1 「雨だな」 俺は前菜を食べる手を止め、窓の外を眺めた。 厚い雲に覆われ、今にも泣き出しそうだった空が、いよいよ耐えきれずに涙を落とし始めたらしい。 とでも、隣に座る作家先生ならばこの雨を表現するのだろうか。 ならば、空はどんな悲しいことや切ないことやもしかすると嬉しいことがあって泣き出すというのか。 はっきり言って、今日の空なんかよりも、俺の方がよっぽど泣きたい気分ではないかと思う。 「あらほんと」 「しまった、傘持ってきとらんわ」 俺の心中も知らずに、朝井女史とアリスがのんきな声をあげる。 いや、自分の心中など他人が解る筈もないし、知られても困るので、こう思うのは、単に俺の八つ当たりなんだが…… この状況では、嫌がらせだとしか思えない程、山奥に位置するオーベルジュ・ド・コーサカ。 俺、火村英生は、表向きは学生時代から10年以上の付き合いのある悪友ということになっている、有栖川有栖に誘われ、同じく声を掛けられた彼の先輩作家である朝井小夜子と共に、このフランス料理店へと出向いていた。 何故、このメンツで、兵庫の山奥にある高級フランス料理店に来ているのか。 それには聞いているだけならば大変面白く思えるが、決してそんな身内を持ちたいとは思えない、アリスなりの事情があった。 とはいえ、30代も半ばを過ぎて、アリスが未だ独身である責任の一端を担っている俺としては、そんなことは口にできない。 ああ、もしかすると、これはアリスの両親から与えられた俺に対する罰なのだろうか。 いや、それは関係あるまい。 アリスがこの店に目を付け、予約を入れた時点で俺の心の予定は総崩れなのだから。 この店は、フランスの建設会社が出している世界的グルメガイド《エトワール》とやらに、日本で唯一の三つ星レストランとして認定されているらしい。 オーベルジュ・ド・コーサカという店名からも知れるとおり、この店はオーベルジュ──敢えて日本語に訳すなら《旅籠》が一番近い。というのも、オーベルジュとは本来旅人の為の宿泊施設の呼称だったのだが、時代を経て宿泊施設のあるレストランという風に意味合いが違ってきたらしいからだ。ついでに英訳するなら《INN》ってとこか──で、時間を気にせずゆっくり食事を楽しむことができる場所だ。 アリスの両親の代わりに急にここにくることになった俺が、どうしてこのレストランについてこんなに詳しく語れるのか。 実はこの辺りに、俺が泣きたくなる理由ってのがある。 つまり、このレストランに目をつけていたのはアリスだけではなかったということだ。 前回の俺の誕生日(正しくはその前日だが)、アリスは高級料亭での食事を張り込んでくれた(詳しくは当サイト内掲載『桜月夜を君と歩こう』参照)。 来年は俺が張り込む番だなと漠然と思っていたところに、同じ大学で英語学講師をしているジョージからこの店の話を聞いた。 三つ星如何はともかくとして、『女性にプロポーズする時は、あの店を使うと心に決めています』とまで言うジョージの言葉を信じ、この店に予約を入れておいたら(しかも泊まりで)この有様だ。 驚かせようと思った相手に先を越されてどうする俺。 とはいえ、アリスがなんのアクシデントもなしに、無事両親と共にここを訪れており、いざ誕生日当日という時になって、『俺、この間ここ来たわ』とか言われるよりはまだマシか。 いくら素晴らしい所でも、二度目は最初に来た時の感動にはかなわない。それでは、折角の演出が台無しだ。 まあ、こんなレストランに来たことを俺に黙っていられるアリスだとは思えないが。 ともかく、『コレで完璧! マナー完全丸暗記』という本まで買って、それこそ完璧に決めてやろう──いつもと違うキャラの俺に、アリスがおろおろするのが面白いからだ──と思っていたにも関わらず、その全てが水の泡になったんだ。とてもじゃないが、しっかりとネクタイを締める気になんてなれない。 それなら、なんでのこのことやってきたのかって? 多くを語らせるな。そこは複雑な男心というやつだ。 隣に座るアリスが──母親の仕打ちに、やけになっている部分も多少はあるのだろうが──夢中になって料理を口に運ぶ姿を見ていると、余計に自分が連れて来てやりたかったと思う。 「ちょっと、アリス。もっとよく味わって食べたらどうやの。滅多に来られないお店やのに」 黙々とナイフとフォークを動し、驚異のスピードで皿を空にしていくアリスを見て、朝井女史が呆れた口調で話しかける。 だが、彼女は間違っている。 集中して味わっているからこそ、アリスの皿の中身の減り方は早いのだ。 その証拠に、アリスは彼女の言葉に反応出来ずに、この料理に掛けられた魔法の正体を探ろうと、無言で首を傾げている。 俺以外に餌付けされんなよという注意を込めて、俺は彼女の台詞の応える振りをしてアリスに嫌味をいくれてやる。 「アリスはうまい物を食っている時だけ、無口になりますからね」 「そうなん?」 