「…想像通り、昴さんのイク時の顔は綺麗だったなぁ。ぼく、興奮しちゃいました。写真に撮っておきたかったくらい」
自分の手の平を汚した白濁液を眺めながら大河が笑う。
…死んでしまいたい。
「匂いとかってやっぱり変わらないんですね。…当たり前か。でも昴さんのだから、何だかいい匂いがしそうな気がして」
顔に手を近づけて匂いを嗅ぐ彼を痺れる頭で見つめる。
もうどうでもいい。
屈辱的には違いないが、ようやく悪夢が終わったのだ。
だが、次の台詞を聞いて僕の心臓は凍りついた。
「じゃあ今度はぼくの番ですね」
「何…だと……」
「昴さんのここも、可愛がってあげないと」
べたべたしたままの手が、僕の肛に触れる。
「やめろ…!正気か大河!!」
ほとんど悲鳴のような声で叫ぶ。
「もちろんですよ。昴さんが男の人か女の人かわからなかったから…ぼく、必死に勉強したんです。こういう時のために」
「……」
「大丈夫ですよ、慣らせばちゃんと入るって書いてありましたから。ほら、丁度いいでしょう?」
大河の指が、押し広げるようにして中へと侵入してくる。
身の毛もよだつような嫌悪感に、吐き気がこみ上げた。
おぞましい。
汚らわしい。
「うわ…凄い、狭い。こんな狭いところに本当に入るのかなぁ」
「や、だっ……やめろ!!」
無我夢中でもがく。
なりふりなど構っていられない。
どんな事をしてもここから逃げ出さねば。
「昴さん!そんなに動いたら…」
「離せ!離せ!」
動いた拍子に大河の指が抜けるのを感じて心の隅でほっと安堵をしながら更に身を捩ろうとした時。
「……っ!!」
急に手を離され、よろめく。
膝にもつれるズボンに足をとられながらも出口へ向かって駆け出そうとする僕の腕を大河が掴み、地面へと叩きつける様に押し倒した。
苦しい。
カーペットの上とはいえ、床に叩きつけられた衝撃で息が出来ない…。
それでも必死に身を起こそうとすると、僕の上に馬乗りになるような姿勢で大河が僕を見下ろしていた。
「ちょっと手荒にしてごめんなさい。でも、こうでもしないと昴さん、大人しくしてくれなそうですから…大丈夫ですか?」
「…大河……」
憎しみを込めた眼差しで彼を見る。
「大丈夫なわけ、ないだろう…こんな事を、して……」
「ちょっと待ってて下さいね。動いたらダメですよ。一応、逃げられないようにはしますけど」
大河が僕の両腕の後ろ手に回しスーツとシャツを手首の部分まで脱がせると、その上で横に落ちていた僕のネクタイを拾い、服の上から縛り上げる。
まるで罪人を拘束する手枷のように。
さすが軍人というべきか。念のために腕を動かそうとしたが指先しか動かなかった。
「足も…必要か。ちょっとだけ我慢してくださいね。すぐ解きますから」
彼はそう言うと自分のネクタイを解き、ご丁寧に僕の足まで縛り上げた。
…これでは身動きが出来ない。
自分の情けない格好に涙が出そうだった。
「じゃあ、ちょっと待ってて下さい。…すぐ戻ってきますから」
そう言ってキッチンへと消える大河。
……彼は一体何をしに行ったのだ。
すぐにその答えはわかった。
…わからないままの方が幸せだったが。
「お待たせしました、昴さん」
大河の声に頭上に視線を向けると彼が持っていたのは料理用のオリーブオイルだった。
「…?」
僕が怪訝な顔をしたせいだろうか。
彼は膝を屈めると僕の目を見ながらにっこり笑った。
「本当はローションとかがあればいいんでしょうけど、これで我慢してくださいね。昴さん」
「……!!」
その言葉に全てを察する。
恥辱で顔が青ざめ、唇がわなわなと震えた。
「じゃあぼく頑張ります。昴さんが、楽しんでくれるように」
大河がくるりと僕の後方に回り、足の戒めを解く。
膝の辺りで止まったままだったズボンと下着は踝の部分までおろされたのは僕が逃げようとしても逃げられないようにする為か。
彼は僕の腰の下に手を入れると僕の膝を立たせ、下半身を浮き上がらせる。
…羞恥に目をきつく瞑る。
抵抗する気もだんだん失せていた。
ただ、はやくこんな悪夢が終わればいいとだけ願いながら。
「ちょっと冷たいかもしれませんけど、我慢してくださいね」
