Flavor
 玄関のドアが激しく音を立てる。
 火村がこれみよがしに、大きな音を立ててそのドアを出ていった為だ。
 1999年夏──ノストラダムスの大予言の七の月。
 世界が滅亡する前に、私たちの長年続いた関係は、破局の危機を迎えていた。
 なんで──
 そもそも喧嘩の発端は、口外するのもはばかる程、あほらしいものだった。
 ──苺(酸っぱい)に何をつけて食べるか──
 議論するまでもない。練乳に決まっている。
 苺といえば練乳。だからこそスーパーの苺売り場には練乳も一緒に売っているのだ。違うか?
 私と火村が口論になることと言えば、大抵こういった低俗な話題についてだ。
 目玉焼きには何をかけるかとか、カレンダーは何曜日から始まっている物が使いやすいとか……。
 私も火村もいい大人なのだから、そんなものは個人の好みの問題で、他人と議論するものではないということは重々承知している。
 それが何故、無駄でしかない議論に発展するかというと、私が火村に言い負かされない事柄が──情けないことに──そんなこと位しかないからだ。
 だが、遊びに来ている火村のご機嫌が傾き過ぎて帰ってしまう程、白熱したのは初めてだ。
 しかし──
 敢えて神に誓ってやろう、今回の場合、絶対に変なのは火村の方だ。
 大体、火村の嗜好は普通な様で、妙なところで変わっているのだ!
 ああ、そういえば思い出した。
 確かに、火村が我が家から飛び出していったのは初めてのことだが、逆ならある。
 あの時は、私の方が北白川の下宿を飛び出したのだ──