「ええ、この年でまだ食い意地が張っているらしいです」 「それは困ったもんやね。もう15年も前に成長期は終わっとるやろうに」 ここまで言われると、さしものアリスも料理にばかり気を取られてはいられなくなったらしい。 口の中に入っていたパイを急いで飲み込むと、反論を開始した。 「人をネタに遊ばんといて下さい。日本で三つ星てここだけなんですよ。俺やなくても無言になりますて」 だから、星は関係ないだろう。アリスはカニはおろか、ウニを食っているときにも無言になる。 つまり、美味い物は美味い。まずい物はまずいってことだ。 「三つ星ねぇ。そんな星、誰がつけてるんだよ。まあ、確かにこの店がうまいのは認めるけどな」 「インスペクターや」 「inspector(検閲者)?」 その言葉の意味が持つ感じの悪さに俺は眉を寄せた。 「密かに料理店を審査する人達のことや」 「ああ、視察者って意味か」 こちらの方が幾分意味合いが柔らかいとはいえ、どちらにしてもあまり歓迎したいものではない気がする。 「私もそれ聞いたことあるわ。自分の正体を家族にも内緒にしとるんやって?」 「らしいですね」 アリス続いて皿を片づけた朝井女史が、ワインで喉を潤した後口を開き、アリスがそれに応じる。 それはそれは、ご大層なお話なことで。 「大層な話だな。まあ、星の数はともかく、来たかいはあったよ。こんなところまで」 「なんだかトゲのある言い方やな」 予定の変更を余儀なくされたこの状況では、ここにくる機会は二度とないだろうから、今は確かに美味いここの料理を味わおうとは思うものの、ついつい言葉の端にトゲが出てしまう。 子供か俺は── そしてアリス、それに敏感に反応するお前もな。 「いい加減にしときなさい。居酒屋やないんやから」 しかし、女流推理作家の有りがたいこの一言で、今にも始まりそうだった子供の喧嘩はせずに済んだ。 俺は心の中で彼女に謝罪する。 ──秘かに邪魔だと思っててすみません。 * * * 「どうぞ、こちらです」食事がスープまで進んだ時、もう一組の客である4人が到着した。 人は見かけによらないという言葉の通り、4人の内着席の際のマナーを守ったのは一番柄が悪く見える男性だった。 まあ、単なる偶然なのかもしれないが。 覚え立ての知識というのはタチが悪いもので、俺は知らず知らずに彼らのマナーをチェックしてしまっていた。 これは人としてかなり感じが悪い。 もっとも、俺の感じの悪さは今に始まったことではないので、特に反省する気もないが。 とはいえ、一応彼らの方に視線を向けるのはやめておくことにする。 しかし、耳までふさぐのはどだい無理な話だ。 焼酎ロックだ冷酒だのといった、マナーを全く知らない人間でさえ不自然に感じる台詞を聞き逃すことはできなかった。 ここまでくると、何か意図があってやっているとしか思えない。 「わざとらしいくらい、場違いな男の登場だな」 「君も人のことは言えんやろが。こういうとこに来たときくらい、ちゃんとネクタイ締めたらどうなんや」 どう思うという意味を込めて、隣のアリスに話を振ると、奴から返ってきたのはこんな方向違いの台詞だった。 しっかりしろよ、推理作家。 「アリス。火村センセが言うとるのは、そういうことやないんやないの」 「えっ?」 朝井女史の言葉にアリスは目を見開いた。 本当に、頼むから、しっかりしてくれ。 お前は何年俺の隣でのたくってるんだ。 朝井さんに後れを取ってどうするよ。 ともかく、彼女の言葉をきっかけに、俺の台詞の意味を考え始めたらしく、アリスの視線が宙を泳いだ。 しかし、それがまとまりきる前に、ギャルソンが皿を下げに来たため、アリスの興味は彼の方に移ってしまったらしい。 彼の背中をじっと見送るアリスを横目で見ながら、俺はこっそりと小さなため息をついた。 そのため息が向かいの席に座る女流作家に気付かれずに済んだのは、その小ささもさることながら、隣のテーブルで始まった言い合いのおかげだろう。 「家元はお亡くなりになっているんですよ」 「そんなこと、事務長に言われなくたって!」 「黛(まゆずみ)流の家元は世襲制に決まっているんです」 朝井さんもギャルソンの背中を見送っていたアリスでさえも、はっとしたように隣のテーブルを盗み見る。 「黛流て…」 「確か、有名な生け花の流派やなかった?」 「その関係者なのかもしれませんね」 アリスの呟きをきっかけに、朝井女史、俺の順で口を開いた。 家元争い。 テレビの2時間サスペンスならばいざ知らず、現実にそんなものに遭遇するのは、道ばたで100万円拾うのと同じくらい確率が低い。 興味津々といった様子でアリスが呟く。 「あの、場違いな彼もやろか」 「う〜ん、彼はどうやろ。違うかも……」 女流作家のこの言葉を聞き、俺は一人で彼の行動の不可解さを気にしているのがばからしくなった。 彼が何を企んでいようとも、それにどんな意味があろうとも、俺には関係ないことだ。 