それからの昴の行動は容赦が無かった。
「……昴さん、何を…っ!!」
昴は自分の腕を掴むとそのまま横に引っ張るようにして椅子から引き摺り下ろす。
床にしたたかに尻餅をついて、痛みに閉じた瞳を開くと覆いかぶさるようにして昴が目の前に居た。
「す、昴さ…!」
噛み付くようにキスをされ、今まで決して触れようとはしなかった下半身に手を伸ばされて背筋に冷や汗が流れた。
こんな姿を誰かに見られたらそれこそ言い逃れが出来ない。
「…っ…っ!!」
流石に今度ばかりは昴を止めようと首を横に振り肩を掴んだが、狭い教室内の一角のせいか。
もがいた拍子に机や椅子の足に当たって、その音にびっくりして押さえる力が緩んだ隙に昴はファスナーの中に手を突っ込んでくる。
さほど勃ちあがってもいないそれに触れると、昴は素早く取り出した。
「……!!」
初めての行為ではなかったが、羞恥に頬が染まったのはやはり場所が場所だからだろうか。
目線を上向かせると、黒板の上の十字架が目に入る。
ただ飾られただけの十字架ではあるけれど、背徳心を抱かせるには十分な演出だった。
「ダ、ダメです…ぅっ、すば…昴さん……いけません…」
昴は肌に歯を立てたり爪を立てたり虐げるような行動をする傍らで,勃ち上がりつつある陰茎だけは壊れ物のように優しく触れる。
同時に、もしくは交互に与えられる痛みと快楽の狭間で意識が蝋燭のようにユラユラと揺れた。
昴は楽しそうに笑っている。
痛みに、快楽に喘ぐ自分の姿を見つめながら。
「……っ」
昴は、躾だと言った。
ならば昴が満足するまでこの痴態を演じさせられるのだろうか。
ぞっとした。
突き放せばいい、逃げ出せばいい。
でも負い目がある分、それが出来なかった。
それにたとえこんな状況であっても昴が傍に居てくれるのが嬉しいなどと思う自分がたまらなく卑しい人間に感じた。
「ふふっ……君は嫌がりながら悦んでいるようだけど?ああ、泣かないでくれ。……もっと君を虐めたくなる」
いつの間にか目端に水滴が浮かんでいたらしい。昴はそれを優しく舐めとるついでに耳元で残酷な事を囁いた。
ぶるりと身体が震える。
これ以上のことなど、自分には予想もつかない。
「……それにしても、いくら放課後とはいえ誰も来ないものだね。まるで世界から取り残されたように、静かだ」
ふと、昴の動きが止まる。
自分を見下ろす昴の瞳は自分など映っていないかのように虚ろだった。
「昴さん?」
急に不安に駆られてその腕を掴んで揺すぶると昴は我に返ったらしい。
「………大河。君といると僕はいつも勘違いしてしまいそうになる。満たされるはずの無い心が、満たされる気がしてしまう」
「……?」
言っている意味がわからず首をかしげると、昴は聖母のように微笑みを浮かべて口付けを落とした。
「でもそんなのは勘違いだ。人が他人によって満たされるのは身体だけだ。心が満たされる事など、あるはずがない」
「昴さん!」
「だから一度だけ君の望みを叶えてあげよう。……それで全ての迷いは、消える」
望みを叶える、その意味がわからず下半身に違和感を感じたときには既に昴が白い腰を深々と落とすところだった。
「すば……く、ぁ……っ!」
狭い、そう感じたのは最初だけで。
背筋を駆け上がるような快楽が襲って来て、湧き上がる射精感に耐えようと歯を食いしばるのが精一杯だった。
「……っ」
熱くて狭い、柔らかいものに包まれて身体が溶けてしまいそうな感触。
なんとか衝動をやり過ごし、耐える為にきつく閉じた瞳を開くとそこには自分を身体の内に全て収め、優しく微笑む昴の姿があった。