瓶の蓋を開ける音に液体がとぷとぷと流れる音。
耳を押さえたくとも両手は戒められたまま。
「ひっ……あぁっ!」
大河の指と、ぬるぬるして冷たい液体が、さきほど大河が触った場所に触れた。
肛に触れたのは一瞬で、周りにも丹念に塗りたくるように大河の指が動く。
「……っ……」
思わず漏れた声が悔しくて唇を噛んで耐える。
身体の震えは止めようとしても止まらなかった。
「こんなもんかな。じゃあ、挿れますよ」
ぐっと押し広げられ、彼の指が再び肛内に侵入してくる。
「う、ああぁっ……!」
嫌悪、羞恥、恐怖。
ないまぜになった感情が頭をぐちゃぐちゃにする。
嫌だ、嫌だ、嫌だ。
こんな事は望んでいない。
前世とか、現世とか関係ない。
こんな事は嫌だ。
「…昴さん。やっぱり痛いですか?ごめんなさい、我慢してくださいね…」
彼が指を止めぬまま僕の背中に頬を摺り寄せる。
「でも、ぼくは昴さんと一つになりたくて仕方ないんです…昴さんが好きだから」
舌が、背中の一部分を舐めた。
見なくてもその場所に何があるのか分かる。
僕の、五輪の痣。
「んっ……んんっ」
大河の舌が五輪の痣を舐め、吸うように唇が這った。
まるで魅せられたように彼は執拗にその部分だけに頬を寄せ、唇を寄せて舌での愛撫を繰り返す。
無論、その間も指は僕の内壁を掻き分けるようにして僕の中への侵入を試みていた。
「ああ……昴さん…」
熱に浮かされたように呟く大河。
…僕にとってはおぞましい悪夢でも彼にとっては心地よい夢なのだろう。
僕らは対照的な夢の中で、お互いの存在を感じていた。
前世などよりよっぽどリアルな夢。
違う、これは夢じゃない。
まぎれもない現実だ。
「くっ…ん……ぅぅ…」
「うーん…そろそろもう一本挿れても平気ですか?昴さん」
卑猥な音が室内に響く。
中を蹂躙する大河の指を必死に押し戻そうと、自分の内壁が収縮を繰り返すのが彼の指の動きでわかる。
意識してやっている事ではない。
本能が拒否しているのだ。
当たり前だ、元々何かを受け入れる為の器官ではないのだから。
「返事がないってことはいいんですね。…じゃあ、挿れますよ」
「待て……!やめ…ろっ……んあぁっ!」
答える気にもなれず、聞こえないフリをしていたら大河は勝手に解釈をして更に指を増やす。
二本の指が自分の内部を、入り口をぐりぐりと拡げるような感触。
背筋を這い上がる悪寒に歯を食いしばって耐える。
「昴さん、凄い格好…でも、そそられるなぁ…ああ…早く挿れたいけど、我慢我慢」
大河が好き勝手な事を言いながら指を大きく、抉るように動かす。
その動きに内腑まで抉られているような気がした。
「ひ……!よ…せっ、動かすな…っ!」
願いは虚しく却下され、動きは止まらない。
むしろ指が増えた事で彼の動きはどんどん大胆になっていく。
いっそ、意識なり理性なりを飛ばしてしまえれば楽なのに。
こんな事、正気で耐えられない。
「どれくらい慣らせばいいんでしょうね。もう一本挿れても平気かなぁ」
大河が興奮したように呟く。
「嫌だ……!」
今度は勝手に解釈されないように即座に否定したが彼は無視して更に指を増やす。
「……っ…はっ………う!!」
喉元にせりあがる吐き気は痛みゆえか羞恥ゆえなのかわからない。
頭がぼぅっとして。
「えへへ、三本入っちゃいました。苦しいですか?…でも、これに耐えてくれないとぼくのを挿れられませんから」
口調は何処までも丁寧だが、残酷な事を平然という大河。
「昴さん…好きです……好きだからあなたをぼくのものにしたい」
彼が汗で額に張り付いた僕の髪をそっと払う。
「…でも、昴さんがぼくに許しを請うならやめてあげてもいいですよ。『大河、許して』って言ってくれるなら」
悪魔の囁きが、耳元で聞こえた。
思わず、目を開けて彼を見る。
彼は微笑んでいた。いつものように、穏やかに。
「ぼくは昴さんが好きですから。昴さんがさっきの言葉を撤回してぼくに悪かったと謝ってくれるのなら、止めてもいいかなぁって」
…心が揺れた。
プライドを投げ打ってでも。
この悪夢のような時間が終わるというのならば。
「……た…」
言葉を開きかけて、口を噤む。
今更そんな事をして何になる?
