桜月夜を君と歩こう──
その日、智史はふらりと夜の散歩に出掛けた。 小説を書いていると、時折、どうしても乗り越えられない一行というものに遭遇する。 何が書きたいのかは解っているのに、どうしてもうまく文章が出てこない──そんな一行に。 もちろん、それとは別にうまくまとまらなくて何度も書き直しをする行というのも存在するが、そちらの方は文章の前後を入れ替えたり、接続詞を変更している内になんとかなるといった類のものだ。 何度も書き直しをするという点でこの二つは似ているが、やはり否なるものだ。 片方は単純作業の繰り返しでなんとかなり、片方は発想の転換だけならまだしもストーリーまで変えなくてはならない場合があるという部分で。 単純に回数で判断できることではないのだろうが、その行を10回書き直してそれでもうまくまとまらなければ、智史はそれを暫定的に後者だとみなし、一度テキストエディタを終了させ気分転換をすることにしている。 その気分転換には、まきがめ(Macユーザの間では割と有名なパズルゲーム。Yahooゲームでいうならブロキシーに似ている)でハイスコアを叩き出すことだったり、弘樹がそんなものは水だと断言する38度くらいの風呂にダラダラと入ることだったり、寝ることだったり、散歩に出掛けることだったりと、様々な選択肢があるのだけれど、今日の智史は月明かりに誘われ外に出た。 太陽の光のようにくっきりとではなく、全てのものをほのかに照らし出す月光の下の世界は、現実でありながらとても幻想的だったので。 こんな夜は、どちらかというとリアリストの部類に入るであろう──少なくとも、自分ではそう思っている──智史でさえ、どこかで別の世界への扉が開いているのではないか、だなんて思ってしまう。 そして、そんな風にいつもと違う気分は、人にいつもと違う景色を見せてくれるものらしい。 いや、景色自体は変わっていないのだろうけど、普段とは違ったものを視線がとらえる。 これは、やっぱり月のせいだと智史は思う。 別に、月の光に魔力が云々とかいう、非現実的なことではなくて、ついつい空に浮かんだ光源に目がいってしまう分、普段より視点が幾分高いから。 その僅かな差は、目に映る景色をアスファルトやコンクリートの壁といった全体的にグレー基調のぼんやりしたものから、もっとコントラストの強いものへと劇的に変化させる。 たとえば、夜空をバックにその白さを際だたせる白木蓮、空に向かって咲き誇る色とりどりのホウキモモ、昼間でも目立つが闇に浮かび上がる分、夜になるともっと目立つレンギョウの黄色い花──そんなものたちが目に映る風景にアクセントをつけてくれるのだ。 そんな景色の中で、智史は白木蓮に導かれるように、いつもは曲がらない角を折れた。 いつもは目に入らない花々。それでも、今夜はいくつかの選択肢があったというのに、その花に誘われた理由はよく解らない。 解らないながらも、無理に理由をつけるなら、グレースケールの世界における0%の純白が、鮮やかな色以上に浮き上がって見えたからなのかもしれない。 理由はともかく、角を折れてみた智史は目の前に広がる風景に驚いた。 ものすごく近所であっても、いつもの道から1本それると見知らぬ町並みが広がっており、漠然とした不安みたいなものや疎外感めいたものを感じる場合というのは確かにあるが、智史を驚かせたのはそんなことではない。 ご存知なかったかもしれませんが、ここいら一帯は白木蓮の愛好者が集まる一帯なんですよ♪ と、突然見知らぬ解説者が出てきて指を振りながら解説でも始めるんじゃなかろうか?──だなんて思ってしまう程に、真っ直ぐに伸びる道筋の家々にはかなりの割合──推定50%超──で、その木が花を咲かせていた。 白木蓮に誘われて角を曲がったあなたが行くべき道はこちらですよと教えてくれているかのように。 このまま進んで行き着く先は、お札と呪術と九尾の狐の世界か、はたまた剣と魔法と魔王風折の世界か──そんな思いがチラリと頭の端をかすめたものの、それは踵を返させる程現実的なものではなくて、智史はゆっくりと足を踏み出した。 不動産屋の基準でいうなら微妙なところで徒歩2分という表示になってしまうであろう──つまり80mを少々超える──その道を通り抜け、やはり白木蓮に誘われるようにT字路を左に曲がると再び同じ様な景色に出会う。 それを幾度か繰り返し、白木蓮の通りに出くわすことにすっかり慣れてしまった智史が、次も似たような景色が広がっていることを半ば確信して角を折れた時、急に視界が開けた。 いや、正しくは開けた場所にたどり着いたと表現するべきだろう。 