神岡智史が1年で1番恐れる日
「とまあ、こういうことだ。解った? じゃあ、156ページの例題やってみろ。えーと──」 年が若い割には頭髪の量がもっか最大の悩みの種である数学教師は、黒板の端にかかれている日付にちらりと視線をやると、手元の出席簿を人差し指でなぞった。 「出席番号16番の──戸川。お前にはノートでじゃなくて例題1を黒板で解いてもらおう。で、戸川は何月生まれだ?」 「1月です」 「じゃあ、その後ろの席の水戸。お前は例題2を以下同文。何月生まれ?」 「俺も1月です」 「隠れても無駄だ清水。例題3。聞こえないふりすんな。あきらめて生まれ月を言え」 「……1月です」 「はぁ? このクラス1月生まれしかいないのか? まあいい、じゃあ山村が例題4だな。何が……」 ここまで言って、山村本人を含む数人の生徒が笑いをこらえる為に口に手を当てて肩を震わせている様子に気づき、数学教師は事態を察した。 信じがたい偶然ではあるが、どうやら山村も1月生まれであることに。 月と日付を足した出席番号の生徒を最初に指名し、その後はその生徒の生まれ月を数えていくという指名の仕方は、今までは生徒に自分が当たるか否かを予測させない為には結構効果的な手段だった。 その為にクラス全員の誕生日を覚える程、暇な高校生などそうそう居やしないからだ。 別に誰を指名したっていいのだが、答えが解っているのにわざわざそれを聞くのもつまらん、と数学教師は質問を変えることにした。 「いや、山村、星座は?」 「俺も──えっ? いや、みずがめ座です」 「み・ず・が・め・ざ──神岡が例題5だな。でもって、当たらなくてほっとしている例えば樋口、一応問題解く振りくらいはしとけ」 数学教師の言葉に、クラス中がどっと沸く。 言葉遣いは悪いが、教え方がうまく面白いことを言うこの数学教師は生徒に結構評判がいい。 去年のクリスマスに、結婚するまでハゲないって約束したじゃないこの嘘つきっ! と婚約者になじられたという話は今では学校中が知っている笑い話だ。 そんなことをぼんやりと考えながら、智史はあからさまにダルそうな態度で黒板に向かった。 別に問題を解くのはいいが、チョークで手が汚れるのが嫌だったからだ。 ──学校中の黒板をホワイトボードに変えたら、予算はどれくらいかかるんだろう。放課後、会計の朝比奈に計算させてやろうか。いや、専用のペンの年間消費量の試算が先か。でも、あれはあれで手についたら、チョークより落とすのがやっかいなんだよなぁ〜。 まったく別のことを考えつつも、智史の手はスラスラと問題を解いてゆく。 神岡智史──相変わらず、おかしなところで器用な奴である。 ──大体、日付で指名するってのも、どうかと思うんだよな。31番以降の奴は絶対最初に指名されないってことじゃんか。あれっ? そーいや今日って16日だっけ? 智史はチョークのついていない小指でブレザーの袖口をめくり、腕時計の日付を確かめた。 そこに14という数字を見つけ、ああ、足し算ね、と納得した瞬間、智史は思わず「あっ」と声を上げた。 「どうした神岡? チョコでも買い忘れたか?」 いかにも、やっべぇ、忘れてたよ、という表情を浮かべる智史をからかう数学教師の声に、再び教室がどっと沸く。 ──てめーら、揃いも揃って、菓子業界の陰謀に踊らされているんじゃねぇよ。 教室中から聞こえてくる冷やかしの声に、割と本気でムカついた智史は、例によって、嘘でもないが本当でもない言葉で教室の空気を一気に冷やした。 「いえ、忘れてたのは、今日が母親の祥月命日だったってことですよ」 ☆ ☆ ☆ 「ああ、望さん。神岡です。ちょっと調べて欲しいことがあるんですけど、いいですか?」その日の放課後。 生徒会の仕事を全て放棄して、あちこちに電話をかけまくる智史の姿を、弘樹は困惑した様子で眺めていた。 「智史?」 「ああ、弘樹、居たのか。生徒会の仕事は?」 「お前が居ないのに何ができるっていうんだ。振ってわいた休みにラッキーってな具合に、みんな解散したぞ。今頃、揃って霞ヶ丘の校門前でもフラフラしているんじゃないのか」 「はぁ? そうなんないように、お前を補佐生徒会のトップに据えてあんだろ」 チッ、と舌打ちをした後、智史はまあいいと弘樹に向き直った。 「なら、お前も暇なんだな。じゃあ、駅前の花屋にお使いに行ってくれ。先刻、電話しといたから、俺の名前言えば渡してくれる」 「って、何をだ?」 「花屋に新巻鮭取りに行けとか言うわけないだろ。花だ花」 「いや、それは解るが──」 「いいから、早く行け。行かないなら俺の邪魔をするな。これさえ乗り切れば、俺の学校生活は今後安泰なんだ」 智史の剣幕に、これ以上の説明を求めるのは無理だと判断した弘樹が、仕方なく渡された万札をポケットに入れ、部屋を出かけたとき、背後から声がかかる。 「弘樹、チョコはねーけど、バレンタインのプレゼントに、この言葉を贈るよ。よく、聞けよ。よそからチョコなんか貰ってきやがったら、ぶっ殺すっ!」 