俺は実際に気になっていたこともあって、強引に話題を変えた。 「雨が強くなってきたな。アリス、あの道大丈夫なのかよ」 「そんなん俺に聞くな」 俺は地質学の専門家じゃないんだぞ、とでも言いたげな表情でアリスは言った。 実際、アリスにそんなことの判断がつく筈もないが、どちらかというと、隣のグループが気になって仕方がなく、素っ気ない返事をしたのだろう。 事実、アリスはチラチラとそちらの方に視線をやってばかりいた。 もっとも、気になるのは仕方がないと思える程に、隣のテーブルで起こる出来事は興味深い。 そう、気にしないと心に決めた俺が気になる程に。 そして、例の場違いな彼がデザートを注文したところで、俺は確信した。 彼の一連の動作が、全て演技であることを── 2 「あの人がシェフやないの?」 女流作家の言葉にアリスと俺も彼女の視線をたどる。 俺がシェフコートの男の姿を捕らえた途端、隣のテーブルがざわめき出した。 「なにかあったんやろか?」 と、アリスは首を傾げるが、何があったのかは想像に難くない。 多分、俺が先刻口にした心配が現実のものになったんだろう。 程なく、そのシェフコートの男がこちらへと歩み寄ってきて、俺が想像した通りのことを告げた。 「えっ、じゃあ、どうやって帰ればいいんですか」 それを聞いたアリスが声のトーンをあげる。 変な質問をするな。か・え・れ・な・いんだ。 聞くなら、いつ帰れるかにしておけ。 「それが、復旧するのは朝になるだろうと」 俺の心を読んだ訳でなく、答えられることがそれしかなかったのだろう、シェフコートの男が復旧の予想時間を告げる。 「「えぇっ!」」 それを聞いた途端、アリスと朝井女史は揃って声を上げた。 だが、俺は黙っていた。 ここが泊まれるレストランであることを知っているからだ。 「レストランで夜明かし……ああ、ちょっとネタになるかもて思うとる自分が悲しい、でもそんな自分が可愛いわ」 流石アリスの先輩だけあって、朝井さんの発言は面白い。しかも確かにちょっと可愛い。 多分、同じことがチラリと頭の端をかすめた筈のアリス、お前もな。 そんな彼らの心配を否定するべく、シェフコートの男は首を横に振った。 「いえ、ご心配なく。うちはオーベルジュですから」 「オーベルジュ?」 「宿泊施設のあるフランス料理店のことさ」 聞き慣れない言葉に首を傾げるアリスに、その言葉の意味を説明した途端、奴の視線が不審者を見るようなものになる。 ちょっと口が滑ってしまったが、一応フランス語で道を尋ねることは出来るので、後で追求されたところで、まあ、なんとか誤魔化せるだろう。 今は取りあえず、一旦は諦めた、ここで過ごすアリスとの夜が降ってわいたことに感謝しよう。 いや、何が出来るという訳でもないだろうが。 * * * 「何、アリス。口に合わんの?」野菜のアスピックが詰められたヤリイカを口にした後、何度も首を傾げるアリスの様子を気にしていると、俺より先に、向かいに座る女流作家が後輩に向かって問いかけた。 「……いえ、普通には食べられますけど」 「普通て……、アリス、普段どんだけいいもの食べつけてるいうの?」 「そんなに美味しいですか?」 「美味しいわよ」 アリスと朝井女史のやりとりを聞き、俺は眉を寄せた。 この料理は、美味しい物を味わうための精神状態が完璧とは言い難く、煙草で味覚が麻痺した俺が食っても充分美味い。 本当か? とアリスが視線で問いかけてきたので、味の好みは似ているのにおかしいなと思いつつ、俺は無言で頷いた。 だが、アリスはその意見には納得しかねるといった表情で、皿の上のイカをじっと見つめていた。 まさかアリスの皿だけ味が違うのか? と、俺がそれを確かめようとした時だった。 廊下の方から、何かに驚いた様子の男の叫び声が聞こえてきた。 「なっ、なんや」 「先刻のギャルソンの声だな」 俺とアリスの台詞がクロスする。 何事かと廊下への出入り口を伺っていると、シェフが隣のテーブルに駆けつけて、何かを告げた。 そこに居た人間が全員、慌ただしく立ち上がり、廊下へと向かう。 「またなにかあったんやろか」 その様子を見て女流作家が呟いた。 「土砂崩れのうえに洪水で1週間帰れなくなったとかですかね」 「それはアリスの小説やん。もっと現実的なこと言われへんの?」 アリスと朝井女史がのんきな会話を交わしているところに、今度は衣を引き裂くような──実際引き裂いたことはないが──女性の悲鳴が聞こえてきた。 「尋常じゃねぇな」 俺は椅子から立ち上がり、廊下の方へと向かった。 この状況だと、彼らの連れに何かあったとしか思えない。 アリスが俺を追って来るのを背中に感じながら、廊下に出て角を曲がる。 「触らないで下さいっ!」 途端、胸から血を流した男──例の場違いな彼だ──の顔に手に持ったナプキンをかけようとしているギャルソンの姿が名に入り、俺は声を上げた。 