どうせもう、元になど戻れない。
過去に戻れないのは何も前世だけではない、現世だって一緒だ。
賽は投げられた。
また中途半端に大河に期待など持たせても、結局は同じことの繰り返し。
一時の苦しみを得ても、心の平安を取り戻すと、僕は決意したはずだ。
…無理やり抱かれる羽目になるなどとは予想していなかったけども。
「大河……」
彼に向かって微笑みかける。
僕の笑顔に大河が嬉しそうに目を輝かせた。
「真っ平ごめんだ」
その瞳を睨みつけ、吐き捨てるように言う。
覚悟は決まった。
この身を陵辱するというのならばすればいい。
心は誰にも渡さない。
前世の彼女のものでも大河のものでもない。
僕だけのもの。
それを渡すくらいなら死んだほうがマシだ。
「昴さん…」
大河はぽかんと口を開けて僕を見たが、すぐに頬を緩める。
「やっぱり、それでこそ昴さんですね。そう言うと思いました」
「……何、だと…」
「あ、誤解しないで下さいね。昴さんが謝ってくれるなら止めようと思ってましたよ。でも、昴さんならきっとそう言うと思ってました」
むしろ嬉しそうな大河に呆然とする。
「そんなところも全部ひっくるめて…昴さんが好きです。気高くて美しい、ぼくの昴さん…」
指が引き抜かれ、ほっとしたのも束の間。
大河が、ズボンのファスナーを下げる音が聞こえた。そして衣擦れの音も。
身体中に戦慄が走る。
「や……!大河…たいがっ……いやだっ!」
その意味するところを理解して夢中で身を捩る。
嫌だ、嫌だ……!!
「力を抜いてくださいね。昴さん…」
彼はもどかしような手つきで踝の所で止まっていた僕のズボンを取り去ると、僕の臀部を掴み、左右に押し広げた。
「い、や……ぁっ!!」
指とは違うモノが宛がわれ、無理やり入ってくる感覚に身を震わせる。
痛みはもちろんあったが、それよりも内臓を鷲掴みにされるような圧迫感でまともに息が出来ない。
「くっ…狭い……昴さん、力抜いて…」
自分の内部をかき分けて侵入してくる大河の声にも余裕がなかった。
僕を床に押し付けるようにして進まれる度に、顔が、胸が床に押し付けられてそっちの方が痛い。
息が詰まる。
「……ぅ……」
「…はぁ…奥まで入りましたよ。凄い、昴さんの中に全部入っちゃった……」
「……」
感動したように呟く大河の言葉も頭に入らなかった。
息苦しさで頭に靄がかかる。
「昴さん。昴さんはどんな感じです?」
ずずっ、と少しだけ引き抜かれる。
「いっ……動く、な!!」
まるで排泄のような感覚がして、その事にもまた嫌悪が走った。
自分のしていることを自覚させられる。
「昴さんの中、まとわりついてくるみたいですごい気持ちいい……」
元より答えなど期待してなかったのだろう。
彼は僕の事などおかまいなしに奥深くまで貫いたり、戯れに抜けそうなほど腰を引いてみたり、傍若無人に振舞う。
その度に僕はこみ上げる吐き気と悪寒を声ごと飲み込んで、屈辱に耐える。
「……っ……く…」
「声、我慢しないでもいいですよ。昴さんの声も、聞きたいですから」
催促するように彼が大きく腰を揺する。
「ひっ……あっ…あ…ぅ……」
堪えていた声が漏れた。
「そうそう。昴さんのいやらしい声…もっと、聞かせてください…」
大河は小さな動きでは僕が声を我慢するのに気付いたのか、殊更に大げさなほど腰を回し、僕を揺さ振る。
「あっ、あっ……よせ…!…っ」
その度にさきほどのように顔が、胸が床に押し付けられて苦しい。
「昴さん、苦しそうですね。床の上じゃ固いですもんね。…この状態じゃ逃げられないから解いてもいいかな」
大河が僕の腕の戒めを解き、くしゃくしゃにされた服を取り除く。
長いこと拘束されていた腕は痺れを感じたが、すぐに床に手をつき、大河から逃れようと身体を前に乗り出す。
ほんの少し前に覚悟した事など頭の中になかった。
