筋がぞくりとするような美声で名を呼んだ。 「なっ…、なんや?」 男相手に何をドギマギしてるんだと自分でも突っ込みたいくらいだが、私の声は上擦ってしまった。 一体、何を始める気だ火村── 「ここに500円玉が1枚ある」 「はぁ〜?」 「これをお前の右手に握らせる。はい、握って」 訳が解らぬまま、私は言われたとおり500円玉を握りしめた。 「握ったな。ではここで魔法の呪文を唱える」 「呪文て……」 訝しがる私を無視して、火村は私の右手の上で人差し指をぐるぐると回し始めた。 「ちちんぷいぷい痛いの…じゃなかった500円玉遠くのお山へ飛んでゆけ〜っ。ほら、飛んでった」 飛んでったという言葉と共に火村の指があっちむいてほいのごとく素早い動作で右側を指差した。 その指につられて、ついついその方向に顔を向けてしまう。 そして、向いた瞬間、しまったと思う。 自分の間抜けさ加減に腹を立てながら、火村へと視線を戻すと、案の定悪友はにやにやと意地悪く笑っていた。 「火村……君、酔っぱらっとるやろ。何がしたいねん」 「酔っぱらいはお互い様だよ。単純な誘導に引っ掛かりやがって。右手を開いてみな」 開いたところで絶妙に気持ちの悪い温度に温められた500円玉が乗っかっているだけだろうと思いつつ、言われた通り右手を開く。 「なっ、なんでっ?」 そこに500円玉の姿はなく、私の手相が見えるばかりだ。 「ネタバレは厳禁なんだろ。推理作家志望の有栖川先生。はい、俺は口だけが達者じゃないっていう証明終了」 「……この手品のトリックも、なんで君がこんなネタを仕込んどるのかも今はどうでもいいわ。君、俺に芸も達者やって言わせたくてこんなまどろっこしいことしたんかいっ」 「まあな」 憤る私をよそに、火村は涼しい顔でジョッキを傾けた。 そう、火村はこういう奴だ。 いつでもどんな時だって、クールな態度を崩さないかと思えば、突然こんな子供っぽい遊びを始めたりするのだ。 奥ゆきはないのに底だけがやたらと深い引き出しみたいに、なんとも実用性に欠ける人間である。 まあ、その底深くに何が入っているのか気になる私も私だが。 「……君、長生きするわ」 「まさか、美男薄命って言うだろっ」 「言わんわっ。それを言うなら薄命なのは俺の方や。小説家志望の美青年。天才は夭折(ようせつ──若くして他界すること)するて相場が決まっとるんや」 「ほう、美青年ときたか。1024歩譲って美少年の間違いじゃねぇのか」 「なんやねんっ、その半端な数はっ!」 「2の10乗」 「君は8ビットのパソコンかいっ」 「そっちこそ、どうして8ビットって断定するよ。1024まで一気に情報処理ができるなら256<1024<65536で16ビットに決まってるじゃねぇか」 「あ〜感じわる〜。飲んでる時にそんな小難しい計算できる奴は嫌われるで」 「アリス、それは違うぞ」 「何が?」 「現在までの飲食代金はトータル3,680円。便利だろ」 「……確かに便利やな。けど、君いままでそんな特技披露したことないやん」 「それには理由がある。酔っていても計算はできるが、酔っているとそれをレジにつくまで覚えていられないから」 「ぶっ、あはは〜。君、実用性なさ過ぎ〜」 「ああ、それは俺もそう思うよ」 私は吹き出し、火村も笑いながら自分の実用性のなさを認めたが、それはきっと嘘だ。 私が火村に何かを奢る時、その金額が5,000円を超えることが絶対にないという事実が、それを証明している。 それを隠しておきたいのなら聞かないでやるさと、二人でひとしきり爆笑した後、私は話を元に戻す。 「ところで君、なんであんな手品仕込んどったん? 去年の忘年会の余興とかか」 「どっかの印刷会社の新入社員じゃあるまいし、んな訳ねーだろ」 「なら趣味か?」 「それはもっとねーよ。理由は極めて単純、手相と一緒だよ」 「手相?」 「そう、口説きたい相手の手を握る為の口実。ほら、俺って結構純情だから」 にやりと笑って火村が告げる。 「純情な男はそんなあざといこと企まんわ」 「純情男もあざとくなるさ。切ない恋をしてればな」 「しとるのか?」 驚き私は聞き返した。 別に火村をサイボーグかなにかだと思っていた訳ではないが、なんとなくこの男に、その手の話は無縁な気がしていたので意外だったのだ。 「さあな」 うって変わって穏やかな笑みを浮かべ、話を受け流す火村に、私もそれ以上は聞けなくなる。 その後、何故だかわからない胸のなかのもやもやを振り払う様に飲んだ私と、そのペースに付き合った火村は、無事下宿にたどり着けたのが奇蹟に近い酔っぱらいとあいなった。 そして──どんなに金に困っても、決して使われることのなかった500円玉の存在と共に、火村の切ない恋の相手を私が知るのは、それから3年後のこととなる。 遠回りも悪くはない── これは、しみじみとそんな風に思える、ある夏の想い出だ── 2003.07.14
遊んでいるうちに、当初の目的と270度位方向が違ってしまった話。 |