『OASIS』
「緒方先輩! あの、これ、迷惑でしょうけど」
 三学期の初日の朝、登校してすぐに、下駄箱の前で同じ学校の女の子が、俺に手紙を差し出す。
 制服のリボンの色は緑、つまり1年生であるから、俺より2学年下だ。
「本当に迷惑だね。こんな時期、3年に手紙書くなんて。いらなよ、そんなの」
 受験勉強でピリピリしている3年に向かって、今頃ラヴレターなんて馬鹿げた行動だと思う。
 冷たく断ってやると、その娘は泣きそうになりながら、走り去って行った。
「お前ね、もうちょっと、振り方ってもんがあるんじゃないの」
 一緒に登校していた俺の友人、井上が呆れ顔で話しかけてくる。
「それを言うなら、あっちの方にも告白の仕方っていうのを要求してもいいと思うね」
「悪魔。どうしてこんな奴がもてるのかね」
「もてちゃいないさ。珍しがってるだけだ」
「もうちょっと、自分自身を信じろよな」
 これだけ言うと、井上はちょっと肩をすくめて、それ以上は何も言わなかった。
 って、言われてもね。適当なことしかやっていない俺が、もてる理由なんてこれくらいしか思い付かない。
 俺のフルネームは、エリック・緒方。名前だけでも判るように、純粋な日本人ではない。親父が日本人だから、日本名を名乗ろうと思ったら名乗れるのだが、母親が俺に自分の国の名前をつけたがったのだ。加えて外見の方も母親似で、眼は角度によりグリーン、髪は普段はライトブラウン、日に透けるとオレンジに見えるとあっては、水族館のラッコと同じ扱いをされてしまう。
 つまり、ハーフだからもてているというだけで、その辺の流行りみたいなものだ。
 学校の先生に到っては、眼の色についてはどうしようもないから言わないが、髪についてはことあるごとに黒く染めろと言ってくる。それこそ自然じゃないと思うのだが、大人の考えることは訳が解らない。髪の色と人間性は別問題ではないのでしょうか。不思議。
 ったく、人生面倒なことが多すぎるぜ。

