君の中で踊りたい


「ほぅ」
 酸素欠乏症になりそうな、週末の地下鉄からやっと解放され、多少は人口が分散された3番出口の階段で、僕は思わずため息をついた。
 途端。
「ハァーイ、加賀ちゃん。こんな処で会うなんてすっごい偶然。もしかして私のこと待っててくれちゃたりなんかしたの?」
 はしゃぎ声と共に背後から肩を叩かれる。
「みゆきちゃん。恥ずかしいから大声で人の名前呼ぶのやめてくれない。僕は別にあなたを待ってたりなんかしませんよ。第一、ここはあなたの最寄りの駅じゃないでしょうが」
 自意識過剰な物言いに、僕は地下鉄3番出口にて、二回目のため息をつきながら以上の台詞を言った。
「残念でした。一週間前からここは私の最寄りの駅なんです。ねぇ、これから何か予定入ってる?」
「いや、別に」
 小首を傾げながら問いかけてきた彼女に、可愛い、なんぞという感想を抱きながら僕は応えた。
「ラッキー。だったら呑みにいこ。引越祝いにおごってよ」
「いいけど、あんまり高いところは勘弁してよ。僕は薄給のサラリーマンなんですから。しっかし、どうしたの? 普段は幾ら誘っても断るくせに」
「いくら加賀ちゃんでも断ってばっかりじゃ、愛想つかされるかなって思って」
「いいえー、僕は気が長いですからね。いつまでも待ちますよ。じゃ、行こうか」
 本当のところ、今月は結婚式が重なったせいで、この誘いはちょっと苦しかったのだが、それよりも、彼女が引っ越したということの方が気になった。
 そう、彼女があの町を離れたという事実が。

☆     ☆     ☆

「こら、加賀っ、呑んでるか」
 バーのカウンターに乱暴な音を立てグラスが置かれる。彼女にしては珍しく、かなり酔った状態。
「はい、はーい。呑んでます。ねっ、みゆきちゃん、もう、帰ろう、送ってくから。家どこなの?」
「あたしの家尋ねてどーすんの?」
「どーすんのって送ってくて言ってるじゃない」
「やだっ、まだ帰らないもん。おにーさん、シーバス・リーガル。今度はロックで」
 がっくし。
 一気に脱力してしまったが、こっちを見て困った顔をしているバーテンに頷いて、僕も水割りを追加オーダーした。
「ねえ、加賀ちゃん」
「んっ」
「今日、家に来る?」
「行くしかないでしょ。みゆきちゃん、その状態じゃ一人で帰れないだろ」
 彼女の熱っぽい瞳にドギマギしながらも、平静を装って応える。
「んーっ、そうじゃなくて、泊まってくって聞いてんの」
「一晩中、僕に君の面倒みろって言ってんの? それ。もし、素敵な一夜のお誘いだって言うんなら歓迎しますけどね」
 彼女の本意はまだ読めない。ここは、冗談で返しておくのが無難と判断。
「さあ、どっちでしょう?」
「まあ、いいか。じゃ、出よう。どっちにしても送っては行くよ」
「加賀ちゃん」
「ん?」
「ごめん」
 低く、短く、発せられた彼女の言葉が、僕に家まで送らせることについての謝罪じゃないことは直感的に解った。
 一体、何があった──

☆     ☆     ☆

「いやーん、サイテー。ヒール折れちゃった。もぉいい、脱いじゃおー」
「止めた方がよくない? ここって、犬の散歩コースだよ」
 公園を抜けて彼女を送っていく途中。突然、靴を脱ぎだした彼女をとりあえず止めた。ここが犬の散歩コースなのは事実。
「家に帰って足洗えば大丈夫よ。ついでに踊っちゃおうかなー」
「げっ」
 本当に踊り出してしまった彼女の、僕は思わず後退る。
「……何故、バレエ」
 しかも、バレエ。しかし、酔っぱらいが調子に乗って踊っているのとは雰囲気が異なる。
「はあー、久しぶりにやるとやっぱ息上がるなあ。足もつりそう」
「やってたんだ」
「中学までね。才能ないからやめちゃった。でもね、やめたはずなのに、時々やってみちゃうのよ。あたしの……悪い癖」
「そういうもんじゃないの。僕だって時々竹刀の素振りとかしたくなるしね」
「へぇー、やってたの」
「小学生の頃ね。嫌々通ってた筈なのに、やらなくなると懐かしくなるんだなぁ、これが。だから、悪い癖なんて言い方よせよ」
「そうね。加賀ちゃんに比べれば、宴会芸になる分あたしの方がましかもね」
「ははっ、全く。もう、歩ける?」
「ん。何とかね。ねぇ、加賀ちゃん、ホントに泊まってきなよ」
「うーん。大変嬉しいお誘いだけど、何か弱みにつけ込んでるような気になるしなぁ。引っ越しの理由、平気で話せるようになってから、もう一回誘ってよ。彼氏に立候補しとくから」
「落選したら、チャンスはこれっきりかもよ」
「ははっ。その時は、死ぬほど後悔するさ」
「リップサービスじゃないことを祈ってるわ」
「そんなんじゃないよ。ああ、じゃあ、証拠あげるよ」
 ポケットの中から、それを取り出し、彼女に向かって放り投げる。
「えっ? これ……」
「合鍵。その気になったらいつでもおいで」
「加賀ちゃん、すっごく嬉しい。でもね……」
「でも、何?」
「あたし、加賀ちゃんち知らないの」
 一瞬間をおいて、二人同時に笑い出す。
「畜生、決まんねーな。どう頑張っても三枚目だって証拠だな、こりゃ」
「でも、これは返さないからね」
「OK、ちゃんと持っててよ。待ってるから」
 踵を返して帰路につく彼女の背中を見つめる。
 僕たちは、まだスタートラインにも立ってはいない。
 だけど、いつか君と──きっと。

FIN

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