真夜中にそれはやってくる。
ピンポーン。インターフォンの音。
確認するまでもなく、この時間にやってくるのはただ一人で。
「待っていたよ」
告げると笑う、かつてはなかった表情。
「時間通りだと思うけど?」
柔らかい笑みを浮かべるようになった、かつての無表情に、まだ違和感が拭えない。
「上がるか?」
「勿論」
ふさいでいた部屋の中への道。
開けると躊躇いなく踏み込んで来るのすら、以前と違う。
「前は躊躇っていたのにな」
「何が?」
不思議そうに振り返る顔に。
「僕にすら関わるのを躊躇っていただろう?」
かつて、世界をかけて戦っていた時に。
「あれは……」
良い淀む不安定な表情。これはかつて良く見ていた表情だ。
「判ってる。僕たちを巻き込みたくないという、お前の心持ちは理解しているつもりだ」
かつても、今も……。
「お茶を入れよう」
後を追いかけつつも、居間の辺りで方向を変える。
居間といっても、狭いマンションだ。猫の額程の広さしかない。
「ソファ、入れたんだ?」
「ああ、この前泊まっていった時にベッドから落ちただろう?」
「大変だったか?」
「まぁ……達哉は自分がどうして僕のマンションにいるのかも判っていなかったようだしな」
「だろうね……で、何でソファ?」
「僕がコレで寝れるようにな」
「俺がソファで良いよ」
「受験生に風邪は引かせられない」
達哉はコーヒー党。克哉は紅茶党。
二種類カップを用意して、温めた後で粉を入れる。
紅茶の方は最近はまっている、レモンティーの粉。甘みが足りないが、案外と美味い。
そういえば、と気まぐれに買ってきたケーキも出す。
お茶とお茶菓子をセットして居間に運ぶと、トレイに乗ったそれらを見て、達哉は苦笑した。
「変わらないな、兄さんは……」
「そうかな?」
「いまだに俺にケーキを出そうとするところが」
克哉は笑う。
「こちらの達哉はそれでも、ケーキが食べられるようになったんだ」
「兄さんの教育の賜物だな」
達哉も笑う。
そろそろ10分になる。
ソファに向き合って腰掛けて、何時ものように最初は他愛ない会話。
「そっちはどうだ?」
禁句に近い質問をぶつけてみる。
「まぁ、それなり」
「僕は元気か?」
「元気だよ。でも……甘いものが食べられなくなったんで、ちょっとイライラしているみたいだ」
「だろうな」
克哉は無類の甘党で、煙草を吸っているのが信じられないくらい、甘味を愛している。
「元気なら良いんだ」
「どういう意味?」
達哉がくすりと笑う。
克哉の言葉に秘められた意味なんて、たった一つしかない。それは達哉も判っているだろう。
「もう一人にしたくないからな」
呟くように言うと、達哉は静かに笑った。
良く笑うようになった。何が表情の変化をもたらしたのかは判らないが、きっと"向こう側"の克哉がうまいことやっているのだろう。
「ところで兄さん……」
「ん?」
「俺はもう、ここには来れなくなった」
「え?」
「"向こう側"と"こちら側"のパイプがなくなったんだ。こっちの俺の力があっても、俺はもう、"こちら側"には来れない」
「パイプって……」
"向こう側"の達哉が、再び"こちら側"に干渉出来るようになって、そろそろ一ヶ月が過ぎる。
寸前に、"こちら側"の達哉にペルソナ能力が宿り、"向こう側"の達哉をその身に呼べるようになった為、達哉は克哉に会いに来た。
勿論、他の誰にも言っていない。
「ベルベットルームが見えなくなった、同時に、俺達のペルソナ能力がなくなりつつある」
「どうしてだ?」
「さぁ。判らないけど……正直、"向こう側"は死に瀕した世界だ。生きていられるのが不思議なくらいの荒廃振りで、良い世界を作ってみせる、なんて大見得切った割りには何も出来ていない」
「達哉……」
「多分……"向こう側"は滅びるんだろう」
何とかならないのか、とは聞けなかった。
何とかなるなら、最初からその方法を試しているのに決まっている。
代わりに――。
「僕を"向こう側"に連れて行ってくれないか?」
そう言っていた。
「え?」
驚く達哉の表情に、殊更柔らかく笑いかける。
「人間はどうせ死ぬ。ならば、その時は達哉と共にいたい」
達哉はじっと克哉を見つめて。
「本当にそう出来るなら、そうしたいと思うよ、俺も……」
「なら」
「でも出来ない。俺は世界が滅びようとも、最後まで足掻くつもりだし、もしもその時がきたら、一緒にいて欲しいと思うのは、ずっと"向こう側"で共に苦労を分かち合った"向こう側"の兄さんだと思う……」
「達哉……」
「兄さんは好きな人だけど……"向こう側"の兄さんは運命共同体なんだ……」
恋人と仕事仲間は違う。
そんな風に言われて、克哉は首を振った。
「まさか、自分に嫉妬する日がくるとは、思わなかったよ」
「嫉妬なんて、する必要もないのに?」
「どちらも僕だからか? でも、この僕はお前と一緒の時間を、こんなにも限られていた。なのに向こうの僕は……」
「いるだろう? あんたにも、達哉が」
幸福な世界で、孤独から解放された達哉。
「兄さんの気持に、ちゃんと答えてくれる」
それは、きっと真実なのだろう。
だけど。
「最後に一度だけ、僕の願いを叶えてくれないか?」
真摯に告げた言葉に、達哉は躊躇いつつも、頷いた。
光を弾くソファに眠っているのは、達哉。
克哉がたった一人愛している弟には違いない。
一時間の逢瀬をそのまま過ごし、もう二度と会えない別れは、眠る前に済んでしまった。
もう二度と、会えない。
思っている克哉の視界に、達哉が目覚めるのが映る。
愛しい弟に、朝食の用意でもしてやろう。
身体に残っているだろう痛みは、どうやって説明してやれば良いだろうか?
そんな風に考えながら……。
しかし。
「兄貴……」
掠れた呼び声が、キッチンに向かう克哉を呼び止めた。
「おはよう、達哉」
「おはよう……じゃなくて!」
「どうした?」
早速追求がきたか? と思いきや、話は意外な方へ流れた。
「昨夜……俺としてた時…………言ってたのは、本当か?」
「え?」
してた時?
「達哉?」
振り向いた克哉の視線の前、達哉は頬を赤く染めている。
「だから……昨夜……」
昨夜は達哉に許しを貰って、初めて身体を繋げた。
最後だから、と、何度も何度も繰り返し互いの欲求を解放し――。
しかし、その相手は目の前の達哉ではないはずだ。
「……嘘、なのか…………?」
染まった頬が色を失っていく。
「ならなんで……俺となんて……」
答えないままに、誤解――?――は深まってく。
「達哉……」
制限時間は一時間。何時もはそうだった。
それに……。
――兄さんの気持に、ちゃんと答えてくれる。
脳裏に響く、達哉の声。
克哉は達哉の側にしゃがみこみ。
「本当だ……」
告げた。
「本当って……」
「昨夜、達哉としながら言った言葉は本当だ」
達哉はゆっくりと克哉の目を見て。
「じゃ、本当に俺を……?」
「ああ、愛しているんだ……ずっと、前から……」
告げておきたかったから、何度も繰り返した睦言。
アイシテイルのだと、そう、何度も何度も……。
告げる相手は違うけど。
きっかけを残してくれたもう一人の弟に、微かな感謝と憎悪を抱きながら。