■□■

「えっ、緒方さんって、ハーフなんですか?」
 数学の問題集から視線を移し、隼人が俺に問いかけてきた。
 大学受験も終わり、本命はともかく、滑り止めは無理のないランクにしてあるので、どっかには引っ掛かるだろうと、だらけていた俺に、親父がバイトの話を持ってきた。それが、こいつ、加々見隼人の家庭教師。
「お前な、エリック・緒方って名前聞いた時点で気が付かなかったのかよ」
「芸名かと思ってた」
「隼人、家庭教師するのに芸名使うバカがどこの世界に居るって言うんだ。たわけたこと言ってないで、さっさと問題解け。それが出来たら今日は終わりだ」
「ほんとっ」
 嬉しそうな笑みを浮かべ、隼人が問題集に取りかかる。中学生なんて単純で可愛いもんだ。
 しかし、本気で俺の名前が芸名だと思ってたんなら、こいつ、大物かもしれない。
「緒方さん、出来たよ。ねぇ、ちょっと、これ見て」
「解答がまだ終わってないぞ。まっ、数学は大丈夫か。どれ、何を見せるって言うんだ」
 隼人が本棚から引っ張り出したものを覗き込むと、それは、F1雑誌だった。
「俺ね、F1レーサーになりたいんだ」
 はじけるような笑顔に、俺の顔もつられてほころんでくる。
「F1ねー、そういえば俺もレーサーになりたいと思ったことがあったな。車は今でも好きだし」
 何気なく言うと、隼人は不思議そうな顔をして、俺を見上げた。
「どうしてレーサーになるの止めちゃったんですか。あんなに運転上手いのに」
「運転? 何言ってるんだ、普通だよあんなの」
 そういえば一回、隼人をドライブに連れて行ったことがあった。多分、その時のことを言っているんだろう。あんなまっすぐな道では、運転の上手い下手なんて関係ないと思うが、讃められると悪い気はしないから、人間なんて簡単な生き物だ。
 なぜ俺が高校生の分際で免許を持っているかというと、母親の運転手をするために八月の誕生日に合わせて運転免許を取らされていた、という訳。早々と免許取れたのはラッキーだったけどね。実際ここのバイトにも車で来ているし。
「ううん。上手い。信号で止まった後のギアチェンジ、注意してなかったらいつしてるか判かんないくらいだもん。絶対上手いよ。ねえ、どうしてレーサーになるの諦めちゃったの」
「どうしてって言われても……」
 隼人に言われてみて気付く。
 俺は、レーサーになることを、いつ諦めたのだろう。
「ただ、なんとなく、だな。いつのまにか、レーサーになるなんて考えもしなくなってた。夢は夢だから楽しいんだよ、きっと。もし、間違ってレーサーになれたとしても、あれはあれで大変そうだし、俺なんて飽きっぽいからすぐ止めちゃうんじゃないかな」
 冗談めかして言ったが、隼人は笑わなかった。笑うどころか、先刻より真剣な顔をして俺の方を見つめていた。
「緒方さん。この間、あるクイズ番組でやってたんですけ、プロ野球選手が、プロになって一番良かったと思うことの第一位って知ってますか?」
「いや」
 突然とんだ話についていけず、俺は眉を寄せた。
「好きな野球をやっていられることなんだって。それ見たとき、いいなって思ったんだ。そこまで好きになれるものがあるって素敵だと思いません? なりたくても実力が追い付かなくてなれない人も居るのに、緒方さんは違うじゃない。緒方さんにとってレーサーっていうのは手が届く夢だもん。夢っていうのは夢物語じゃなくて、手が届くから夢なんですよ」
 隼人が眼を輝かせながら話す。
 よく考えると、俺は中学生に説教されてしまっているのだが、そんなことは気にならなかった。なぜなら、隼人の言っていることはもっともだからだ。
 俺が、レーサーという夢を諦めて……否、忘れてしまったのは、努力してどうしようもなかったからなどではない。
 ただ、現実の世界に丸め込まれていただけなのだ。
「それに、俺がレーサーになったとき、緒方さんと優勝争い出来たら楽しいし」
「そうだな、楽しいかもしれないな」
 俺は本気でそう言っていた。
 隼人だってもう中学生だ。『僕の夢』という題名の作文にウルトラマンになりたいと書く歳でもない。はっきりした形にはなって見えてはいないだろうが、自分の夢に障害があることにも気付いているだろう。
 それでいて、隼人は自分の可能性に欠けているのだ。中学生にできることが、年上の俺に出来はない訳がない。
 そう思うと、何だか俺は胸のつかえが取れたような気がして、思わず隼人を抱きしめていた。
「おっ、緒方さん?」
「隼人、お前って、可愛い奴」
 この後、それはプロレスごっこに移動して行き、隼人の母親にたしなめられるまで続いたのである。

■□■

「井上、お前が始業式に言ってたこと、判ったよ。ご忠告感謝します」
 家庭学習期間も何事もなく去ってゆき、今日は卒業式。
 いつものように、井上と一緒に登校していた俺は、ふと思い出して、言ってみる。
「なんのことだ? ……ああ、自分に自信を持てってやつか。また、ずいぶん時間差攻撃な礼の言い方だな。何かあったのか?」
「ちょっとな。いいことだ」
 軽くウィンクして言ってやると、井上は、良かったな、とだけ言って先に歩き出した。
 ──今日、俺は高校を卒業する。
 これから、レーサーになるのか、それとも何か他のものになるか、そんなことは判らない。
 だが、あのまま隼人と出会わないで、ただなんとなく暮らしていっていたら、そのうち、本当に乾いた人間になってしまっていただろう。
 俺という人間が、何処までできるかは知らないが、そんな自分に掛けてみるのも悪くはない、今は、そう思っている。
 もし、挫折して、悲しくて、苦しくて、どうしようもなくなったときには、きっとまた誰かに助けられる。
 そして今、案外、それはまた隼人かもしれない、と、うそぶくほどには余裕もある。
 人間、生きてきた年数だけが価値じゃない。
 人を傷つけない範囲で、どれだけ自分の心に素直かが大切なのだ。
 信じられないことだが、隼人のあの説教は、こんなことを考えさせられるほど、俺の乾いた心の沁みたのだ。
 乾ききって、生物が何も居ないように思われる砂漠の中にも、どこかにオアシスがあって、旅人の渇きを癒してくれるように……

 ──人の中にもオアシスは存在する──

FIN
 

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