これってどうよ?(14)──Side柴田──



 あの日──
 台風と地震と火事がまとめてやってきたみたいな、衝撃的な土曜日。
 先生はいつものように、車で俺を近くの公園まで送ってくれた。
 いつもと違ったのは、車が止まってからも、俺がなかなか助手席から降りられなかったこと。
 すごく何かを伝えたくて、でもそれは言葉になって出てきてはくれなくて、俺は助手席で、ただ唇を噛みしめ続けていた。
 そんな俺を見て、先生は辛そうな表情で、ハンドルに掛けたままだった両手の上に顔をふせた。
 先生に、そんな顔をさせたい訳じゃないのに。
 お互いに納得して別れると決めた筈なのに。
 どうして俺は動くことが出来ないのだろう。
 どうして俺は明るくさよならを言えないのだろう。
 そう思えば思うほど、逆にどうしていいのか解らなくなる。
 どれくらいそうしていたのだろう。
 噛みしめすぎていい加減唇の感覚が無くなって来た頃、先生がふいに顔を上げた。
 短く息を吐いて何かを決心したかのように、先生は視線を俺に向けた。
 次の瞬間、先生が目を見開いて声を荒げる。
「祐介やめろっ!」
 その声と同時に。先生の手が俺の頬を数回叩く。
 先生のその行動は、いつしか、噛み切らんばかりの強さで唇を噛みしめていた俺を我に返してくれた。
 急に流れ始めた血液が、じんじんと唇を痺れさせているけど、そんなことは気にならなかった。
 唇を噛みしめる痛みも、その後からくる痺れも、この胸の痛みに比べれば、全然大したものじゃなかったから。
 いっそ、その痛みが胸の痛みを忘れさせてくれる程のものだったら良かったのに。
「何やってんだお前。あ〜あ、鬱血してるじゃないか」
 言葉と共に、先生の冷たい指先が、いたわるように俺の唇をそっとなぞる。
 先生は背が高いだけあって、手も足も大きい。
 でも、大きいけれど先生の手はとてもバランスが良くて綺麗だ。
 だた一点、左薬指に白く残るリングの跡を除いて、俺はその手が大好きだった。
 いつもいつも、一番最初に触れられる時は、ひゃっと声を上げて身をすくめてしまう程に、常に冷たいその指先。
 それなのに、俺を熱くさせる先生の手。
 この手に触れられるのも、今日が最後なのかと思うと胸の奥から急に何かがこみ上げてきて、視界をにじませた。
 こんなところで泣くのは卑怯だ。
 そう思っていたのに、ついに涙は俺の瞳からあふれ出してしまった。
 流れ落ちる涙を、大好きな先生の指先がすくい取り、そのまま大きな手が俺の頬を包み込む。
 恋人同士でいられる最後の時間。
 先生の顔をちゃんと見ていたいのに、どうして俺の視界はこんなに滲んでいるのだろう。
 ちゃんと見なくちゃ──
 そう思った時、滲んだ視界でもはっきりと見える程に先生の顔が近づいてきて、俺の唇にそっと触れるだけのキスを落とした。

☆   ☆   ☆

「またな」
 これ以上先生を困らせたくない。
 それだけを考えて気合いで涙を止め、俺は車を降りた。
 そんな俺の背中に先生がいつもの台詞を投げかける。
 『じゃあな』じゃなくて『またな』。
 多分、これは単なる先生のくせなんだろうけど、単なる別れの挨拶じゃなくて、次回を期待することを許してもらえているようで、俺はこの別れの挨拶が嬉しかった。
 だから、いつもなら、俺も手を振りながら『うん、またね』と応える。
 だけど、今日は別だ。
 確かに、週が開けて学校が始まれば、好きでも嫌でも先生と顔を合わせることになるのだから、いくら別れると決めたからといって、この挨拶は間違いじゃない。
 間違いじゃなけれど、会えたとしても決して期待を持ってはいけない。これって、ある意味一番辛い状況だ。
 片想いってやつが、それなりに楽しいのは、期待を持つことだけは許されているから。
 その期待を持つことが許されない今、俺は先生に『またね』と応えることはできない。
 これは俺の決心。
 もちろん、それが俺の中だけでの決着だなんてことは解っているけれど──
 俺はゆっくりと先生の方を振り返り、にっこりと微笑んだ。
 先生を安心させてあげられるような、気の利いた言葉じゃなくて悪いけど、この笑顔が村上孝久の恋人である柴田祐介が、最後にあなたに贈れるものだ。
 さようなら、先生。
 という言葉は胸の中でだけ呟いて。
「お休みなさい」
 俺は手を振りながら、笑顔のままで、車のテールランプを見送った。

