1.呪われた赤い絆
「達哉?」
かけられた声に、達哉はのそりと顔を上げた。
「そろそろ僕は行くが?」
「ああ……気をつけて」
それだけ言って、達哉はぽすんと沈む。
昨夜あれだけ軋んだ音を立てたベッドが、今は無音で達哉を受け入れている。
――最低だな……。
思いながら、克哉は部屋を出た。
崩壊した世界。
もう、誰もいなくなった家。
兄が無駄な努力をしに外に出てから、達哉はとりあえず体を洗おうと立ち上がった。
つー、と足を伝う赤交じりの乳白色に、ふ、と笑う。
――なんて兄弟なのに、こんなことをしてるんだろう。
通常の世界では、背徳の行為。しかしこの壊れた世界では、互いを正気に繋ぎとめる少ない方法の内の一つ。
ああ、やってられない。
達哉は部屋を出た。
2.いまさら放せるわけもないのに
もう権利も義務もないのに、毎朝徒歩で港南署に顔を出す克哉は、そこで金にならないボランティアを続ける女性と挨拶を交わす。
彼女はかつて、克哉が助けたことのある女性で、名前は知らない。
建物が建て終えたと同時に崩れた港南署の、かろうじて残った部分で彼女が言う。
「これから、どうなるんでしょうか?」
そんなのは、克哉の方が聞きたかった。
ただ、確実なのは、もう二度と、弟を失えないという気持ちだけ。
今更だ。本当に。
今更――もう二度と、離れられない。
絶望の狂気は、こうして深まっていくのかもしれない。
3.君がいないと、
本当なら、一人暮らしの家があるのに、克哉は仕事にもならない仕事から、必ず実家に帰った。
そこには達哉がいて、少ない素材で食事を作る。
「兄さん、話がある」
唐突に達哉が言った。
良くない予感がした。
「なんだ?」
「行きたいところがある。明日から暫く、家を開けるから」
達哉の物言いは淡々としている。
「どこに?」
「……とりあえずは、七姉妹に行って来る」
「何をしに?」
「確認したいことがあるから」
確認したいこと?
確か、あの学園にある何とか言う岩から、どこかへ続く道が伸びていると聞いたことがある。
そこに行くのだろうか?
「……戻ってくるか?」
「予定では」
「確実にしろ。でないと……」
克哉は鋭い目で弟を見る。
達哉は――。
「判ったよ」
言って、小さく笑った。
ああ、何年振りだろう。達哉の笑顔を見るのは……。
4.手を離しても隣にいてくれますか?
家を出る時、兄が餞別と称して、父からの時計を渡してくれた。
「父さんから得たものは、これしかない。僕の大切にしていたものだ。失くすな」
言外に必ず持って帰って来いとのニュアンスがあるのを知って、達哉は頷いた。
「判った……」
「それから……」
克哉は少し口ごもる。「何?」
「……ずっといえなかったことがある」
「ん」
「僕はお前がどう思っていようと、達哉が好きだよ。ずっと前から」
は、と目を見開いた達哉は、次の瞬間には柔らかい笑みを浮かべた。
「……知ってた。いや、判った。俺も兄さんが……」
続きは笑みで誤魔化した。
達哉は手を振って外に出ると、街の残骸の中を歩く。
腕には父、隣には兄、そして背後には母の気配を感じながら。
だけど、達哉は一人きり。
5.この世界にも収まりきらないような愛を
あるかないかは賭けであった。
七姉妹学園の教室の一角にあった転移装置を使い、シバルバーの中に入る。
一歩一歩を踏みしめながら、まだそう遠い過去ではない道を辿る。
確かここで、舞耶がかに缶を出したのだったか。
思えば、達哉の手の上にもかに缶が乗った。
ここで願えば、もかしたら、世界は復興するだろうか?
思い、やめておく。
叶う願いと叶わない願いがあると、舞耶もそう言ったではないか。
ひとしきり内部を探った後で、達哉は足が竦む程の恐怖と後悔を抱えながら、最後の部屋に入った。
ここで、世界の滅びを見た。
ここで、最後の絶望を知った。
「示してくれ、俺の進むべき道を……」
問えば、姿が現れる。
「……残念だが……」
穏やかな声は、かつて彼らに別の道を示した人物の声。
今その声は、絶望を運ぶ。
「だが、この世界でも幸福は得られる。意識の問題だ」
行儀の良い答えに、捨てるように吐息した達哉は。
「あんた達の実験は終わったのか? それとも、この状態も観察対象なわけか?」
「今は違う……だが……祈っている。幸福を……」
溶けるように消えたフィレモンを見送って、達哉はなんだかおかしくなった。
げらげらと、腹の底から笑ってみる。
ああ、案外と世界は簡単なものなかもしれない。
もう道はない。そう悟った瞬間、何故か急に兄に会いたくなった。
きっと心配しているだろう兄。
世界とは、きっと、その存在ではなく、誰か想う人が存在しているということ。