祈り



 夜空を覆う薄い雲を風が追い払うと、冷たく冴えた光があざやかに月を照らし出す。
 その月光の下、長く黒い髪をたなびかせた闇の化身クラヴィスは、遠い星々に何かを求めるように視線を彷徨わせていた。
 気付かぬうちに力を込めたのか、テラスの手すりを掴む指先が蝋のように白さを増している。

「オスカー…」

 切な気に名を呟くと、小さくため息を吐く。

+ + + + +

 炎の守護聖が視察へ赴き、一週間が過ぎていた。
 視察を知らされた時、『ご苦労な事だ』と単純に思うだけで、『二週間も会えないなんて地獄ですよ』と嘆く彼に『大袈裟な』と呆れさえしていた。
 しかし、自分の浅はかさを初日から思い知ることになる。

 想いを分かち合ってから恋人の初めての不在。
 当然ながら食事をするのも一人、眠るのも一人、散策も一人。
 長い年月馴染んだ生活のはずが物足りなくて、人恋しいような淋しくてならない。
 だからと、他の者と過ごしても癒されるはずもない。
 彼でなくてはならないのだ。
 常に傍らに存在した彼は、いつの間にか日常の風景へと溶け込んでいたから忘れかけていたのかもしれない。
 愛する者と過ごす時間の貴重さを今更ながら痛感する。

 唯一の慰めは、律儀な彼らしく遠い辺境から毎夜寄越されるナイトコール。
 だが、欠かされることのなかった連絡が昨夜から時間を過ぎても来ない。
 眠れぬまま朝と夜を迎え、さすがに疲労と倦怠感を覚えたがオスカーを想うと眠る気になれなかった。
 非常事態が起こったのかと心配になり杞憂と思いつつ、彼のサクリアを星々の合間に探し求めた。
 結果、炎のサクリアの異変を感知することなく安堵したものの、今度は、それならば何故連絡が来ないのかと気に病んでしまう。
 自分から連絡を入れようかとモニターの前に何度か座ったものの、いざとなると緊急の要件があるわけでないのに何を話せばいいのかと思い悩み、結局スイッチを押す事が出来なかった。

 たかが二週間の視察、一日連絡が来ないだけで強い寂寥感が襲われた事にクラヴィスは、自嘲の笑みを洩らす。
 オスカーは、忙しい最中かもしれない、疲れて寝入ってるかもしれない。
 『会いたい』『話したい』だけで彼の執務や睡眠を妨害するような真似は、自分本位な気がして躊躇ってしまう。

「連絡のできぬ日もあるだろう…遊びで行っている訳ではないのだから」

 悩むだけで行動に移せない自分を慰めるように、言い訳じみた台詞がつい口を出る。

+ + + + +

 もう一度夜空を仰いだその時、室内から高い金属音が鳴り響いた。
 待ち望んだコールに反射的に踵を返すと、足早に室内に戻る。書斎に設置された連絡用モニターに呼び出しの赤いランプが点滅していた。
 クラヴィスは、椅子に深く腰を掛けると息を整え、ゆっくりとした動作でスイッチを入れる。
 数秒後、画面に紅蓮の髪、蒼色の瞳のオスカーが映し出された。
 視線が合うと、互いに言葉もなく自然に微笑みが浮かぶ。
 しばらく見つめ合っていたがオスカーは、照れ隠しのように咳払いすると表情を引き締めた。

『こんばんは、クラヴィス様。昨夜は、時間が取れなかったもので連絡することすら叶わず、申し訳ありませんでした』
「気にするな。そのような時もある。遊びで行っているのではないのだからな」
『そう言って下さると、安心します。今夜も会議が長引いてしまったので遅くなってしまい……ひょっとして起してしまいましたか?』
「気遣うな。このような時間から眠るとでも?」
『確かに。相変わらずの夜更かしですか?』
「そういう事だ」

 困ったように苦笑を浮かべるオスカーにクラヴィスは、先程までの寂寥感を微塵も感じさせない穏やかな表情、口調で何事もなかったように会話を進める。
 彼からの連絡があった。それだけで、心の空白が埋まり満たされた想いが溢れる。
 だが、すぐに恋人に疲労の色を感じ取り心配そうに眉をひそめた。