「さすがプロ作家だな。その台詞、背筋がぞっとする程感動したよ」 「やかましいっ! 早く行けっ」 智史の照れ隠しの怒声を背中で聞きながら、弘樹はリビングのドアを閉めた。 ──それにしても、智史は何をそんなに焦っているのだろう? 首を傾げたまま数歩足を進めたところで、弘樹は先ほどの智史同様「あっ」と小さく声をあげた。 「成程……そりゃ、大変だ」 ☆ ☆ ☆ 「あの〜、一体なにごとなんですか?」なにをどうして、どうやって潜り込んだものやら。 ラジオの生出演を終え、スタジオの外に出た途端、智史に拉致されタクシーに押し込まれた涼は、例によってのんきなことに車が走り出してから5分以上も経ってから、この質問を口にした。 「なにごともなにも……お前、あのまま自宅に帰る気だっただろ」 「えっ? まあ……そうですね。明日、早いし。それじゃなくても、杉崎さん、補導でもされたら洒落にならんって、俺に夜遊びさせてくんないんですよ」 「そうじゃなくて……今日は、なんの日だ?」 「何って──バレンタインデーですよね」 新人だとはいえ、一応は芸能人。 朝、家を出た時にくらべて、紙袋3つ分荷物を増やしていた涼は、智史の問いにそう応えた。 その返答に、智史は本気で嫌な表情を浮かべ、涼はバレンタインデーがどうかしたのかな、と首を傾げた。 「あのな〜」 あきれ果てた智史が、いつものように原稿用紙3枚分くらいまくしたててやろうと思ったところで、涼がポンッと手を打った。 「あっ、解りました! そっか〜、なら、なにも迎えに来なくても電話で言ってくれればいいじゃないですか」 「ラジオの本番中にか?」 「あっ、そっか。なら、留守電かメールでも良かったのに」 「なら聞こう。今、お前の携帯には電源が入っているのか?」 「えっ? ああ、でも、だって今日は、いきなり神岡さんがタクシーに押し込むから……」 「『今日は』じゃなくて『今日も』だろうが。風折さんから聞いてるぞ。涼の携帯は家にいる時しか電源が入っていないといっても過言じゃないって。そんな携帯にどんな意味あるってんだよっ!」 「いや、ついつい忘れちゃって。俺も、気をつけてはいるんですけど」 「まあいい。で、念の為に聞くけど、お前はなにが解ったんだ?」 「何ってアレでしょ。今日、バレンタインだし、迅樹が俺の為にガトーショコラとか焼いてくれたんですよね。でもって、いつもの様に迅樹に丸め込まれて神岡さんが俺を迎えに来たって話ですよね。ったく、迅樹ときたら……。俺、ちゃんと今日は仕事だから週末に行くって言ってあったんですよ。後で、きちんと神岡さんに無茶させるなって迅樹に言っておきますから」 「……………」 智史は黙った。 涼の発言を受けて、ヒットポイントが限りなくゼロへと近づいてしまったからだ。 すぐさま宿屋に入って体力の回復をはかりたいところであるが、そうはいかないのが智史のなんとも気の毒な運命である。 智史は、最後の力を振り絞って、涼にお願いをした。 「俺の為を思うなら、頼むから何も言わないでくれ」 ☆ ☆ ☆ 「やあやあ、弘樹。ご機嫌いかが?」その日の夜中。 怒濤のピンポン攻撃で寝ていた後輩を無理矢理起こした風折は大変ご機嫌であった。 「いいように見えますか?」 智史片手にぬくぬくといい夢を見ていた弘樹は、この風折の嫌がらせに顔を引きつらせながら問いかけた。 「ううん、全然。でも、僕ってば超ご機嫌なんだよね。どうしてかって? 聞きたい? 聞きたいよね」 「…………」 「君や智史はすっかり忘れてたみたいだけど、今日──いやもう昨日か──って、僕の誕生日だったんだよね〜。君たちと違って気の利く涼は、僕を驚かせる為に、その日は行けないとか言っといて、何をしてくれたと思う? 紫の薔薇の花束とバースデーケーキ持って来てくれたんだよ。ああ、僕、こんなに生まれてきたことに感謝した誕生日は初めてだよ。それだけじゃなくってさぁ……」 止まることなく、延々と話し続ける風折に、弘樹は小さくため息をついた。 ──智史、全部バレてるぞ。 つまり、これはアレだ。 忙しい想い人に気を遣って自分の誕生日のことなど伝えていなかった上に、あまりに涼らしくない演出とプレゼントのラインナップに、風折は裏で智史が絡んでいることを察してしまったのだ。 とはいえ、誕生日に涼と会えたこと自体は嬉しかったので、智史本人ではなくその恋人に延々とノロケることで、涼を睡眠不足にした仕返しをしている──とまあ、そんなところだろう。 ──なんにつけても、迷惑な人だ。 弘樹は再びこっそりとため息をついた。 とにもかくにも、弘樹と智史のバレンタインデーは、やっぱりこうして風折に翻弄されて終了を迎えたのであった。 風折迅樹──本当に誕生日からして迷惑な人である。 2005.02.16
いや、だから何? と言われてしまえばそれまでなのですが、このシリーズにおいて、2月14日はバレンタインデーではなく、風折迅樹様のお誕生日なのでございます。 |