※     ※     ※

 あっぷあっぷで乗り切った試験明け──まだ、レポート提出が2本ばかり残ってはいるものの──私は火村と2人、彼の下宿で祝杯をあげていた。
 結果もまだ出ていない今、祝杯も何もあったものではないが、学生にとって飲む口実なんていうのは何でもいいのだ。
 が、飲みに出るのではなく、酒とつまみを買い込んで宅飲みだというのが、学生の悲しいところか。
 ともかく、ダラダラモードに突入中だ。
「せやけど、杉下教授、今年から試験形態変えるなんて反則やん。追試にならんかったら御の字や」
「そういうの自業自得って言うんじゃねぇのかよ。アリスの試験対策は過去問の丸暗記だもんな。せめて講義中だけでも勉強してりゃ、そんな目にあわねぇんだぜ」
「たとえ講義中に内職しとらんでも、結果は一緒や。君と違うて俺は極々一般的な脳みその持ち主なんやっ」
「俺だって一般的な脳みその持ち主だぜ。別に人様と違ってカニみそが詰まっている訳じゃない」
「違う〜。カニみそが詰まってんのは俺の頭や〜。大学側はカニみそが詰まった頭で精一杯頑張った学生の努力を認める義務がある〜」
「はいはい。じゃあ、八丁みそや金山寺みそがつまった頭の学生も仲間に入れてやれよ」
「ネギみそも捨てがたい。俺、あれで3杯は軽く飯食えるわ」
「いつも不思議なんだが……。その細っこい身体の何処にそんなに食い物が入って行くんだ?」
「胃袋以外のところに入って行ったら化け物やんけ。ああ〜カニみそ食いて〜」
「共食いになってもいいのかよ」
「ああっ、今認めたなっ! 俺の頭がカニみそやって認めたな。友達やったら嘘でもええから否定しろや」
「アリス……。もう、酔ったのか? 俺にどうしろって言うんだよ」
「どうもせんでいい。単なる現実逃避や。どんなに努力したところで秀才は天才には勝てへんのや」
「そういうことは努力してから言えよ。偉大なるエジソンも言ってるじゃねぇか。発明は1%のひらめきと99%の努力だって」
「ま〜た、自分だけが何でも知ってるみたいな言い方しくさって。世界は不思議に満ちとるんや、正解がいつも一つとは限らん」
「ほほう。例えば」
 そう来ると思った。
 折良く私のジーンズのポケットには小道具が入っている。
 機会があれば火村に出題して、嫌がる顔を見てみようと思っていたクイズのストックもある。
「では、火村くん。君にクイズを1つ出そう。『コ』で始まって『ム』で終わるカタカナのものはなんでしょう」
「……………基本的に論点が違うじゃねぇか。中学生しか喜びそうにない問題を嬉しそうに出すなよ」
 案の定、火村は不機嫌そうに片眉をつり上げた。
 引っかけ問題だということは解っているのだろうが、1回その単語が浮かんでしまっては、咄嗟に他の単語は出はしまい。
「ごたくはいいから答えろや」
「コロシアム」
「…………………そういう単語が咄嗟に浮かぶところが、君の可愛くないところやねん」
「大学生の男にそんなもの求める方が間違ってる……あぁ、もう、そんな情けない顔すんなよ、酒がまずくなる。解った解った、こう答えて欲しいんだろ。そのものとはコンドームです。で、正解はなんなんだ?」
 火村──君の同情はなんて思いやりがないんだ。
 そもそも、思いやりがない同情なんてこの世に存在して良いもなのか?
「君の同情は却って胸にささるわ。俺以外の相手の時はせいぜい気ぃつけや」
「はいはい、仰せの通りに致します。で、教えろよ。アリスの用意したもう1つの答えってやつを」
「なんや、結構気になっとるんやないか。別にこのクイズは俺が作ったのと違うけど、答えはこれや」
 ポケットから半分程中身が残った小道具を取り出し、机の上に置いた。
「ああ、コーヒーガムか」
「そう、コーヒーガム。ああっ、問題に音引きが入るって付け加えとったら良かったんかっ!」
 思いつきに声を上げた私に、火村はあきれたように首を横に振った。
「問題の精度を上げるのは結構だが──アリス。その問題には大きな2つの難点がある」
「なんで?」
「1つ、大学生にもなってそんな問題を出して喜んでいるいるお前の人格が疑われる。2つ、音引きという言葉は多分一般には通じない」
「ええっ、音引きって専門用語やったっけ? せやったら普通は何て言うん?」
 私だってこんなクイズを出すのは多分これっきりだろうから、1つ目の難点はどうでもいい。
 だが、2つ目は大いに引っ掛かる。
「いや、音引きは音引きでいい。ただ、学校の教師でも『のばす記号』とか言ってる奴がいるからな。通じる確率は多く見積もって半々だ」
「一般常識やなかったんか……」
「音引きに関して言えば、一般常識といえば一般常識だけどな。どっちかっていうと、多分、アリスの一般常識が偏ってる」
「どういう意味や?」
「属性でいうなら、文章を書く人間と書かない人間の違いだな。あと、アリスの一般常識の中には推理小説を読む者特有のものがたくさんある。その他にもあるが、これが2つの大きな偏り。納得できましたか?」
「……できました。気ぃつけなあかんな、小説の中でそれやらかしたらアンフェアになる」
 しかし、これは逆に使えるかもしれない。
 とある場所では常識であることが、場所を変えると常識ではないだとか、うまくトリックに活用出来ないだろうか?
 アイディアをこねくり回しながら、何気なく目に付いたコーヒーガムを口の中に放り込む。
 舌の上に甘さが広り、コーヒーの香りが鼻から抜ける。
 甘い物を食べるというのは、なんだか脳に直接栄養が行っている様な気がして頭が良くなった気がする──もちろん、気のせいだが。