ただこの状況から、大河から、逃げ出したくて。
がむしゃらに外へ向かって腕を伸ばす。
「…昴さん!」
大河も油断していたらしい。
ずる、と自分の中から大河が抜け出たのを感じながら、一歩前に手をついた時だった。
「ダメですよ、逃げちゃ」
大河が僕の腰を掴んで強引に自分の方に引き寄せながら身を乗り出し、遠慮なしに貫いた。
頭から一直線に身体を引き裂かれるような感覚。
「……ああっ!…あ、あ……」
「その格好で何処へ行くんですか?外に出たら変態だと思われますよ?」
乗りかかるような大河の重みを感じながら、震える身体を手で支える。
彼の手がすぅっと伸びて、僕の顎をさすった。
「でも、まだそんな元気が残っていたんですね。昴さんの身体を慮ってそれなりに遠慮してたんですけど、そんな心配もいらなそうですね」
「……!!」
その後はまさに悪夢のようだった。
言葉のとおり、容赦なしに大河は僕を蹂躙し、何度も精を注がれた。
…その度に身体が軋む。
閉ざされた部屋の中で、荒い息遣いと生臭い匂いだけが支配する世界。
壁一枚、窓一枚隔てた先にはいつもの世界があるのに。
虚空に向かって手を伸ばしてもその世界は遠く、僕は伸ばした手を拳を握りしめて地面へとおろした。
「…あっ……はぁっ……う、あぁっ…」
「昴さん……昴さ、んっ…」
彼が何度目かの絶頂を迎えたとき。
ようやく満足したのか、陰茎が引き抜かれたのを感じて僕は張り詰めていた意識を手放した…。
「……」
どれくらい気を失っていたのか分からない。
目を開けると、僕は冷えた身体をカーペットの上に横たえていた。
身体に絡まる大河の手。まるで、僕を放すまいと抱きしめるように。
ぴくりとも動かないところを見ると寝ているのだろうか。
「……っ!」
その手をどけ、起き上がろうして下半身の鈍痛にかすかに声を漏らす。
だが、そんな事は気にしてられない。
早く、この場から立ち去らねば。
「…何処へ行くんですか」
背中から、大河の声が投げかけられた。
びくん、と身体が震える。
「……帰る」
震えを隠し、極力感情を抑えた声で言う。
「その身体で帰れるんですか?」
「君が気にする事じゃない。……っ」
無理やり立ち上がると下腹部を掴まれるような痛みを感じて、うずくまるように押さえる。
「無理しないで下さい。…とりあえず、身体を洗いましょうか。汗でべたべただし」
軽々と抱え上げられても、抵抗する気も起きなかった。
「……」
大河がシャワーの蛇口を捻るのをぼんやりと眺める。
「熱かったら言ってくださいね」
僕の身体に熱いシャワーがかけられ、汗と体液で汚れた身体が清められていく。
と、思ったら大河が近づいてきて指が僕の孔に触れた。
「な…やめろ!」
再び恐怖で身体が小刻みに震える。
「…違いますよ。こうしておかないと、いけないでしょう?」
つぅーっと白いものが自分の足を伝い、排水溝へと流れていく。
「……!!」
大河が僕の中に放った欲望の塊。
流れていくそれを呆然としたまま眺める。
忘れようと思っていた記憶が思い出されて、目の前が暗くなった。
「…ぼくはソファで寝ますから、昴さんはゆっくり休んでください」
その後どこをどうしたのか記憶が曖昧なまま僕はいつの間にか大河のベッドに寝かされていた。
口を開く気力も自分の部屋に帰る気力もない。
何も考えたくなかった。
「おやすみなさい、昴さん…」
ぱたんと閉まるドアの音を遠くに聞きながら天井を見つめる。
眠くなどないのに、疲れのせいだろうか。
睡魔はすぐに訪れた。
また夢を見た。
だがいつもと違う。
いつもは僕は夢の中で前世の修道女だった。
だが、今日は少し離れた場所から彼女と…大河の前世である聖の会話を眺めていた。
風の吹く荒野を、二人は並んで立っていた。
野に咲く花を摘むと、聖が彼女に手渡す。