「疲れているのだろう? そのような時に無理に連絡することはない」
『お心遣いありがとうございます。しかし、あなたの姿を拝見しないと、とてもじゃないが眠れそうにない』
「では、これで目的を達したであろう? もう遅い、明日に備えて眠れ」

 オスカーの体調を考慮すれば、早めに切り上げてやらねばと労わる気持ちも真実だが、もっと声を聞きたい、話したいと願う相反する気持ちも真実。
 どちらかを選ばねばならぬのなら、自分の我を抑え彼を休ませる事を選んでしまう。

『あなたがそう仰るなら、今夜は寝ることに致しましょう。また、明晩に連絡を入れます』
「私を気遣う事などない。休める時に休むことだ。よいな?」
『わかりました。では、おやすみなさい』
「おやすみ」

 オスカーが優しい笑みを作り消えていくのをクラヴィスは、やわらかな笑みで見つめた。
 しかし、モニターが完全に黒く染まると同時に、暗く沈んだように深く長いため息を吐き出す。

「本当は、もう少しおまえの声が聞きたかったのだが……」

 画面に語りかけると、指先を伸ばし先程まで恋人を映し出していた輪郭を追うようにそっと撫でた。

+ + + + +

 日頃から『もっと我儘になって下さい』と言われるが、どこまでの範囲なら許されるのだろうか?
 淋しい。もっと話していたい。おまえに会いたい。
 言いたくて言えない言葉。
 そう伝えたところで、会えるはずもなく困らせるだけだろう。
 ならば、できる事は、心配症の彼に心置きなく執務を遂行させてやること。
 物分かりの良い振りで大丈夫だからと安心させてやり、疲労の回復に少しでも早く眠らせてやること。

 自分勝手な想いをぶつけて嫌悪されたくない。
 失いたくないから負担になることを避けなけなければ。
 愛されている自覚があっても不安でたまらない。
 私が想うほどおまえも想ってくれているのだろうか?
 おまえを想う限りこの不安はつきまとうのか?
 考えた所で埒もないか……
 せめて夢の中でおまえに会えたなら……

+ + + + +

 クラヴィスは、力なく立ち上がり寝室へ向かうと、身体を投げ出すように寝台へ倒れ込む。と同時に、睡魔に支配された。
 どれほど時間が経過したのか、不意に今此処にあるはずのない暖かなサクリアに包み込まれている事に気付き飛び起きた。
 目の前で寝台に腰掛け見守るように自分を見つめる彼を認めて、信じられない面持ちで凝視する。

「お目覚めですか?」
「オスカー……何故?」

 夜も明けていない闇の中であり、彼が辺境から帰還するのは時間的に不可能であった。だが、このオスカーは本物だとも直感する。
 そして、不意に何かを察したように表情を崩した。

「これは、夢か?」

 オスカーは、頷くとクラヴィスの腕ごとを身体を引き寄せ肩を抱き、耳元へ囁く。

「会いたくてたまらなかった。一日連絡できないだけで狂いそうでしたよ。なのにあなたときたら『寝ろ』ですからね。まあ、俺を心配してくれての事だと分かっているから、心配を掛けないようにと大人しく従いましたがもっとあなたの声を聞きたかった」
「すまぬ。私も話したかった……だが、疲れているおまえを休ませてもやりたかった」
「俺にとっての疲労回復は、あなたとの時間です。あなたとの逢瀬が活力を与えてくれる」
「私とて同じだ。おまえといるだけで何もかも満たされる」

 オスカーの身体から伝わる力強い鼓動。それだけで安心と安らぎを得る事が出来るのだから。

「よかった。俺が想うほど想われていないのかと。淋しい思いをしていましたから、せめて夢の中でもいいから会いたいと祈りました。あなたも俺に会いたいと祈って下さったのでしょう? 互いの想いが一致したからこそ、こうして会える事ができた」
「おまえも会いたいと思ってくれていたのだな」
「あなたよりも想いは、強いと自負します」

