「…寒い。」 暖房の効いた図書室を一歩でると、廊下の空気の冷たさが襲ってくる。 時計を見ると、最終下校時間まであと5分。 もう少し、残っていようか。 そうしたら、きっと“彼”に会える。 眉間に、きつく皺を寄せて。 綺麗な顔が勿体無い、といつも思う。 正直に言ったら、眉間の皺が深くなるから言わないけど。 だって、毎朝、眼の保養に利用させて貰えるんだから。 どうせなら、ずっと見られれば良いな。 二年生も、もう終わる。 三年生も、彼の担任するクラスになれれば良い。 彼のクラスにならなくても、数学の担当が替わらなければ良い。 授業中は彼の顔を堂々と眺めていられるから。 黒板を見ている振りをして、彼を見ていられる。 ちらっと、時計を確認する。 あと3分。 下駄箱までの短い距離を、ゆっくりと歩く。 あと2分。 下駄箱を開けてしまえば、昇降口はすぐそこ。 昇降口から校門までは少しある。 革靴に履き替えてから、外に眼をやって初めて気づいた。 雨。 叩きつける様な、強い雨じゃなくて。 全てを包み込む様な、柔らかい雨。 それでも、この季節に濡れて帰るのはちょっとまずい。 鞄の中身を確認して、折りたたみの傘がないことに気づいた。 思わず舌打ちをしたくなるけど、しない。 聞かれたくない。 舌打ちの代わりに、ため息をついた。 「。 今、下校か? 早くしなさい、もう最終下校時間は過ぎている。」 声をかけてきたのは、彼じゃない人。 「そうしたいのは、やまやまなんですけど。 傘がないんです。」 「職員室に、予備の傘がある。 貸してやるから、来なさい。」 「わかりました。」 もう一度、下駄箱から上履きを取り出して履く。 踵を踏み潰さないように、人差し指を入れて。 本当は、彼が現れるのを待っていたかったのだけど。 職員室に行けば、会えるかもしれない。 会えたら、一緒に帰ろう、と誘ってみようか。 職員室だから、名前を呼ぶわけにはいかないけど。 最近、考えること全てが、彼に繋がっている。 それに、気づいたのはいつだったろう。 彼の課外授業を楽しみにするようになったのは? 「。 今、帰りか?」 彼だ。 「氷室先生。 傘が、無いんです。 送って頂けませんか?」 きっと、今の氷室先生の顔を奈津実が見たら驚くだろうな。 うっすらと赤く染まった目元。 私が好きな氷室先生の顔。 「・・・傘が無いなら、仕方がない。 ついてきなさい。」 「ありがとうございます。」 照れているときに、目線を合わせないように、斜め下を見る癖。 怖いくらいに、まっすぐ合うはずの眼を合わせない様に。 解りやすくて、可愛い。 言えば、「教師をからかうんじゃない」、とか言うんだろう。 動揺したときの、上ずった声。 私以外に、この声を聴いた人がいるのかもしれない。 そう思うと、嫉妬してしまう。 それでも。 今、彼の隣を歩いているのは私。 そうやって、小さな幸せをかみ締めて。 残り少なくなってきた、はばたき学園(ここ)での生活を過ごそう。 できれば、卒業式の日にでも告白をして。 理想としては、彼が告白をしてくれることだけど。 きっと、無理だから。 「。」 「はい。」 「次週日曜、君を博物館に連れて行こうと思う。 予定は、空いているか?」 「日曜は、いつでも空いてますよ。」 だから、いつでも誘ってください。 彼が、この言葉の意味に気づいてくれますように。 それが叶ったら、どんなに素敵なことだろう。