かつては母上と、そう呼んでいた。
30を半分超えても衰えない容姿。まるでまだ、十代のような愛らしさを持った、今は国母。
数年前に知った事実では、自分が母と慕い、挙句女性として愛した彼女は、彼だった。しかも現キムラスカ王国国王のレプリカ。
成る程。だからなのか、招いた隣国の王は、国母と違わず今だ青年のような容姿を持っていた。
「本日はご足労頂き、ありがとうございます」
「こちらこそ、方々きな臭い中での会談、了承頂き感謝している」
「ところで……人払いをしておりますので、出来れば砕けてお話頂けましたら、嬉しいのですが――父上?」
「!?」
不意打ちに目を見開く隣国の国王を、笑顔で見やる。
鋭い視線が向き、その鋭さに一瞬怯むが、だが相手が実の父ともなれば、その心の向きは予想出来る。
何より大事なのは、この目の前に対峙する人物の最優先事項が、実の息子やマルクト帝国ではなく、国母として民衆の人気を集める人物であるということだ。
「前皇帝から聞いたか?」
「はい。全て聞き及んでおります」
「それで? その秘された事実を白日の下にさらすとの脅しかなにかか?」
「そんな馬鹿なことはしませんよ。これでも皇帝ですから。国を混乱に巻き込む――ルークを貶めるようなことは、しません。守ると誓い、愛すると宣言しましたから」
国王は嘲笑を浮かべる。
「己の母を愛するか?」
「母ではありません。前皇帝が亡くなった折、受け継いだものがあるのです。その中に彼――ルークのことも含まれていました。同意あらば愛するも良し。そう許可を頂いております」
「成る程な」
「それで、私も考えた末に、取り引きといきたい」
「取り引きだと?」
「ええ。今のマルクト帝国は脆弱でいてまとまりがない。皇帝の威信を持ってしても、今だ若輩でありますから、この座を狙って目を光らせる者が少なくはないのです。ですから、現状のマルクトと、恒久的和平を結んで欲しいのです」
「……ルークを守る為か?」
「ええ。彼は私にとって弱点に等しい。現に今も狙われ、将軍の護衛が外せなくなっています。予期したことですが、どうやらマルクトも国の限界を迎えているらしい」
だから、今は他国に咲ける余力はないのだ。
国内が荒れれば荒れるだけ、皇族の命の保証が頼りなくなっていく。そんな中で、ルークを守り抜くのはとても難しい。
「恒久的和平を結び、ルークを守る為であるならば、私は何でもします。それこそ、あなたに彼を預けることだって……」
「預ける……だと?」
「ええ。和平を結んで頂けるなら、彼をあなたの元に……そう、定期的にお貸しすることも、吝かではない。いかがですか?」
隣国の国王がルークと会えなくなって、もう何年になるか。それこそ会えないのだから体の接触などと言ったら、彼がマルクトにて大使をしていた頃に遡る。本当に昔の話だ。
餓えているだろう? ぎらつく目を現皇帝に向けるくらいなのだから。
前皇帝にルークを愛することを認められたことを告げた時、国王の目に宿ったのは明らかなる憎悪と嫉妬だった。
「……和平を、飲もう。だが、最低でも月に一度はキムラスカへ返せ」
「ルークはマルクトの国母ですが。それを返せと?」
「まだ父上も母上も生きておられる。ルークの両親でもある。彼らは、ルークに会いたがっている」
「しかしルークは、ファブレ家の子としては、抹消された存在ですが?」
「親子の情は、そんなものでは打ち消せない。愛情も、だ」
「判りました。その条件を飲みましょう」
あらかじめキムラスカの動きを制御することが、今回の目的だ。その為には手段を選ばない。
それに……。
ルークがマルクトにいない方が、不穏因子の排除はしやすいのだ。彼は優しすぎて、何でも許してしまうから。
「今日はお泊りになられますか? 明日、陛下と共にルークの帰郷が叶うよう、準備させます」
「厚意を受けよう」