ワインの棚に入った棚にもたれかかり、青白い顔をしている男はどう見たって生命を維持しているとは思えないし、ギャルソンの行動がそれを裏付けてくれていたからだ。 既に被害者の命がないならば、現場を荒らすわけにはいかない。 ワインセラーの入り口からて中を覗き込んでいるギャラリーをかき分け、俺は中へと進んだ。 まずは床に座る男の首筋に指先を当て、脈を取る。 やはり、男は絶命していた。 俺はゆっくりと振り返るとアリスに向かって首を横に振った。 「アリス? 一体なんやの? うわっ!」 「見ない方がいいですよ」 遅れてやってきて中を覗いた先輩作家をアリスは後方に押しやる。 確かに、いくら相手が推理作家でもそうするのが親切というものだ。 彼女はアリスの言葉に頷くと遺体が目に入らない位置まで後退した。 それを見届けた後、俺は改めて被害者の傷口を確認する。 あまり、鋭利な刃物で刺した傷ではない。 凶器は吸血鬼を退治するために使う、木の杭に近しいものだろう。 取りあえずその点を確認した上で俺は廊下に戻り、一番最初に悲鳴を上げたギャルソンに歩み寄った。 「第一発見者はあなたですね」 「はい…」 「そんなことより早く警察に連絡して下さい」 ついついいつもの調子で、質問を始めてしまった俺に対し、ギャルソンは素直に返事をしてくれたが、それに被さる形で、被害者の連れである中年女性が大きな声を上げた。 まあ、当然だわな。 「ああ、確かにその方がいいですね」 俺は彼女の言葉に頷くと、アリスの名を呼んだ。 それに頷き、踵を返したアリスを俺は一旦引き留めた。 俺の意図をすぐに察してくれるのはありがたいが、慌てすぎだ。 「待て、緊急事態だ。110番じゃなくて、樺田警部に直接連絡を入れろ。香坂さん、彼と一緒に行って、状況とこの店の場所を警察に説明して下さい」 警察が来る前に素人が事件に首を突っ込むのはあまり褒められたことではないだろうが、土砂崩れで警察がすぐには来られない今、この場を仕切れる人間は必要だ。 了解──と視線で応え、アリスは展開を理解できずにいる香坂を促して電話に向かって駆けだした。 3 どうやらアリスはうまいこと話をまとめてくれたらしい。 電話を終えて戻った香坂から、その場の人間に俺の素性と警察からの指示が伝えられる。 被害者の素性を聞いた上で、簡単な現場検証を終えると、俺たちは全員で一旦ダイニングに戻ることにした。 「あの…幸吉さんは、その…殺されたんですか」 戻った途端、被害者の連れで中年女性──藤間ゆり子──に、震える声で問われ、俺は頷いた。 「ええ、心臓部をひと突きでした」 「じゃあ、凶器は包丁とか」 ちらりとシェフの方に視線をやる彼女に向かって、今度は首を横に振る。 「そんなに鋭利な物ではありませんが、少なくともこの店の中にある物、もしくはこの中にいる人が持っているものです」 俺の発言を受け、ダイニングにざわめきが起こる。 「まさか、この中に犯人が……」 「だって、誰かが外から入ってきたかもしれないじゃないですか」 ゆり子と同じく被害者の連れである滝沢恵美──こちらは若い──は途中で言葉を失ったが、もう一人の連れ、沼島功は俺に向かって反対意見を述べた。 だが、それはない。 「ここに来る道は土砂でふさがれています。それにこの雨ですからね、もし誰かが進入して殺したなら出入り口から死体発見現場まで、濡れた形跡が残るはずです。同じ理由で凶器が外に捨てられた形跡もありません」 「じゃあ、凶器も犯人も、今、この店の中?」 女流作家の問いに頷いた後、俺は被害者の連れの三人組の方に向き直った。 「犯人は被害者に怨恨か、強い利害関係を持つ人物でしょう。皆さん、生け花で有名な黛流の方だとか」 「ええ」 三人組が揃って首を上下させる。 「殺された大曲幸吉さんとはどのような関係なんですか?」 「幸吉さんは次期家元になる筈の人でした」 「事務長! その言い方はちょっとっ!」 「そうですっ。彼が家元に決まってたみたいなこと。今日はそのことを話し合う為にここに集まったんでしょう」 今にも大沼に掴みかかりそうな女性陣と彼の間に割って入った後、俺は改めて事務長に向かって問いかけた。現時点において、彼が一番冷静に見えたからだ。 「失礼ですが。どういうことですか」 「彼は亡くなった家元の実の弟なんです」 「彼がですか?」 「家元は世襲制。これが黛流のしきたりなんですよ」 大沼の言葉をきっかけに、再び内輪もめが始まる。 「そんな古い考え方でどうするんですか」 「家元にお子さんがいらっしゃらない以上、ここは幸吉さんが…」 「世襲制ならあたしにも権利がっ…」 「ありませんね、あなたには」 「どういうことですかっ!」 はいはい、家元争いがあるのはよーく解った。 しかし、いちいち喧嘩を始められたんじゃ、話がちっとも進まない。 目の前で言い争いを続ける生け花三人衆と、背後で2時間ドラマみたいとひそひそやっている推理作家2人組のマイペース加減にあきれつつ、俺は彼らから個別に話を聞くことを決意した。 * * *