「よく、そんなもの食えるな」
 声に反応して、そちらに視線を向けると、心底嫌そうな表情をした火村の顔に出くわした。
「えっ? 火村これ嫌いなんか? せやかて君コーヒー党やろ」
「確かにコーヒーは好きだが、コーヒー味のなんとかっていうのは苦手なんだ」
「初耳やな。なんで? うまいのに」
「うまいと思えないから苦手なんだよ」
「解らんなぁ〜、君、ほんまはコーヒーそれほど好きやないんとちゃうんか?」
「真のコーヒー好き程、缶コーヒーは飲まないし、コーヒーガムも食わないと思うけどな」
「そうか〜、いつでもどこでもコーヒーがないと生きられへんって人間の方がコーヒー好きやろ」
「俺は量より質のタイプなんだよ。コーヒーに限って言えば」
「な割には、いっつもインスタントコーヒーばっかり飲んどるやん」
「ギリギリの妥協ラインがそこだってことだ。その証拠に、銘柄はネ○カフェ・ゴールドブレンドに限定してる」
「ショボいこだわりやな」
「ばか言えっ! こいつは滅多に安売りしねぇんだぞ。貧乏学生の最大のこだわりだ」
「大阪人に向かってばかって言うなっ! はんっ、余計なところに金かけるから貧乏やねん。君、煙草とコーヒー止めたらバイト1つ減らせるで。俺は煙草も吸わへんし、コーヒーもガムで充分や。ああ〜安うあがって良かった」
「安く上がった分、そのまま人間性も安いんじゃねぇのか? ああ、人間性が安いのは先刻のクイズで証明済みか」
「なんやてっ!」
「そんな子供のおやつみたいなもんばっかり食ってるから、あんなクイズで喜んでるんだろうが。ふ〜ん、なかなか興味深い研究テーマかも知れないな、食べ物が人間に与える影響。舌が子供だと思考も子供。卒論のテーマに選んでやろうかな。なあ、おこちゃまアリス。コーヒーガムなんて食べてたら、夜寝られなくなりませんか?」
「やかましいわっ!」
 もう、我慢の限界だっ!
 私は鞄を引っ掴み、缶に残ったビールを一気にあおった後、火村の部屋を飛び出した。
 あ〜〜〜〜っ、むしゃくしゃする。
 足下の小石を蹴飛ばそうとして、見事に空振り。道端の石にまで舐められる有様だ。
 勢いで飛び出してはみたものの、既に電車は無い。
 ヤケ酒を飲もうにも、近所にコンビニは無く、自動販売機は赤ランプの花盛り。
 けっ、公園で新聞紙かぶって野宿でもしろというのか。
 だいたい、その新聞紙でさえないではないかっ!
 せめて、土管はないのか土管はっ!
 冷静になって考えてみれば、捜し物の難易度的には土管の方がずっとレヴェルが上だろうが、そんな事実はどうでもいい。気持ちの問題だ気持ちのっ!
 ギリギリと奥歯を噛みしめて、ふと味の無くなったガムがまだ口の中に入っているのに気付く。
 マナーがなっていないのは百も承知で、道端にガムを吐き捨てようとした時、背後に駆け寄る足音が耳に届いた。
 振り向くまでもなく──なぜか──それが火村だと確信する。
「アリスっ!」
 私は振り返らない、振り返ってなどやるものか。
 なぜなら私は怒っているのだ。
 声を振り切る様に、前だけを見つめ歩き出す。
「アリス、おいアリスっ!」
 火村の手が私の手首を掴み、引き留める。
 その手を振り払い、私は再び歩き出した。
 君なんか知るもんか──
 確かに、先刻の口論は売り言葉に買い言葉というやつで、部屋を飛び出してしまう程深刻なものではなかったかもしれない。
 しかし、私は彼と対等でいたかったのだ──
 1度とならず聞いた火村の悲鳴──
 君が語らないなら、私は聞かない。
 だが、もしも君を苦しめるその何かに耐えられなくなった時、それを支える役目は私でありたい──
 その事実が、どんなに衝撃的なことでも、受け止められる人間になりたい──なりたかったのだ。
 先刻の火村に台詞は、私には「お前にそんな資格はない」と言われているように聞こえた。
「アリスっ! いい加減にしろっ」
 気付くと私の前に回り込んだ火村が、もの凄い形相で睨みつけいた。
 その視線に気押されて、私は歩みを止めた。
「何でそんなに怒る? 確かに俺の言葉も過ぎたが、いつものお前なら倍は返してくるところだろう」
 火村は私の肩をがっちり押さえて、問いかけた。
 跡が残るのではないかと不安になるくらい、火村の指先には力がこもっていた。
「なんともあらへん」
「なんともないわけねぇだろうがっ! 言えよっ!」
「子供やから──」
「はぁ〜っ」
「俺は子供やから、君の傍にはおられへん」
「何、訳の解んねぇこと言ってんだよ。あんなの言葉のアヤに決まってるだろうがっ」
「それでもや。口をすべらせるいうことは、ちょっとは思うとるゆうことやろ。君に言われて俺も気付いたんや。あそこまで子供扱いされることはないと思うけど、標準よりはちょっと子供かもしれん。子供ゆうのは残酷な生き物やから、いつか知らんまに君を傷つけるかもしれん。そんなことする自分を、俺は許されへん」
 これで納得してくれただろうと、私は火村の手を肩から外そうとした。
 が──
「違うっ──」
 痛い──
 火村の指が更に私の肩へと食い込み、そのまま塀に押しつけられた。
 逃れる間も無く、火村の乾いた唇が私のそれに重なった。
 荒っぽい口づけを終えた後、呆然とするばかりの私に向かって、火村は心の底から絞り出すように言った。
「アリス……。口をすべらせちまう相手なんて、お前以外に居ねぇんだよ──」
 聞こえるか聞こえないかギリギリのラインの小さな声で発せられた火村の言葉が、私の胸に刺さる。
 そして、思う──
 私は一生忘れないだろう、煙草とコーヒーの香りが漂う、この口づけを──