「それでは部屋に案内させましょう。ルークとは、明日、でよろしいですか? 何分……」
「理解している。明日で構わない」
「では……」
国王を残して部屋を出ると、手を打って腹心のものを呼び寄せる。
「陛下を部屋に。護衛はキムラスカの騎士と共に十分に準備せよ」
「御意に」
マルクトに巣食った悪魔は、存外としぶとい。折角和平を結んだというのに、国王を害され不意になっては元も子もない。涙を飲んで、ルークを送り出すのだから。
国王には準備に一日かかると言ったが、実際のところ最初からキムラスカに送り出すつもりでいたのだから、とうに済んでいる。
一日の猶予は、ただ、ルークを忘れない為に己の身に刻み付ける時間が欲しかっただけ。
訪れる部屋は、王宮の中でも殆ど知られていない部屋。今のルークの部屋。
ドアの前に立つ、ルークに忠誠を誓う兵に、明日の出立準備をするよう命じ、人を遠ざける。
どうせ、中には将軍が一人いるのだから、護衛としては問題ない。
従順なルークの兵が姿を消し、ドアを開けて中に入ると、濃厚な甘い香りと、妖艶な声が聞こえてきた。
「お楽しみですか、将軍」
「……会談はお済みになられたのですか?」
「ええ。今。和平を了承して頂けましたよ。ルークの身と引き換えに」
「また、随分と高くつきましたね」
「ルークの為ですから、仕方ありません」
「今少しお待ちください。済ませますから」
「ごゆっくり」
近場の椅子に腰を下ろし、紗の向こうに揺れる影を見やる。
随分激しく致しているようだが、体は大丈夫だろうか?
高く引き攣れた悲鳴は、将軍の名を呼び――果てた。
全く、本当に狂ってる。
将軍と入れ替わりにベッドに乗り上げて顔を見れば、どこか諦めたような笑みが返る。
彼は気付いていない。前皇帝が死した後、息子と愛した者が己に乗ることはなくなると、そう信じていたらしい。というか、マルクトを追い出されると思っていたようだ。まさか国母になるなんてことは、考えていなかったのだろう。
「ルーク。アッシュが来てますよ」
「……え?」
「あなたを迎えに来ています」
ああ、口惜しい。これから確実に愛の営みに入ると言うのに、その名を聞いた彼は、酷く嬉しげに微笑んだのだ。
「……そんなにキムラスカに帰りたいですか?」
「え? いや……俺にはもう、帰るところなんて……」
唯一帰れる場所だったところは、前皇帝の死と共に失われてしまったのだから。
だが、そう思っているのは、当のルークだけである。
「でも、帰るのは一時的なことですよ。月に一度だけ、あなたはキムラスカに帰る。あなたのオリジナルの元に……それ以外は、このマルクトにいてもらいます」
皇妃を唯一とした皇帝は、もういない。だが、今の皇帝ですらもまた、同じ人物をただ一人として愛する。
狂った系譜。
「愛してるんです、ルーク……」
見下ろすのは、母であった人。だけど、今は母とは思えない。母の器も持たない。
既に将軍と交じり合った体は柔らかく欲望を受け止めるだろう、伸ばした手に、抵抗はなかった。
「……俺も、愛してるよ……マーク……」
懐かしい名を呼ばれ、それでもその名を捨てたのは随分と昔のことだ。そう、彼と彼女として愛しいと思った時に。
互いに向ける愛の形は違うけれど、でもこの関係だけは、止めることが出来なくて。
「キムラスカから、戻ってきてくださいね。あの人に独占されるなんて、俺が、あなたを許せなくなる……」
「戻ってくるよ。だって、俺の居場所は、ここなんだろ?」
「そうですね」
ルークの帰る場所は、彼が唯一愛した人間の側。今は墓の中に眠る、永劫幸福を手に入れた前皇帝の傍ら。
身を焼く嫉妬を胸に、かつて息子と呼ばれた青年は、母であった人に、欲望の杭を打ちつける。
乱れるその姿も、愛らしい微笑みも声も、全てが自分一人のものであったなら良いのに……。
溺れる者達は、皆が皆して同じ想いを胸に秘める。
それはとても甘美な狂気に似て――。