Conditioned Reflex
「あほっ、こんなところでサカるなや」 研究室のドアを閉めた途端、つかつかと歩み寄り、いきなり口付けを落とす火村を私はやっとの思いで押し戻した。 「それは無茶な注文ってもんだな。どれだけ会ってなかったと思うんだ? 三週間だぜ。それも、有栖川先生が遅筆なせいで」 「俺は遅筆やないっ。書き始めれば早いんや」 「又、なんの自慢にもならないことを。いいから黙れよ」 言って、火村は再び私をドアに押しつけ、今度は首筋に唇を這わせた。 思わずスイッチが入ってしまいそうになるのを、不屈の精神力で押しとどめ、私も再び火村を引きはがす。 「やめ。人が来たらどうするんや」 「今、鍵を閉めた。更にお前がそこでバリケードになってて、誰が入って来れるって言うんだよ」 「入ってこれんくても駄目なもんは駄目や。ほら、さっさと仕事片付けぃ。楽しいことが待っとる思えば仕事もはかどるやろ」 「お言葉ですが先生。私は下宿で待っててくれと言った筈ですが。その言葉を無視してここまでやって来ておきながら、帰るまで我慢しろとは、随分じゃございませんか」 火村の言葉に私はあんぐりと口を開けた。 「て、まさか…君が下宿で待ってろ言うたのは……」 「そっ。我慢できなくなるから。じゃ、そういうことで。いただきます」 胸の前で手を合わせて軽く会釈する火村の脇を私は慌ててすり抜けた。 君のことは嫌いじゃないというか大好きだが、その考え方ばっかりはどうかと思うぞ。 逃げた私を見て、火村チッと舌打ちをする。 このままだと、いい年をした大人ふたりの追いかけっこが始りそうな気配だ。 じりじりと迫る火村に、同じ距離だけ退く私。 その緊張感がピークに達した時、火村は大きなため息をついて首を横に振った。 「OK、アリス。約束しよう、俺はお前にお願いされない限り、絶対にここでは手を出さない。それでいいんだろ」 そのままどさっと椅子に腰掛け、火村は煙草をくわえた。 「ほんまやな」 何やら引っ掛かる表現があった様な気はするが、とりあえず確認を取ってみる。 「ああ、未来の妻の名と初恋の人の名にまとめて賭けてやる」 「訳解らんて。だいだい誰やねんそれは」 「お前だよ」 「あほっ」 なんともばかばかしいやりとりだが、私の名に賭けてくれるというなら、取りあえず安心していいだろう。 「コーヒーもらうな。お前も飲むか?」 「ああ」 到着早々嫌な汗をかいてしまったせいか、喉が渇いている。私は鼻歌まじりに作業を始めた。 茶色い粉をコーヒーカップに放り込み、90℃を示している電気ポットの表示を見て、火村の分のコーヒーを入れてから、自分用に再沸騰のボタンを押す。 そうしておいて、目的をとげられなかった哀れな恋人にコーヒーを手渡した時、私は背筋が寒くなるような悪魔の微笑みに出くわした。 「アリス、これなーんだ?」 俺の名に誓うんやなかったんかいっ! と思わず身を退きかけたところで、火村がとった行動は、私に手を出すことではなく、ニヤリと笑って見覚えのある小瓶を私に見せることだった。 「………香水」 火村が綺麗に洗って中身を入れ替えていないのならば、その中身は、私が1年程前に知り合いの調香師に頼んで作ってもらったオリジナル香水だ。 その名も『HIMURA』。 スパイシーな香りの中にほのかに甘さが漂う、私の中の火村のイメージを凝縮したその香水。 火村はそれを、私との情事の時のみ、脱ぎ捨てた服の代わりに身に纏う。 なんで持ち歩いとるんやと思ったが、よく考えてみれば持ち歩いていなければ、我が家で火村がその香りを纏える筈がない。 思えば、旅行先でもその香りは漂っていたのだ。 「では問題。ここでこうしたら、何が起きるでしょう?」 言いながら、火村は瓶の蓋を開け、手首に2〜3滴たらしてからもう一方の手首とこすり合わせた。 更に指先に1滴落とし、その指で私の首筋をひと撫でする。 「手ぇ出しとるやな……」 抗議しかけて、私は自分の身体の変化に気付いた。 ぞくり、と怪しげな感覚が背中をかけあがり、身体の中心が熱を持っているのが解る。 「失礼。手が滑った。もうしないよ」 「信じられるか」 「信じていいさ。でも、話しかけない約束はしてなかったよな……アリス」 心地よいバリトンで耳元に囁かれると、それだけでもう、足が体重を支えられなくなる。 ガクリと崩れ落ちてしまいそうな身体を、積まれた書類に雪崩を起こしながらも、火村の机につかまることで私は何とか支えた。 「なんで…?」 茫然自失で呟く私の耳元で火村が再び囁く。 「アリス、どうして欲しい?」 肌を重ねている時と同じトーンの忌々しい火村の問いかけ。 「なあ、アリス」 アリスと呼ばれるたびに、体温が1℃ずつ上がっていくような感覚……これは── 私はたまらずしゃがみこんだ。 「いつかためしてみようとは思ってたんだが、ここまでうまくいくとは思わなかったな」 頭上からいかにも楽しげな火村の声が振ってくる。 「これ……まさか……」 「いわゆる条件反射ってやつだな。さて、どうするアリス?」 だから名前を呼ぶな。いよいよ立てなくなる。 どうすると聞かれたところで、どーもこーもない。 三週間振りなのは、何も火村に限ったことではないのだ。 涙目になっているだろう瞳で、火村を上目づかいに伺うと、すぐさま 「おっと、そんな熱っぽい目で見つめないでくれ。俺は手を出しちゃいけないんだろう。意地悪しないでくれよ、アリス」 と、あからさまにこの状況を楽しんでいる根性悪な台詞が返ってくる。 しかし、根性の悪い台詞であっても、アリスと呼ぶ火村の声は、香水の香りと相まって否応なく私を煽りたてるのだ。 この調子だと『お願い』とやらをするまで、火村はどうにも許してくれそうにないことを感じ取った私は、パブロフを死ぬまで憎んでやることを決心し、目の前の性悪助教授にこう告げた。 「抱いてくれ。今、すぐ、ここでやっ!」 2003. 04. 15
どこかで同じ話を読んだことがある方もいらっしゃるでしょうが、盗作ではありません。 |