 恋人の台詞にクラヴィスは、クスクスと笑い声を洩らした。

「それは、どうかな? 私の方が強かったかもしれぬぞ」
「それならそれで大いに喜ばしいことです。あなたにそれほど想われていると、自惚れるだけですから」

 クラヴィスは、オスカーに身体を預けるようにもたれかかると、肩に額を乗せ吐息を吐くように呟く。

「ああ……自惚れてもいい。本当に会いたかったのだ。おまえが傍にいないと淋しくてやりきれぬ」
「あなたがそのように仰るのは、初めてですね」
「言いたくとも言えなかった。これは、夢だから素直になれるのかもしれぬ」

 オスカーは、肩を抱く右手の指に触れる艶やかな髪を絡ませながら、優しく問い掛けた。

「何故、言えないのですか?」
「言ったところで会えぬのに困らせるだけだ。私の我儘にすぎぬ」
「困らせてもいいからもっと仰って下さい。一日でも早くあなたに会えるようにと、もっと頑張れますから」

 安心させるように微笑むオスカーにクラヴィスは、弱々しく首を振る。

「そのような事をすれば、おまえが身体を壊すではないか?」
「鍛えていますので少々の事では、壊れませんよ」
「無理をさせたくない」
「大丈夫です。あなたには、もっと甘えて欲しい、頼って欲しい。恋人の我儘を聞いたり叶えたりする楽しさを俺に味合わせて下さいませんか?」

 クラヴィスは、楽しげに頼むオスカーの様子にようやく安堵したのか、小さく笑った。

「そのような事をすれば手がつけられぬやもしれぬぞ? 良いのか?」
「望むところです。ご存分に」

 オスカーは、左手の指をクラヴィスの右手の指に絡ませるように握りしめると、自分の口元に運び一本一本に口づける。
 恋人の動作をくすぐったそうに見つめていたクラヴィスも自分の肩を抱く手を外すと、同じように口元に運び愛しげに手の平に唇を押しあてた。
 そして、真似るように指に口づけながら時折悪戯のように甘噛みを始める。
 滅多にない恋人の行動にオスカーは、驚いたように動きを止め顔をほころばした。

「本当に今夜のあなたは、俺を嬉しくさせてくれますね」
「たまには……な。夢だから……」

 クラヴィスは、気恥ずかしそうに困ったようにオスカーを見つめる。

「愛しています。あなたが愛しくてたまらない」
「私も…」

 『愛している』とクラヴィスは、最後まで言う事ができなかった。強く抱きしめられながら押し倒され、激しい口付けが襲う。
 一週間振りの口づけに眩暈のような飢えを感じずにいられなかった。
 唇が離れるとクラヴィスは、両手をオスカーの頬に添え潤んだ瞳で見上げる。

「オスカー、もっと……」
「あなたの望みのままに」

+ + + + +

 言葉のままに夢の一夜が明けた。
 目覚めたクラヴィスは、身体を起こすと前髪を掻き上げ疲れたように息を吐く。

「夢にしては、生々しい」

 オスカーの唇、指、奥底で息づく熱い鼓動の余韻、甘い囁きさえ耳に残っていた。至福に満たされた身体が真実を物語っているようで。

「それとも……あれは、夢であって夢でないのか? たとえ夢であったとしてもこの至福は真のもの。おまえも同じ夢を見たと信じよう。我らの想いは一つなのだから」

 オスカーの感触を逃さないかのように両腕で身体を抱きしめた。
 その夜からオスカーからの交信が途絶えた。しかし、先日のように寂寥感に見舞われることもなくクラヴィスは、帰還の日を待ち続ける。
 夢の中でオスカーが言った言葉を信じて。

『一日でも早く帰れるように執務に専念します。淋しい想いをさせてしまいますが、許して下さい』

 数日後、オスカー帰還予定の前夜。

 クラヴィスは、人の気配に覚醒を余儀なくされた。頬をなぞる指の感触にゆっくりと瞳を開き、映された人物を認めた瞬間、口元をほころばせ彼を抱きしめる。

「お約束通り、一日早い帰還となりましたよ」
「待っていた。お帰り……オスカー」

END

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