* * * 「凶器になるようなものはどなたも持っていらっしゃらないようですね」廊下での聴取を終えた後、黛流の関係者は、自ら荷物のチェックをして欲しい申し出た。 少しでも早く自分たちの嫌疑を晴らしたいという心理が働いたのだろう。 理由はどうあれ、流石にそこまではできないな、と思っていた俺にとっては、ありがたい申し出だった。 しかし、彼らの荷物から凶器になりそうなものは出てこなかった。 となると、怪しいのは被害者本人の荷物だが、それは最初にチェック済みだ。 「この部屋にもないみたいやで」 どうしたものかと思案していると、俺の指示でダイニングの中を探索していたアリスが声を掛けてくる。 ──やっぱりないか。 「なら、あと残っているのはキッチンか……」 「普通に考えたらそうやな。せやけど、厨房にはシェフがおったんやろ」 「そうなんだよ。勝手に入って持ち出すことは…」 「出来ますよ」 俺とアリスの会話に初老のギャルソンが割って入った。 「「えっ?」」 俺とアリスは揃って声をあげた。 俺たちの様子を見て、ギャルソンの言葉をシェフが補足してくれた。 「厨房の地下に野菜室があるんです。私は調理中よくそこに入りますから」 「すると、厨房が空になることも?」 「もちろん、よくあります」 「成程……」 よくある──ね。 ありますではなく、よくある。 だから、いつでも凶器は持ち出せたってか。 そりゃまた、随分と犯人に親切な証言じゃないか。 更に、自分は関係ないとさりげなく強調してみせた…… しかし、被害者との接点がわからない。 ──待てよ。 俺は、生け花三人衆の方に向き直った。 彼らの座るテーブルに歩み寄ると、被害者の座っていた椅子から彼のセカンドバッグを取り上げる。 「これは殺された大曲さんのものですね。先程、中身をちょっと見せて頂きました。」 周りの人間に見えるように、驚きのバッグの中身をテーブルの上に並べて見せる。 飴・チョコレート・チューインガム。 甘いお菓子ばかりが次から次へとテーブルの上に並んだ。 「なに、お菓子ばっかりやないの」 その中身のラインナップに、女流推理作家が呆れた声をあげる。 「彼は甘い物が好きだったんですか?」 俺の質問に事務長は頷く。 「ええ。良く飴だとチョコだのガムだのを食べていましたよ。ああ、だからか」 「何がですか?」 「彼、昔はもっと痩せていたんですよ」 「やっぱりね、口卑しい人だったのね」 事務長の言葉を聞いて、藤間ゆり子が軽蔑を込めた口調で吐き捨てる。 死人に鞭打つような言い方は少々どうかと思うが、俺の予想が正しければ、彼女は重要な情報を持っている筈だ。 「これじゃ、糖尿病になるはずだわ」 「糖尿病!」 彼女の言葉を聞いて、アリスが声をあげる。 別にいいけどな、今頃気付いても。 「ええ、彼、それで毎週病院に通っていて」 ──来た。 「何故、それをご存じなんですか?」 「……」 俺の指摘に、彼女の表情が凍る。 そちらは体裁が悪いかもしれないが、こちらとしては大助かりだ。 俺は改めて確認を取る。 「お調べになったんですね。事務長と滝沢さんは色々とおっしゃりこともあるでしょうが、有益な情報を得ることが出来たので私は助かりました」 「それのどこが有益な情報なのよっ! ゆり子さん、あなた幸吉さんをつけ回してどうするつもりだったの」 「つけ回してなんていませんっ。」 再び──しかも今回はとっくみあいにまで発展しそうな──喧嘩を始めた女性二人の間に俺は割って入る。 彼女たちがいくら顔や身体にひっかき傷を作ろうと俺には関係ないが、このままじゃ話が進まないからだ。 「家元争いは、この件が片づいてからにしてもらいましょう。どんな些細なことでも、可能性ではなく確定した時点でそれは有益な情報です。低血糖になるをさける為に飴やガムをいつも口にし、チョコレートなどを持ち歩いていた。彼の鞄の中身が藤間のお話を裏付けています」 俺の言葉に、女性ふたりは気まずそうに口を噤んだ。 そうそう、そのまま黙っていてくれと頷いて、俺はギャルソンの榎木を振り返った。 「大曲さんがこの店に来たのは初めてですか?」 「ええ、私は初めてお目にかかりましたが」 「香坂さんは?」 「私もです」 「あっ、しかし、私がここで働き始めたのは半年前からので」 ギャルソンの言葉に、俺は目を細めた。 すると、その前に被害者がここに来ていたとしても、それを知る人間はシェフの香坂しかいないと言うことか。 「もし、大曲さんが以前からこの店に来ていたと仮定したら……」 被害者とシェフの香坂には利害関係があるかもしれない── * * * 「ないな」「ああ」 その後、俺とアリスは私は香坂に案内してもらってキッチンへと向かった。 もちろん、凶器を探すためだ。 大筋で考えはまとまりかけてはいたものの、やはり凶器が限定できなくては話にならない。 