彼女は摘まれた花の命を哀れに思いつつも彼の心遣いが嬉しくて、そっとその花を受け取る。
「約束の証に」
彼は言う。
「ぼくは僧侶、あなたは修道女。仏や神に仕える身では今生で結ばれる事は叶いませんが、来世ではきっと…その約束の証に」
その言葉に、彼女は静かに首を振った。
「いいえ」
彼女の細い指が、手の中を花をぎゅっと握りしめる。
「例え今生で結ばれなくても、私はそうは思いません。この想いは私だけのもの。例え来世で貴方と会えたとしても、それは私ではないのです」
彼が驚いたように彼女を見ると、彼女は微笑んだ。
「だから、来世で会ったとしても、貴方も私も別の人間。けれど、また貴方に会って、今度はもっとゆっくり話してみたいです」
そっと彼の手を取る。
「貴方に会えて私は幸せです。だから、来世の私にも幸せになってほしい。貴方のような人に会って、幸せになってほしい…」
彼は彼女を抱きしめた。
最初で最後の抱擁。
彼女はきつく自分を抱きしめる彼の背に手を回して、自らも彼を抱きしめた。
『……ありがとう。
あなたに出会えて……
あなたに愛されて……
私は……
とても幸せでした……
時の輪廻が続くのならば……
もう一度……あなたと……』
唐突に、同じ場面が繰り返される。
だが、いつもの台詞には続きがあった。
死の間際の、彼女の願い。
もう一度、あなたと会いたい。
だけど、それは結ばれなかった過去を未来に託すわけではない。
ただ、伝えたいだけ。
私は幸せだったと。
あなたに愛されて幸せだったと。
だから、あなたの来世も幸せになってと。
過去は未来を縛るものではない。
どうか、私に縛られず幸せになって。
…けれど、一つだけ望みがあるとすれば。
こんな事は、こんな思いは、私で終わりにしたい。
未来の私。
願わくばあなたの手で、この理不尽な運命の螺旋を断ち切って欲しい。
私は、与えられた運命をただ受け入れる事しか出来なかった。
貴方はどうか、自分の手で運命を掴みとって。
それが我侭な私の、唯一の願い…。
彼女は、見えるはずもない僕に向かって微笑む。
何度も繰り返し見た夢のはずなのに
はじめて、彼女の声を聞いた気がした。
目を開ける。
僕は泣いていた。
理由も分からず、涙が溢れて止まらなかった。
「…っふ…うっ……」
子供のように、ただ泣きじゃくる。
いくら泣いても、治まらない。
とめどなく、涙が溢れて。
「…昴さん?」
僕の泣き声を聞きつけたのかおそるおそる大河がドアの隙間から顔を覗かせる。
「昴さん!どうしたんですか」
僕の涙を見て大河が駆け寄る。
反射的に身体を起こし、その胸に飛びつく。
「大河ぁ…っ!!」
彼にしがみついたまま、僕は泣き続けた。
大河は何も言わずその間中僕を抱きしめ、髪を優しく撫でていた。
「…少しは落ち着きましたか?」
「ああ…」
僕が泣き止んだのを見計らって大河が僕に声をかけた。
「すまない…服が濡れてしまったね」
「そんな事……気にしなくてもいいんですよ。昴さんの方が心配です」
大河が腰を屈め、僕と視線を合わせる。
「ぼくのせいですか?…ぼくが、あんな事をしたから…」
躊躇いがちに、彼が呟く。
握りしめられた拳が、震えていた。
「大河……違う。違う、そうじゃないんだ…」
「じゃあ何で…」
「夢を見たんだ」
ぽつりと言う。
「今日が初めてじゃない。このところ、ずっと前世の夢を見ていた。死の間際に、君に会いたいと願う夢を…」
「昴さん…」
「毎日のように繰り返される夢に、頭がおかしくなりそうだった。自分が誰なのか、わからなくなりそうだった」
大河の手が、そっと僕の手を握る。
「自分が前世に縛られているような気がして、君を好きなのが僕なのか、前世で結ばれなかった彼女が君の中の聖を求めているのか…わからなかった」
うわ言のように呟く。
「だから楽になりたかった。君を失っても、それで夢に悩まされずに済むのならと思って君を遠ざけようとした…」