今時、そんな場所がそうそうあるとは思えないのに、どうみても空き地に見える、そんな場所に。 白木蓮の通りに出くわした時とは別の意味で、ここは異世界への入口なのではないかと感じてしまう、そんな景色に。 特に無理をしなくても、家の一軒くらいは余裕で建つであろうそのスペースは、視界の開け方と水の流れる音から結構大きな川を背負っている場所だと知れる。 角を折れた回数と月の方向からみて、自分の現在位置はこの辺だなとアタリを付けながら──というか、そうでもしなければ、現実世界に留まっていられなくなるのではないかと思う程に、目の前に広がる景色は異様で幻想的だった。 例えここが関東ではなく、九州だろうが北海道だろうが、白木蓮の花が盛りである時季は、桜の花が咲くちょっと前だと相場が決まっている。 いや、日当たり如何で多少は前後するだろうから、絶対に桜が咲かないとまでは言わないが、まさしく見頃──つまりほぼ満開の桜に出くわせる筈がないのだ。 だが、今智史の目の前に広がる光景は、自分がカメラマンなら絶対にシャッターを切ると確信できる程に美しいものだった。 闇を背景に浮かび上がる桜、風もないのにはらりはらりと舞い落ちる花弁、その主役にスポットライトを当てるが如く空を飾る真円に近い月── その光景は、春先の夜の冷え込みとは全く別のところで、智史の背筋をぞくりとさせた。 それは多分、またしても偶然に導かれ、こんなにも印象深い存在に出くわしてしまった為。 それはきっと、自分の心象風景を的確に表した風景を目の当たりにしてしまった為。 今現在、智史の心のグラスには、それがなにかよく解らない──いや、解りたくないから気付かぬ振りをしているのかもしれない──暖かいものが注がれ続けている。 それが増えれば増えるほど、気持ちも暖かくなると同時に不安も襲ってくるのだ。 それがグラスの縁から溢れ出した時、一体自分はどうなってしまうのか──と。 心の洪水の後始末の仕方など智史は知らない。 それがどんな事態を引き起こすのか予測もできない。 けれど、知らなくとも、予測ができずとも、更には経験がなくとも、賢い智史には知っていることがある。 祭りの当日よりも、その前日までの方がワクワクできるのと同様に、心のグラスが──この想いが胸一杯に満たされてしまう前までが、ある意味一番楽しい時期であることを。 満開ではなく九分咲き、満月ではなく十三夜。 桜も月も完全というには僅かに欠けるこの時期が一番美しいのだと。 だって、満開ならばあとは散るだけ、満月ならばあとは欠けてゆくだけ。 例えかける時間に大差はなくとも、何かが欠けてゆく様は、切ない分だけ早く感じる。 それが恐くて、無意識にブレーキをかけ続けてきたけれど、智史の気持ちはもうここまで来ている。 あと1度気温が高ければ、あと1晩夜を明かしたら、満開になり満月となる、そんなギリギリのところまで。 ──ずっと、このままでいられたらいいのに…… 口に出すことなく胸の中で呟いた言葉は、目の前に広がる風景に対するものか、それとも自分と誰かの関係なのか。 智史が、そんな疑問を自分に投げ掛けようとした丁度その時だった。 「君、高校生だよね。こんな時間に外で何をしてるの?」 そんな言葉と共に、ふいに肩を叩かれ、智史はびくりと身を竦めた。 振り返るまでもなく自分の前に周り込んできたのは、台詞から予想できた通り制服姿の警官だった。いわゆる、巡回中のお巡りさんというヤツである。 こんな時間にフラフラと外に出ていた自分も悪いとは思うものの、敢えて今まで避けてきた自問自答に挑戦しようとしていた智史は、何とも無粋でタイミングの悪いこの警官に憎しみに近い気持ちを覚えた。 だから、適当な言い訳をして踵を返せばすぐに解放してくれたであろうこの警官に、にっこり笑って「夜中の散歩です」と告げた。 いくら金曜の夜とはいえ、高校生が散歩をするには常軌を逸した時間──因みに午前1時半だ──に、笑顔でそんな返答をされ、警官は言葉に詰まった。 そんな警官に対し、智史は言葉を続ける。 「ああ、先に言っておきますけど、ご両親も学校もなにも言いませんよ。どっちも門限ないですし、俺、悪いこともしませんから」 「いや…でも」 「ああ、ついでに夜中に人通りをないところを歩いていたら危険だよとかっていう忠告も遠慮します。俺、男だし、空手もできますから♪」 「いや、そういう問題じゃなくてね……」 「なら、どういう問題なんですか♪」 にこにこ笑って相手を追いつめる技は、風折を手本にしたものだ。