あまり鋭利ではなく、しかし、人間を刺し殺せそうな物。 3人で手分けしてキッチン中を探したが、そんな都合のいい物は発見できなかった。 いや、発見できないんじゃない。 見逃しているだけだ。 「なにか無くなっているものはありませんか?」 何か発想の転換はないかと考えている俺の背後で、アリスが香坂に向かって尋ねている。 「いいえ、詳しく調べてみないと正確なことはいえませんが、少なくとも一見して無くなっている物はないみたいです」 「そうですか」 アリスはがっかりした声を上げるが、彼が犯人であってもなくてもそんな質問は無駄だ。 彼が犯人ならば、素直に凶器はこれですなどと言うはずがないし、犯人でないのならば、彼が一見して気付かないようなものを、外部の人間である犯人が目ざとく見つけて持ち出せる筈がない。 ならば、ギャルソンの榎木はどうだろう。 いや、彼には動機がない。 そんなことを考えながら、どこを見ると言うわけでもなく視線を動かしていると、ガス代の上におかれた片手鍋が目に入った。 覗き込むと数種類の香草と共に透明な煮汁が鍋の中に残っていた。 その香りから、これが先刻食べたイカを煮たものだということが解る。 ──圧力鍋で煮た訳じゃなかったのか。 「これは先程のイカの料理の?」 そんな疑問を感じたので、俺は香坂に尋ねる。 「はい。そうです」 「大変おいしかったです」 お世辞ではなく、あの料理は美味かった。 俺はレシピを聞き出したい気持ちを押し殺す。 そんな質問はいくらなんでも場違いすぎると自分を戒めたところで、香坂の後ろで何ともいえない表情をしているアリスの顔が目に入った。 ──そういえば、あの時…… 「ありがとうございます。微妙な火加減が必要なので、ずっと付きっきりでないといけないんです」 俺の言葉に香坂は頭を下げて礼を言った。 「付きっきり……。つまり、この料理の間はずっとここに居たんですね」 香坂の言葉に相づちを打ちながらも、俺の頭は全然別のことを考えていた。 発想の転換── 圧力鍋を使わなくてもイカは柔らかく煮ることができる。 冷凍の食材を使っても美味しい料理は作ることができる。 畜生、盲点だった。 それに、アリスのあの反応── 「ええ、そうです」 付きっきりだったことを肯定する香坂の言葉を聞き、アリスが俺を見つめる。 そんなに目を輝かせるなよアリス。 だから、違うんだってば。 「だとすると香坂さんがこの料理に取りかかる前、ダイニングに出ていた時にしか、厨房から凶器を持ち出すことは出来ないいうことや」 「ああ、もしも犯人が厨房から凶器を持ち出したのだとしたら、それが可能な人物はおのずと限定されるな」 取りあえず、その場を取り繕う為にアリスの言葉を肯定すると、推理作家はいよいよ調子に乗った。 「火村、香坂さんが俺らのテーブルに居た時、ダイニングから出ていったのは大曲さんと藤間さんや。つまり…」 勢い余って──凶器も見つかっていないのに──犯人を断定しかけたアリスに俺は慌ててストップをかけ、香坂に向き直った。 「香坂さん、申し訳ありませんが、ダイニングでお待ち頂けますか」 複雑な表情を浮かべながらも、素直に踵を返した香坂の姿が厨房から消えるのを待って、俺はアリスの前を横切り、奥にある冷凍庫へと歩み寄った。 「やっぱりな」 観音開きのその扉を開き、目的のものを発見した俺の呟きに反応して、アリスが慌てて中を覗き込む。 「アリス、これだよ」 「あ」 と言ったきり、その凶器同様、推理作家は固まった。 だが、アリス、もっと驚くのは、その凶器の処分のされ方だ── 4 「思えば幸吉さんもかわいそうよね。これで、家元にはなれなくなったんだから」 アリスとふたりで準備を整えダイニングに戻ると、本当に同情しているのか少々疑いたくなる口調で、滝沢恵美が言った。 だが、話のきっかけには丁度良かったので、俺は彼女の言葉に反論する形で口を開いた。 「大曲さんは本当に家元になりたかったんでしょうか」 「だから、今日来たんじゃない!」 有る程度予想はしてたとはいえ、彼女の語気は強い。しかし、いくら声を荒げたところで事実は変わらない。 「ですが、事務長と藤間さんは彼が家元になりたくなかったことご存じでしたよね」 「ええ」 藤間ゆり子が肯定の返事をし、事務長も頷く。それを見て、滝沢恵美は目を丸くした。 「じゃあ、彼はなんで今日ここに?」 「事務長が無理に誘ったんじゃ…」 「無理にって……、この店だって幸吉さんが来たいっていうから」 「そこです」 本格的に喧嘩が始まる前に、俺は生け花三人衆の会話に割って入った。 「はぁ〜?」と揃って声をあげ、なにがそこなの、という表情をしている三人は、結構気があっている風にも見える。 俺は改めて事務長に確認した。 