☆   ☆   ☆

 無理をしたツケは後になってやってくる。
 今日は週末なので、寮ではなくて実家に帰る。
 例え、週末じゃなくとも、三田村のいる部屋には帰りたくなかったので、これは好都合だった。
 だって、頑張らなくてはならない時間が、あとちょっとで済むから。
 友達と食ってきたから晩飯はいらないと家族には嘘をついて自室に戻り、鍵を掛けた。
 持っていたデイバックを床に放り投げ、辺りを見回し、目に付いたコンポで、入りっぱなしだったCDを再生する。
 着ていたジャケットをしわにならないように、ハンガーにかける。
 ついでに、切っていた携帯の電源を入れて新着メールをチェックしてみた。
 今日に限ってメールはひとつも届いておらず、これで俺が、今、この部屋でするべきことは、一つしかなくなってしまった。
 何かするのをやめた途端に、フラッシュバックされる今日の出来事。
 刑事ドラマの予告編のように、次々と切り替わる場面は、あっという間についさっきの別れのシーンまで辿り着いた。
 一番印象的なのはやっぱり、先生の『またな』という今でも耳に残る優しい声。
 俺たちに次回なんてあり得ないのに──
 先生、お願いだから、俺にこれ以上期待をさせないで。
 よくは解らないけど、きっとそれが本当の優しさだよ、先生。大人だったら、そうしてくれなくちゃ。
 ううん。本当は知ってる。
 俺に冷たくするだなんて、出来なかったんだろ先生。
 俺が、嘘でも先生のことが嫌いだなんて言えないように。
 だから、あなたが見ていないところで、今日だけは泣かせて欲しい。
 週が開けるまでは、あなたの恋人のままでいさせて欲しい。
 月曜からは、ただの生徒に戻って見せるから──

☆   ☆   ☆

「はぁ〜っ。何だよそれっ」
 俺と先生が別れてからひと月あまり。
 まだ気持ちの整理はつききらないものの、俺は日常を──少なくとも表向きは──取り戻しつつあった。
 日常とか習慣とかいうやつは呆れるほど残酷で、俺にいつもどおりの生活をさせつづける。
 俺がどんな思いを抱えていようと、朝は毎日やってくるし、授業も宿題もある。
 きっと、現実なんてこんなものなのだろう。
 日常なんて、自分が思うより簡単に取り戻せるものなんだ。
 ただ、独りでいる時間を、今でも持てあましてしまうのは確かだけれど。
 本を読む気にも、TVを見る気にもなれず、ただ、ぼーっとしてしまう。
 身体は日常生活をこなしているけど、気持ちだとか感覚だとかがどうしても現実を拒否してしまう。そんな感じ。
 忙しくしてたら、そんな腑抜けな自分を自覚しなくてよくなるかも……と考えて、俺が積極的に動き始めてしばらく経ったとある日。
 店番を終えて寮の部屋に戻ると、三田村が信じがたい情報を俺の耳に入れた。
「何だよそれって、知らなかったのかよ柴田。学校中の噂だったのに?」
「いいから、詳しく話せよっ」
「詳しくっても、俺だって噂以上のことは知らないからな。まず、何かがおかしいって言い出したのは、2・3年で村上の生物とってる奴らだよ。1回2回ならともかく、ここ2週間、村上の授業は全部自習だったらしい。しかも今週からは自習じゃなくて、理科主任の有野が授業をしたんだってよ。これはもう、なにかやらかしたとしか思えないじゃないか。そんな時だよ、新聞部が村上の離婚をすっぱ抜いたのは。生徒にバレた手前、もしかすると謹慎じゃすまなくなるかもって話だぜ」
 三田村の説明は、多分、ものすごく解りやすく事実を伝えてくれているのだろうとは思う。
 だが、俺が聞きたいのはそういうことじゃない。
「離婚の原因は? 単なる離婚なら先生が謹慎させられる理由ないだろ」
「これも噂だけど、どーやら奴の不倫らしいぜ。相手は大学の同級生だと。しっかし、離婚の件はともかく、新聞部のやつらも、どこからこんな情報仕入れるもんかね」
「そんなのガセだよ」
「ガセだったら何で村上が謹慎させられてんだよ」
「知るかよっ」
 叫んで俺は部屋を飛び出した。
 飛び出したはいいけど、どこに行っていいのかも、何をすればいいのかも解らない。
 それでも独りで考えてみたくて、門限まではまだ時間があることを幸いに、俺は近所の公園へと向かった。
 先生と別れて以降、それを思い出すのが嫌で避けていた場所ではあったけれど、咄嗟に独りになれる場所を俺はここ以外に思いつくことが出来なかった。
 心を落ち着ける為に、ジーンズのポケットに入っていた小銭を公園内の自販に放り込み、煙草とライターをゲットする。
 震える手で煙草に火を点け、大きく吸い込むと、やっと冷静さが戻ってきた。
 三田村の情報には、少なくとも1つ誤りがある。
 三田村は先生が謹慎させられているような口振りだったけれど、姿を見せなくとも、先生は学校に出てきている。
 見たくなくても目に入ってしまう先生の車。
 その車は毎日学園の駐車場に止まっていたし、生物準備室でも先生らしき陰が動いていた。
 学校に来ているってことは、謹慎じゃないはずだ。
 でも、なら、何故授業に出てこないのだろう。
 それに、先生には今更離婚する理由なんてないじゃないか。しかも、不倫で。
 更に、その相手が大学の同級生だなんて、いかにも前田さんを思わせる情報なのも気になる。
 まさか、先生、俺と別れてから前田さんに走ったのだろうか。
 いや、前田さんには悪いけど、それは、絶対にあり得ない。
 一体何がどーなってんだ???
 俺が情報を処理しきれず、煙草を手にしたままフリーズしていると、突然頭上から声が掛かった。
「こら、不良少年。俺の仕事を増やすなよ」
 忘れようとしても、絶対に忘れられない、優しく響くその声は……
「先生──」
 信じられなことに、振り返った視線の先にあったのは、俺が未だに愛してやまない、生物教師の姿だった。