やってみて初めて気付いたのだが、確かにこのやり方は、自分がされる方ではなく仕掛ける方ならものすごく楽しい。 ──癖になったらいよいよ学校で浮くかも…… 目の前で、「えーと」とか「それはだね」とか「なんというか」だとか、あからさまにその場しのぎの言葉を発している警官の困った顔を見ながら、智史は笑顔を絶やさない。 この笑顔が、この策の重要ポイントであることを、身をもって知っていたからだ。 さ〜て、もうそろそろ許してやろうかな、と風折ほどは根性の悪くない智史が「ご心配かけてすみません。もう帰りますから」と告げようとした、その瞬間だった。 「いい加減にしとけ」 という台詞と共にペチンと後頭部を叩かれ、その智史は両手で頭を押さえた。 「弘樹? お前──」 なんでここに? という智史の台詞を遮って、弘樹は警官に向かって頭を下げた。 「すいません。あまりにここの夜桜が綺麗だったもので、しかも明日は土曜なもんで、弟と花見をしてたんです。わたしがちょっとゴミを捨てに行っている間に、弟がご迷惑をかけたようで。監督不行届で本当に申し訳ありませんでした」 ──よく、言うよ。 智史は小さく肩をすくめた。 確かに弘樹は、制服さえ着ていなければ高校生──というか20歳前には見えないが、それはあくまでも見た目年齢の話である。 身分証明書を見せろとでも言われたら、たちまち嘘がバレてしまうし、兄弟というには、自分と弘樹は似てなさすぎる。 「兄弟? ……あまり、似てないね」 さすがに、何をしていたという訳でもない一般市民に身分証明書の提示は求めなかったものの、やはり彼らが兄弟であるというのは認め難かったらしい警官が漏らした言葉に、ほら来やがったと智史は慌てて口を挟んだ。 「あの、俺と兄貴は母親が違うんです。見てのとおり、兄貴には外国人の血が入ってます。何も悪いことしてないのに職質されかけたのが腹立たしくて、先刻は反抗的な態度とっちゃったのは謝ります。どうしても補導するっていうなら、交番でもどこでも行きます。……でも、これ以上兄貴に辛いこと思い出させないで下さい。それともどうしても話さなくっちゃ、駄目ですか?」 台詞の最後に、(大嘘)と太ゴシック体のしかも赤字で付けくわれられていること確実な智史の作り話も、目に一杯涙を溜めて──単に、瞬きをしなかっただけだが、どうやら気がいいお巡りさんといった類の人種らしい彼はそのことに気付かなかった──言われると、それなりに信憑性が上がるらしく、「もう、遅いから早く帰るようにね」という言葉と共に、警官はその場から立ち去った。 その警官の姿が角を曲がり見えなくなった所で、弘樹は再び智史の頭をポンと叩いた。 「で、お前はこんなところで何をしているんだ」 「頭叩くなよ。脳細胞が死ぬ。って、それはこっちの台詞だよ。どうしてお前がここに居られるんだ」 智史の質問に、弘樹は涼しい顔で答える。 「お前を捜してたから」 「だ〜か〜ら〜、俺自身でさえ予測できなかった俺の行動がどうしてお前に解るんだ」 「別に解った訳じゃない。なんとなくこっちかな程度の勘で歩いていたら、ちゃんとお前のところに辿り着いた、それだけだ」 「……それだけって、お前──」 なんで、そんな人間離れしたことが出来るんだ、と言いかけた智史の言葉は弘樹によって遮られる。 「いいだろ、それだけで」 智史の方ではなく、桜月夜と名付けたくなる景色を見つめて発せられた言葉は、何故か不思議な説得力があった。 智史は僅かに俯いた後、真っ直ぐに前を見つめて──弘樹の目に映る光景と同じ物を自分の瞳にも映して答える。 「ああ、そうだな」 そして、その後、ふたりは無言の時間を過ごす。 多分、言葉では語り尽くせぬ風景と、偶然に感謝するために。 どれだけの間、そうしていたのだろう。 厚着とは到底言えない装いの智史が、足下から這い上がる寒さに身震いをしたのをきっかけに、弘樹が「帰るか」と踵を返す。 「ああ」と頷き、その後に続く智史は、背中に背負った出来損ないの満月に思いを馳せる。 地球クラスの惑星が有するには、あまりに大きすぎる衛星──月。 月が地球の衛星になった理由には様々な説があるけれど、どれが正しいかだなんてどうでもいい。 大切なのは、月が地球の衛星であるという事実だけだ。 どんな課程を辿ろうとも、この空に月が浮かんでいて、今自分の傍らには弘樹がいる。 それが事実で運命── ──だから歩こう。 桜月夜を、君と── 2005.04.25
既に季節外れの感があるのには、目をつぶってやって下さい(しかも、北海道で桜が咲くのはまだ先だという、どうしようもない時季外れ具合(爆))。 |