「このお店を予約したのは大曲さんでしたね」 「ええ、一度来てみたいって」 「しかし、それには少し無理がありませんか」 「私が嘘を言っているとおっしゃるんですか」 「いえ、嘘を言っているのは大曲さんの方です」 俺の言葉にその場にいる全員──除くアリス──一が怪訝な表情を浮かべる。 そんな中で、一番最初に何がおかしいのか気付いたのは、やはり女流推理作家だった。 「考えてみれば、確かに、ちょっと無理があるわ」 腕組みをしながら首を傾げる彼女、全員の視線が集中する。 「一見、マナーもがさつでグルメにも見えない彼が、一度こういう店に来てみたかっただなんて。ましてやあまり親しくない人と来るんやもの」 俺は彼女の言葉に頷いて、更に補足を付け加えた。 「それに、ここは半年前から予約が必要です。つまり、彼がこの店に来ることは半年前から決まっていたんです」 一瞬だけその場の時間が止まり、ざわめきと共に一気に流れ出す。 「ええっ! 半年前って、まだ家元生きてたじゃない」 「ええ」 藤間ゆり子が声を高くして、滝沢恵美が彼女の言葉に頷いた。事務長はそんなばかなとでも言いたげに首を振っている。 その他様々な表情を浮かべるギャラリーを横目で見つつ、俺は話を続けた。 「家元相続の話し合いは、彼がここにくる為の口実だったんでしょう」 「どうして幸吉さんがそんなことを?」と事務長。 「こうは考えられませんか。実は彼はこういう店をよく利用するような人だった」 「まさか」 「皆さんがこの店に入って来たとき、椅子の左側から座ったのは彼だけでした。それに、女性おふたりが先に座ったのを確認してから座っていました。かなり厳格で正しいマナーです」 まったく、俺が厳格なマナーについて語る日が来ようとは。いつ、どこで、なにが役に立つかだなんて、本当にわからないものだ。 悪友曰くネクタイを締めるのではなくぶら下げているような男が厳格なマナーについて語ったところで、信憑性にかけるのだろうか。 納得のいかない様子で事務長が言葉を発する。 「でも、それは単なる偶然じゃ…」 そう、確かに、それだけならば単なる偶然だとも考えられるが、彼がフランス料理店によく出向いていたという根拠は他にもある。 「グラス・バニーユ」 「えっ?」 「グラス・バニーユ。皆さん、何のことかおわかりですか?」 俺はその場の人間を見回した。 黙っていれば榎木か香坂が答えただろうに、アリスがわざわざ恥をさらす。 「バニラアイスのことやろ」 「お前がそれを知ってるのは、こないだ行った店のデザートがたまたまそれだったからだろ」 「ああ」 アリスは複雑な表情を浮かべた。 朝井さんの前で、そんなところに男二人で出没していることがバレてしまったことが情けなかったのだろう。 それは、ともかく、 「そんな偶然でもない限り、グラス・バニーユがなにか、咄嗟に解らないのが普通ではないですか。しかし、榎木さんがデザートの注文を取りに来たとき、彼はグラス・バニーユと聞いて、今日は冷たい物を食べ過ぎているので他の物がいいと言っていました」 「ああ、そうか。あの人、知ってたんや。グラス・バニーユがバニラアイスクリームやて」 いち早く正解に辿り着いた女流作家が指を鳴らす。 「つまり、彼はフランス語ができるか、もしくはフランス料理に詳しいか、そんな人だと思いました。それに、彼が香水を気にしていたのも気になりました」 「ちょっと、失礼」 俺の言葉に、朝井女史は藤間ゆり子の肩口に鼻を近づけた。 「そんなに強い香水は付けていないですよね」 「ええ、だから嫌なこと言う人だなあって」 そのやりとりに俺は頷き、更に続ける。 「それだけ、彼は香りに敏感だったんです。彼が、生け花をやめてから太ったというのも気になりました。恐らく、彼はそれから始めたんでしょう。インスペクターという仕事を」 聞き慣れない言葉を耳にして、生け花三人衆が揃って怪訝な顔する。 「なんですか? そのインスペクターってのは」 その疑問を口にしたのは滝沢恵美だ。 「グルメガイドの覆面視察員のことですよ」 「あの人がグルメガイド?」 「1日に何軒もレストランを回る仕事です。だから糖尿病にもなった。そして、彼は何故基本的なマナーを知っているのに、敢えて対局にいる人物を演じていたのか」 「……インスペクターの身分を隠すためやわ。家族にも知られたらいかん仕事やもの」 「じゃあ、彼を殺したのは一体……」 女流作家と黛流東京支部の筆頭師範がそれぞれ呟く。 藤間ゆり子の呟きをきっかけに、俺は視線を一人の人物に定めた。 「それは……」 * * * 「香坂さん、あなたです」「そんな、どうして私が?」 俺に名指しされ、香坂はその顔に動揺の表情をが浮かべたが、すぐに反論を開始した。 「インスペクターと強い利害関係があるのは、あなたです」 「インスペクターだなんて知りませんでした。今夜初めてお会いしたんです」 「つまり、あなたは今夜それを知ってしまった」 「それは今、あなたがおっしゃったから…」 「いいえ、あなたがそれを知ったのは彼が電話をかけている時です。