※     ※     ※

「ほんでもって、ほんまに覚えとる俺も俺やなぁ〜」
 一人暮らしが長いと身に付く悲しい癖、一人言を漏らしながら、テーブルの上にある、勢いあまって火村が忘れて帰ったキャメルに手を伸ばす。
 昔を思い出してしまったせいだろうか、今は無性に煙草の香りが恋しい。
 火村が置いていった残り香では足りない位に。
 煙草を吸うのは2ヶ月ぶりだろうか──
 ゆっくりと肺まで煙を吸い込むと、酸欠でクラクラする。
 いち・にい・さん・し・5本。
 火村が残していった煙草の吸い殻を何となく数えて居た時。
 玄関で物音がして、訝しがる間もなくリビングに火村が姿を現す。
 戻って来たのか──
 なんでまた?
「どうしたん? ようやく自分が変やって認める気になったんか?」
「ああ、何でもいいよ。ほら、これやるよ」
 火村がジャケットのポケットから何かを取り出し、私に向かって放り投げた。
 ナイスとは言い難い無様な恰好でキャッチし、掌の中の物を確認する。
「火村、これ──」
 確か、これは十年ほど前に製造が停止にされたのではなかったか?
「復刻版だとさ。煙草忘れたことに気付いてコンビニに寄ったら出くわした。これじゃ、帰ってくるしかないだろうが」
 苦笑と共に、火村は私の隣に腰を下ろした。
 運命というのは、こういうものなのだろうか──
 私と火村が喧嘩をし、どちらかが家を飛び出したなら。
 仲直りの為に必要なのは、煙草とコーヒーガムの香りが漂うキス。
 こんな奇跡みたいな偶然が起こりうる確率は、一体どれほどのものなのだろう。
 
 それはきっと──

 苺にマヨネーズを付けて食べる恋人を持つのと、同じくらいの確率──
2002. 12. 05

人様に差し上げて1月余りも経ってから、とんでもなくアホな間違いに気付いた作品。
その事実を先方に告白出来ないまま、天を仰いでいた時に、訂正の機会に恵まれました。
そうです、コーヒーガムは6文字だったんです。
こらっ、私を騙した音楽教師! 責任取れや(笑) 

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