「……昴さん…」
「だが、本当は違う。僕は前世のせいにして、君の気持ちに向き合うのから逃げていたんだ。…本当の自分を知られて、君に捨てられるのが怖かっただけなんだ」
「昴さん、ぼくは…!」
「わかってるよ。君がそんな人じゃないってことくらい。でも、僕は男として君を受け入れる事など到底出来なかった。…何故自分が女に生まれなかったのか、悩んだよ」
ふふっと笑う。
自分が性別に拘っていたのは、自分の未熟な性を誰にも知られたくなかったから。
虚勢を張って、全身から棘を出して、誰にも知られないように、隠しておきたかった。
…自分の好きな相手にも。好きな相手だからこそ。
「さっき、いつもと違う夢を見たんだ。前世の君と、僕の夢。僕の前世は生まれ変わっても君に会いたいと言った。でも、それは叶わなかった想いを遂げる為じゃない」
大河の手を、ぎゅっと握る。
「自分を責めているであろう君に、自分が幸せであった事を伝えたかった。そして、君も、僕も、前世に囚われず、幸せになってほしいと伝えるため…」
「昴さん…」
「今までの夢を見せていたのは彼女じゃない。僕の弱い心が見せていた幻に過ぎない。僕は夢に囚われていたわけじゃない、僕が、夢に囚われたがっていただけだったんだ……」
繰り返される同じ場面。
その度に僕の心は疲弊し、次第に彼を遠ざけようとしていた。
だけど、夢の中の彼女は来世に会っても結ばれたいとは願っていなかった。
…もしかしたら、さっきの夢は本当に僕の中にある彼女の魂が見せた夢なのかもしれない。
「でも何故僕が男に生まれたのかようやくわかった気がしたよ。夢の中の彼女は言った。『この理不尽な運命の螺旋を断ち切って』と」
「え……?」
「九条家の痣は代々受け継がれてきたもの。…僕は、唯一それを受け継ぎ、後に残す事を宿命づけられた人間。僕が子を生さなければ、九条の血を引く五輪の戦士は生まれない」
「昴さん…!!」
彼が僕の言葉の意味を理解して青ざめる。
「五輪曼陀羅は一人でも欠ければ意味を成さない。僕は、僕自身の意思で運命を断ち切る。僕は誰とも添い遂げない。九条家に伝わる五輪の戦士の血は僕が絶やす。そう決めた」
それがきっと、僕が男に生まれた理由。
女という与えられる性でなく男という与える性に。
だから与えられる運命に終止符を。
僕自身の手で。
「だから大河。僕の事は忘れてくれ。君が男だからじゃない。僕は、一生一人で過ごすと決めたのだから」
「……昴さんはひどい人ですね。やっぱり、ぼくの気持ちなんてこれっぽっちもわかってないじゃないですか」
「大河……?」
「あなたはそれでいいかもしれないですけど、ぼくの気持ちはどうなるんです?あなたを好きな、ぼくの気持ちは…!」
熱っぽい瞳が僕を捕らえる。
まるで祈るように、彼の両手が僕の手を包む。
「すいません…こんな事言ったら迷惑ですよね。ぼくはあなたに許されない事をした…あなたはもう、ぼくを嫌いなはずだから」
だが、すぐに大河は僕から視線をそらし、うつむく。
叱られた子供のように。
「それは…」
「あなたに、もう必要ないと言われてショックでした。自分の存在を否定されたような気がして…頭に血がのぼって、どんな事をしてもあなたを繋ぎとめたかった」
彼が泣きそうな顔で僕を見た。
「あんな事をしたらあなたに嫌われるとわかっていても、抑えきれなかった。どうすれば想いが伝わるのか、わからなかったんです…」
彼の瞳からこぼれた涙が頬を伝い、僕と彼の手に滴り落ちる。
それは体温よりも熱かった。
「ごめんなさい、昴さん…ごめんなさい……」
さっきとは正反対に、今度は彼が泣いていた。
「あなたが大切で、守ろうと思ったのに…そのぼくが誰よりもあなたを傷つけてしまった…ぼくは、最低の人間です…」
「大河…」
