執務室に扉を叩く音が静かに響き渡る。 書類を眺めていたクラヴィスは、顔を上げる事もせず面倒臭さ気に入室を許可した。
「…入れ」 「失礼致します」
聞き慣れた声に顔を上げると、生真面目な顔をしたオスカーが歩み寄り、更に机を回り込むと目前に書類を差し出す。
「ジュリアス様からの書類をお持ち致しました。今日中にとの事です」
「わかった。ご苦労であったな」
クラヴィスは、無表情で抑揚のない口調で答えると、書類を受け取ろうと手を伸ばした。しかし、書類は、手渡されることなく机に置かれる。
その動きを追っていた視線が細められ、訝しげにオスカーを見上げた。
「おまえは、私に渡すのが嫌だとでも言いたいのか?」
クラヴィスがため息を吐きながら行き場の失った手を引こうとした瞬間、オスカーの腕がその手を掴み身体ごと引き寄せ、間近に紫水晶の瞳を覗き込む。
「それだけ…ですか?」 「どういう意味だ?」
「労いは、言葉でなく態度で表して頂きたい。と」
表情を崩し悪戯っぽく笑いかけるオスカーの台詞に、クラヴィスは呆れたようにため息をつく。
「たかが、書類を持って来たくらいでか?」 「いいではありませんか? こうして昼間に堂々と会えたのですから」 「…仕方のない奴だ」
クラヴィスの表情が、執務用から恋人へのやわらかな微笑みに変化する。そして、両腕を伸ばすとオスカーの首をかき抱き、唇を合わせた。
ついばむように触れるだけの軽い口づけが物足りないのか、焦れたようにオスカーは、恋人の細い腰を強く抱きしめながら机に押し倒す。
歯列をなぞり舌を絡め、貪るように深く合わし吸い上げた。徐々にクラヴィスの口内を犯す激しいものへと化す。
甘い吐息が漏れ出すと、オスカーは、唇を離し、首筋、鎖骨へと舌を這わせていった。
しかし、すぐにクラヴィスに両肩を押し返される。
「これ以上は、許さぬ」 「やはり? このままムードに流されて下さればよろしいのに」
不満を言いながらもオスカーにしては、潔く身を引く。さすがに昼間の執務室、ジュリアスの使いの途中である事が欲望を制止させていた。
「では、今夜、お伺い致します」
クラヴィスは、承諾の言葉の代わりに微笑むと、掠めるように口づける。
「もう、行け。うるさい奴が待っているであろう?」 「お名残惜しいですが、今夜再び、お目にかかれることで納得させましょう」
オスカーは、クラヴィスを軽く抱きしめ、何度目かの口づけを交わすと部屋を後にした。
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「ジュリアス様、クラヴィス様に書類をお渡しして参りました」 「ご苦労で… !!」
『あった』と続く筈のジュリアスの言葉が途切れた。表情を硬くしながら自分を見つめる上司に、オスカーは訝しげに問い掛ける。
「何か?」 「そなたに行かせたのは、間違いであったな。昼間から…」
オスカーは、ジュリアスの言いたい事を瞬時に察した。
「誤解です!お咎めを受けるような事などしていません!」 「誤解? では、その香り?」 「香り?」
オスカーは、袖の匂いを嗅ぎ、白檀の香りを纏っている事に気付き、思わず声を洩らした。ついさっきまで、抱擁を交わしていたせいか、誤解されても仕方ない程に残っている。
「執務中だ。仲が良いのは結構だがわきまえよ」 「申し訳ありません」
ジュリアスの苦々しい口調や視線を浴びながらもオスカーは、白檀の香りがクラヴィスが傍にいるような錯覚を覚え、笑みを隠せなかった。
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夕刻、リュミエールがクラヴィスの執務室を訪れる。
「今宵、ハープの音をいかがでございますか?」 「…今宵は、かまわぬ」 「そうでござますか…」
クラヴィスは、理由を告げる事もせず、素っ気無く申し出を断り、仕上げた書類を手に取ると立ち上がった。
リュミエールは、脇を通り過ぎるクラヴィスに違和感を覚え、思わず呼び止める。
「香を替えられましたか?」 「いや…何故だ?」 「いつもと違われたような気が…致したものですから」
クラヴィスは、ほのかに漂う薔薇の香りに気付き、忍び笑いを洩らした。
「オスカーか…」
小さな呟きをリュミエールは、聞き逃さない。胸中穏やかならぬ感情を抱いたが、表面に出す事無く、静かにクラヴィスの後姿を見送った。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ その後、ジュリアスの元へ出向いたクラヴィスは、小言と皮肉をうんざりするほど聞かされ、リュミエールに探されたオスカーは、にこやかな笑顔で厭味を味わう事になる。
たかが抱擁と口づけでこうまで言われるのならと、次から最後まで行う決意を固めたオスカーに対し、今後執務中に一切触れさせぬと心を決めたクラヴィスであった。
だが…オスカーが押し切ったのか、それともクラヴィスが押し切られたのか、真昼の移り香がなくなることはなかった。
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