『不測の事態』 |
世の中不思議に満ちている── 俺は、いつものスーパーのいつものレジで、蛍光イエローのスタッフジャンパー(?)を着た店員さんが自分の買い物を次々とPOSに通すのを見つめながら、そんなことを考えていた。 不思議といえば、俺もスーパー側にとっては大概不思議な客かもしれない。 いつものスーパーってのはともかく、いつも並ぶレジが決まっている奴なんてのは、まず居ないと思う。 スーパーにおいて常連客が選ぶのは、大抵の場合並びたいレジではなくて、並びたくないレジだ。 例えば列が長いところや、列が短くても店員の手際が悪くて進みが遅いことが解っているところ。 俺のように、どんなに列が長くとも、どんなに手際の悪い人間が入っていようと、右側から数えて三番目のレジで会計を済ませるというのは、我ながら変な奴だと思う。 いくら俺には俺なりの深い事情があったとしても。 とはいえ、空いたレジから『お待ちのお客様どうぞ』と声を掛けられれば、そちらに移りはする程度の中途半端な頑なさであるから、そんなに多くの店員にこの事実は気付かれていないと思う──というか思いたい。 「1,163円頂戴致します」 店員の声に、俺は慌ててスーツの内ポケットから財布を取り出し中身を確認すると、5千円札を取り出し目の前の皿(でいいのか? とにかくレジにくっついている金を置くための場所)に置いた。 本当は財布を重たくしている小銭を吐き出したいところではあったが、後ろに並ぶおばちゃんの『早くしろ』という視線が恐かったのでそっちの方は諦める。 「まずは1・2・3千円と──」 目の前で長くて綺麗な指先が紙幣を数え、千円札3枚を俺に手渡した。 続いて残りの小銭とレシートが俺の掌に落とされて「ありがとうございました」という声を聞くと、彼と30センチの距離の時間は終わりを迎える。 未練がましく彼の姿が目に入る位置でカゴの中身を袋に詰め、踵を返す前にもう一度じっくりと彼の姿を自分の目に焼き付けると、俺はようやく目の前の階段を登り始めた。 ■□■
職業に貴賎はないとは言うけれど── 俺があのスーパーで初めて彼の入ったレジで会計を済ませた時、なんでこんなイケメンがスーパーでレジなんか打っているんだろう、と思わずにはいられなかった。 ちょっと年齢がいきすぎている感はあるものの、彼のルックスは、某事務所の超人気アイドルの隣に並んでいても決して見劣りしないであろうと思われる程だ。 もちろん彼はパートのレジ係ではなく、このスーパーの正社員で混雑時だけヘルプに入っているのだろうが、それにしたってスーパーの店員という肩書きは、彼のルックスには役不足だと思えた。 一度気になり出すと、とことんそのことが気になってしまうのは自覚もしている俺の悪癖で。 我ながら男に見とれてどーすんだよと思いつつ、彼を気にするようになって既に3ヶ月が経っていた。 その間に俺が収拾したデータ──っても会社員である俺が、あのスーパーに出没できる時間は限られているのでその時間帯のみでのものに過ぎないが──によると、彼が入る確率の高いレジが右から三番目のもの。 だから、俺はいつでもそこに並ぶ。 そんなことをしなくても、彼の入っているレジに並べはいいじゃないかと言われてしまえばそれまでだが、いくらなんでもそれじゃ変態チック──というかいわゆるストーカーではなかろうか。 これで俺が、思わずレシートに携帯番号書いて渡したくなるようなキュートな女の子だってんなら、そういうアピールの仕方もあるとは思うが、実際の俺は少々よれよれ感の漂うもうすぐ三十路なサラリーマン。 この人怪しい──と退かれるよりは、適度な距離を保って彼を観察し続けられた方が俺も幸せで、彼はもしかしてこの人ホモ?(いや、違うけど)みたいな余計な悩み事を抱えずに済み幸せだろう。 毎度のことながら、俺ってしょーもないことだけに興味持つよぁ〜、だなんて自室で苦笑していると、電子レンジがチーンと鳴って、総菜が温まったことを知らせてくれた。 結局、気になることがあってもなくとも、俺の日常なんてこんなもの── ■□■
事実は小説よりも奇なりとは聞くけれど── 会社帰りにふらりと入った映画館で気になる相手と隣り合わせるだなんて偶然は、リアリティに重きを置く昨今の小説の中でもそうそうないのではなかろうか。 ましてや、暗闇の中でその相手に右手を握られるだなんてことがあれば、そんな小説はどんな大御所が書いた作品であっても駄作に違いない。 更に耳元で「あんた、ずっと俺のこと見てただろ」だなんて囁かれ、ついでに空いている右手で脇腹あたりをまさぐられ、ついには唇をかすめ取られるだなんて展開は、あったとしてもキオスクで売っている官能小説の中ぐらいなものだ。 そんな風に、およそ現実にはあり得ないようなことが起こりまくっていたにも関わらず、俺が考えていることときたら『あ、この口調、新鮮かも』だなんて、のんきにも程があると突っ込まれそうな──誰に?──ことだった。 だが言わせて貰えば、なにか思いもよらないことに遭遇した時に人間が考えることなんて、その事態には全くそぐわないことだったりする。 事実、俺の姉貴が友達んちで宅のみしていた時、急性アルコール中毒で倒れた友人が救急車で運ばれ、留守番をすることになった姉貴が同じく残った友人とまず最初にしたことは、とりあえず飯を食うことだったらしい。 それを聞いたときはなんて神経の太い女なんだと姉貴を軽蔑したものだが、結局は俺にも彼女と同じ血が流れていたらしい。 いや、そんなことをされながらも全く抵抗する気が起きずに、映画が終わる前にその場から連れ出され、のこのこ彼の家までくっついて来てしまっている俺ってば、姉貴よりずっと神経が太いのかも…… ともかく── こうして俺の日常は、空しくとも一応他人に語れるものから、充実しているけれど決して口外できないものへと変化したのである。 本当に、世の中なにが起きるか解らない── FIN
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