☆   ☆   ☆

 俺が公園のベンチで先生に聞かされた話は、にわかには信じがたいものだった。
 前々からマイペースな人だとは思っていたけれど、瑞恵さんってばスゴすぎる。
 これには、流石の前田さんでもかなわないんじゃかって思う位に。
 そして、先生が授業に出てこなかった件に関しては、やっぱり前田さんが関係していた。
 先生が離婚することを知って、わざわざ理事長に先生が居酒屋で女と密会していたと投書してきた人間が居たのだそうだ。
 結局、先生が謹慎をくらっている振りをしていたのは、理事長の提案でその密告者をあぶり出す作戦だったらしい。
 目に余るようなことをしていたんならともかく、女性と居酒屋で酒を飲んでいたことをわざわざ密告して、他人の足を引っ張るような人間は、学長にとって軽蔑すべき人間で、そんな奴は学園に置いておきたくはないからという理由で。
 流石名門私立の理事長だ、言うことがものすごい。
 先生は言葉を濁していたけど、それはきっと、同じ理系教師なのにもかかわらず、生徒からの評判がすこぶる悪い某中年教師に違いない。
 生徒からの評価がボーナスの査定にも響き、悪くするとそれが理由で首を切られることもあるウチの学園だ。密告者は、誰かを蹴落とすことで、自分の首をつなごうとしたのだろう。
 まあ、その密告犯が誰かはともかく、そいつは間抜けだ。
 逆にそれで理事長に目を付けられてたら世話はない。
 あげくに、彼曰く密会現場の居酒屋に、俺も居たということに──いくら潰れて寝転がっていたとはいえ──気付いてなかったていたらくぶり。詰めが甘いにも程がある。
 肝心なことを忘れて、そんなことばかりに考えていた俺に、先生が問いかける。
「で、祐介、お前はどうする?」
「どうするって?」
 俺の言葉に先生は寂しげな笑みを浮かべた。
「……俺には、今更何を言う権利もないからな」
「どういうこと?」
「結局は離婚することになったけど、俺はあの時、お前じゃなくて家族を取った。今の俺には祐介を好きだという資格がない」
「資格がないだなんて……」
「そう、俺は自分でその資格を放棄したくせに、今でも往生際悪く、お前が好きで好きで仕方がない。お前に許して貰えることを願っている。自分でも勝手な言いぐさだと解っていてもな」
「許すも何も……」
 俺は先生に向かって微笑んだ。
「あれは俺たちふたりで決めたことだろ。だったら、これからのこともふたりで決めなくちゃ。俺ばっかりに選ばせるなんて、ずるいぜ先生」
「……祐介」
「それにね、どっちかっていうと、今、決断を迫られてるのは俺じゃなくて先生の方だと思う」
 俺の言葉に先生は「なんで?」と首を傾げた。
 そんな先生に、俺は3日前に受けたばかりの試験の内容を報告する。
「留学って……お前っ……。もしかしなくても、それってやっぱり俺のせいか?」
「まあね。どうする先生? 俺は受かるよ。そして、受かったら断らないよ。1年間、俺のこと待てる?」
「畜生〜。待ってやるさ。お前こそ最初の目的どおり、俺のこと忘れたりなんかするなよっ」
「さあね、残念だけど、それは保証できないな」
「嘘でもいいからしてくれよ。……まあ、それはともかく、もしかするとこれで良かったのかもな」
「ほとぼりが冷めるから?」
「そういう言い方はよせよ。これで、俺がお前を待てない様なら、俺はそれだけの男だったってことだ。でも、待ってられたら俺の本気ってやつを証明できるだろ」
 言って先生は俺の頭をコツンとこづいた。
「俺も証明するよ。最初の目的とは違っちゃうけど、会わなくたって俺は先生を好きでいられるって」
「期待しないで待ってるよ」
「ったく、感じ悪いなぁ。期待しろよ」
「悪い、嘘つきました。本当は期待してる」
 先生の台詞に、俺は久しぶりに声を上げて笑った。
 早まったかなという気がしないではないものの、このままヨリを戻したのでは、俺と先生の間には多分しこりが残ってしまう。
 1年後、それが残っていないという保証はないけれど、今よりもずっと小さくなっている筈だ。
 離れている期間、お互いを好きでいられたならば、それは確実に、この恋が本物だという自信につながるはずだから。
 うん、きっと、これで良かったんだ。
 だって今、俺は、無理なく笑えているのだから──

FIN

●和泉澤TOP●


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