香坂さん、その電話を聞いてしまいましたね。そして、その電話こそ、彼が殺された理由でした」 なにか言い訳でも探してるのだろう。香坂は幾度も喉を鳴らす。 だが、逃げ道はない。 「エトワールに確認すれば、すぐにわかることです」 「でも、仮に彼が電話をしていたとしても、私がそれを聞いていたという証拠があるんですか」 「いいえ、でも、犯人はあなたです」 「そんな乱暴な」 「凶器がそれを物語っています」 「見つかったんですか?」 「そんなばかな」 「そんなばかな? 何故です? 凶器が見つかるはずがない。そんな口振りですね」 「なんなんですか凶器って?」 「アリス、頼む」 俺はアリスに声をかける。 それに頷くと、アリスは廊下に用意してあったワゴンを取りに向かった。 そのワゴンが自分の目の前に来るのを待って、俺は上に掛けてあった白い布をめくり取った。 「凶器はこれです」 それは銀色のバットに置いてある1杯の冷凍イカだった。 「これが?」 「イカぁ?」 「まさか、そんなもので」 「本当にコレで人が刺せるんですか」 「証明しましょう」 信じられないと言わんばかりにざわめく周囲を納得させるために、俺は冷凍イカを持ち上げ、滑り止めのに持っていた布を巻き付ける。 それを見たアリスがワゴンの下の棚から、丸ままの冬瓜を取りだしてイカの入っていた銀色のバットの横に置き、動かないよう両手で固定する。 それを確認して、俺は冬瓜にめがけてイカを振り下した。 ザクッと音を立てて、イカは見事に冬瓜に突き刺さった。 イカが刺さっている様子を周りに確認して貰った後に、アリスと協力して冬瓜からイカを引き抜く。 その際、アリスはバランスを崩してちょっとよろめきはしたものの、何とか転ばずには済んだ。 その後、体制を立て直したアリスが、傷跡が周りから見えるように、胸の前に冬瓜を掲げた。 その傷の部分を指差して、俺は香坂を睨み付ける。 「それに、この凶器は被害者の傷の形と丁度合います。香坂さん」 名を呼ばれた香坂はがっくりと首を落とし、近くにあった椅子の背もたれを握りしめた。 その手が小刻みに震えている。 「殺すつもりなんてなかった……」 震える声で発せられた香坂の言葉に、俺は頷いて言った。 「ええ、殺すつもりなら、凶器にイカなど選ばないでしょう」 * * * 「20年です。星を取るまで20年、そして、この店でやっと三つ星を取って……」殺害に至った経緯を語った後に、過去を回想するように呟かれた香坂の台詞が途中で消える。 その気持ちが解らないとは言わない。 しかし、この世に人の命を奪ってまで守り続けなくてはならないものなど存在しない。 そんな彼をじっと見つめていたアリスがふいに口を開いた。 「そんなに星が大切なんですか」 「……」 香坂は黙ったままだ。 アリスの質問に答えたのは彼ではなく、女流作家だった。 「何が大切かは人それぞれなんやないの。フランスで三つ星だったシェフが、星を二つに減らされて自殺したいうこともあったらしいし。せやけど火村センセ、冷凍イカやなんて、推理作家も咄嗟に思いつかんような凶器、どうやって見つけたんです?」 彼女に問われ、俺は思わずアリスを見つめた。 本当のことを言うべきか、適当な話で誤魔化すかを思案した後、結局前者を選択する。 「それは、アリスのお手柄です」 「俺の?」 「アリスの舌を信じました」 「あっ、アリスの食べたイカっ!」 朝井さんの言葉に、きょとんとした表情を浮かべていたアリスだが、間もなくそれは驚愕のものへと変化した。 ──お気の毒様 ある意味ものすごく引きの強いアリスに心の中だけで同情して、俺は香坂に向かって話しかけた。 「香坂さん、証拠隠滅のために凶器を料理しましたね。しかし、慌ててしまいました」 「気が動転してて……。あのイカは既に煮込み始めてイカと入れ替えたものなので、煮る時間が不十分でした」 「それで味に差が出たんですね。三つ星シェフならば、もっとうまく凶器を調理するべきでした」 そういう問題ちゃうやんけ! とでも思っているのだろう、アリスはすさまじい勢いで俺を窓際まで引っ張って行った。 「火村、俺は凶器を食ったんか?」 「悪いな黙ってて。だけどお前、自分が凶器を食ったって解ったら動揺しまくるだろ。犯人を追いつめる側が動揺してたんじゃ、話にならないしな」 「せかやてっ」 「苦情はあとでゆっくり受け付ける。だけど、別にアレは俺がお前に食わした訳じゃないんだぜ」 言うと、俺はアリスを置いて、皆のところ引き返した。 凶器を食わされたアリスも大いに不満があるだろうが、俺だって今日の一件は充分に不満だ。 結局、唯一ラッキーだと思えた状況さえ奪われる羽目になったのだから。 俺はこっそりとため息をつくと、ギャルソンの榎木に向かって告げた。 「私の部屋は香坂さんと一緒にして下さい」 2004.01.28
裏とかいいつつ、あんまり裏ではない。 |