「正直に言えば、心の何処かで自惚れていました。前世に結ばれなかった恋人同士であることに…。ぼくたちは運命の恋なんだと、思い込んでいました」
ふと、既視感に襲われる。
何処かで同じような事を経験したことがあるような…。
「でも、ぼくのそんな慢心が昴さんを苦しめていたんですね…ごめんなさい、昴さん。傍に居たのに、あなたの苦しみをこれっぽっちもわかってあげられなくて」
ああ、と思う。
彼が、僕を五輪曼陀羅のパートナーに選んだとき。
あの時に似ているのだ。
「ごめんなさい、昴さん……ごめんなさい……ごめんなさい…」
「もういい…謝るな、大河。悪いのは君だけじゃない。お互い様だよ…僕だって君を傷つけた」
確かに、大河は僕の意思とは関係なく僕の身体を奪った。
…それについては、確かに大河が悪い。
だが、先に彼を傷つけたのは他でもない自分。
僕が大河を逆上させるほどの心の傷をつけたのも紛れもない事実だ。
『自分の存在を否定されたような気がして』と大河は言ったが、僕自身が吐いた言葉は大河自身の想いを否定するかのような明確な意図を持って言ったのだ。
許されないのは自分の方。
「いいえ…昴さんは悪くありません。ぼくが未熟だから…ぼくが未熟なせいで…本当に、ごめんなさい…」
ぶるぶると首を振って否定したまま大河は泣き止まない。
「でも、お願いですからそんな悲しい事を言わないで下さい。一生、一人だなんて淋しすぎます…」
「……大河」
「ぼくじゃなくてもいいです…本当は傍に居たいですけど、それは無理ですから、他の誰かでもいい。昴さんには幸せになってほしいんです……」
「大河…」
胸が痛む。
今さっき決めたばかりの決心が鈍る。
一生一人で居ると決めたばかりなのに。
大河に、傍に居てくれと言い出しそうな自分がいる。
…そんな事は、言えない。
言ってはいけない。
「……あなたにつけた傷は消えないけど、ぼくを殴るなり蹴るなり好きにしてください。…さっき、約束しましたしね。後で躾けるって」
ひとしきり泣いて少しは落ち着いたのだろうか。
大河は握っていた僕の手を離すとそんな事を言う。
「ぼくは覚悟は出来ていますから。昴さんの好きに、してください」
彼がぎゅっと目を瞑る。
大河。
大河。
大河…
僕のポーラースター。
「わかった…じゃあ、遠慮なく…好きにさせてもらうよ……大河、覚悟しろ!」
「……痛っ…!」
僕は大河の唇に自分の唇を重ね、その唇を強く、噛んだ。
大河が顔を顰め、唇からは血が滴る。
「昴、さん…」
驚いたように僕を見る大河の唇の血を舐めると、僕は呟いた。
「…君を一生許さない。僕の心も身体も奪った君を一生許さない。だから、大河。僕は君を離さない……それが、僕の君への『躾』だ」
「昴さん……それは…」
「不服かい?でも却下は許さないよ大河。僕の信念を曲げてまで、決めた事なのだから」
自分でも矛盾しているなと思う台詞を言いながら、心は何処か晴れ晴れとしていた。
かつて、大河が僕を変えたときに身体が勝手に動いたように。
心が勝手に動いて、彼を求める気持ちを抑えることが出来なくなっていた。
どんなに我侭でも。
どんなに理不尽でも。
君への想いは止められないんだから、仕方ないじゃないか、大河。
「昴さんはやっぱりひどい人ですね…」
大河がむくれる。
「ぼくが、拒めないのを知っててそう言ってるんでしょう。死ぬまで許さないなんて、ひどすぎます…」
でも、と彼が言う。
大河の手が僕の手を取り、二つの手は一つに重なった。
「ぼくにとっては最高の躾です……昴さん」
古より続いてきた悲しみの連鎖。
抗うことの出来ない運命の螺旋。
全ての苦しみは僕で終わらせる。
全ての悲しみは僕が終わらせる。
僕が全ての運命を僕自身の意思で断ち切る。
だからどうか、僕に力を。
大河。
僕に立ち向かう力をくれ。
僕の傍に、居てくれ。
END