「……」
愕然とした。
昴が身動ぎすると、自分を包む柔らかな肉壁を通じて振動が伝わる。
温かさの正体は、他でもない昴自身だった。
「……なんで」
昴と一つになっているという感覚以上に疑問がついて出た。
身体を許す気はない、昴は以前そう言ったはずだ。
なのに今、昴の方から自分を受け入れている。
「何でだって?…君は僕とこうしたかったんじゃないのかい?」
「……」
したくなかったと言えば嘘になる。
でも自分が理性に負けて昴を襲うことはあっても、昴から…などとは思ってもみなかった。
「昴さん…昴さんはどうなんですか。ぼくと、こうしたかったんですか」
そんなわけなどない、そうわかっていても縋るような呟きが自分の口から漏れた。
答えを聞けば、奈落に落とされる事がわかっているのに。
「そうだよ」
だがさらりと返ってきた答えは予想を裏切るものだった。
「熱心に勉強に励むお利口な大河を見ていたら、ちょっと悪戯をしてみたくなったのさ」
「昴さん……」
「神聖なる学び舎でこんな事をする気分はどうだい?…背徳感に恐れおののいて声も出ないのかな」
「……っ、っ」
昴が腰を上下させて、その度に内壁に柔らかく、まるで搾り取られるみたいに扱かれる。
放課後特有の気だるいような静寂と夕陽に染められた空間。
並べられた机も椅子も、黒板の上に飾られた十字架をもそのままなのに。
その中にあって自分と昴だけが異質な存在だった。
「気持ち…いいかい?そんなに必死に耐えなくてもいいよ。君の欲望を僕の中にぶちまけても構わないのだから」
「昴さん……」
「そうすれば君も僕の中でただの男と成り果てる。僕がもう、心を動かされる事もなくなる…」
独り言のように呟きながらも、昴は動く事を止めなかった。
早く、早くと急かすように昴が腰を揺らし、その度に昂ぶる熱の解放を求める自分の分身が欲望を吐き出しそうになるのを堪える。
初めて味わう昴の身体はペニスの形にぴったり添うように狭くてすぐにでも意識を連れて行かれてしまいそうなほどだったけれど。
違う…と心の中で声がする。
あれほど欲しがっていた昴の存在がこれ以上ないほど身近に居るのに。
温かい内部とは裏腹にその瞳は冷たくて、淫らに腰を振る姿と対照的に表情は少しも冷静さを失っていなかった。
違う、また声がする。
自分が欲しがっていたのはこんな事じゃない。
こんな形で昴に求められても嬉しくなかった。
欲しかったのは…昴に求めて欲しかったのは……。

ふと昴と過ごした年明けが思い出される。
ああ、そうだ。
あんな風に昴と過ごして、心を寄り添い合わせたかった。
……心?
『僕がもう、心を動かされる事もなくなる…』
昴は自分によって心が動かされる事などないと言った。
ならば、昴は今まで求めようとしてくれていたのだろうか。
自分を……自分の心を。
そして今、それを自ら否定しようとしている。
身体を重ねる事で、心を引き裂こうとしている。
…ようやく、昴がこんな事をしたの目的がわかった気がした。
「昴さん、抜いてください…ダメです。こんな事をしても…何も」
「…大河。無理をしなくていい。君が耐える必要など何処にもない。僕が赦すと、そう言っているんだ」
昴は罪人を赦す聖者のように優しい声でそう囁きかける。
「欲しかったんだろう?僕の身体が。『全てをぼくのものにしてしまいたい』と君は言ったじゃないか」
確かに昴に向かってそう言ったのは覚えている。
でもそれは、それは……。
「……違う、ぼくはあなたの……」
どんなに堪えても長くは持ちそうに無いのを悟り、昴を見上げると呟く。
先端に集まる熱を吐き出す前に、どうしても一言だけ昴に言いたかった。
「あなたの心が欲しかっ、た……、っ!!」
最後の自制心でもって昴の中から自分自身を引き抜こうとしたが。
動きで事前に察知したらしい昴によって凄い力で抑え込まれてしまい。
白い欲望は昴の中に、熱と共に吸い込まれていった―――――。


「……そう言えば、自分だけ綺麗なままで居られるとでも思っているのか」
快楽の余韻で動けない自分を見下ろしながら、昴は眉を顰めた。
「思いません。昴さんの言う通り…ぼくはただの男です」
「……」
「…あなたが望むなら友人で居ようと思いました。でも、あなたの良き友人で居ることすら出来なかった…情けない人間です」
言葉にすると尚のこと情けなくて、昴の前から消えてしまい気分だった。
否定したところで誘われるがまま昴を穢した事実は変わらない。
どんなに綺麗ごとを並べても、自分が昴を欲しいと思っていたのは紛れようも無い真実。
それを達せられたはずなのに…虚しさと罪悪感が、胸を締め付けた。
「ごめんなさい、昴さん」
「何を…謝る」
「あなたはぼくに心を開いてくれようとしていたのに、ぼくが浅はかだったせいで……」
「ぼ、僕は……そんなこと」
昴の瞳に戸惑いが走る。
「そうですね。ぼくが自惚れているのかもしれません。だけど、あなたと過ごしたクリスマスからの数日間…本当に幸せでした」
こうして身体を重ねるよりも、あなたと一つになれたような気がしました―――――。
「……!」
そう呟くと昴の顔がみるみる歪み、崩れるように自分の身体に折り重なった。
「なんだ、この気持ち……僕が僕でないみたいだ………」
「……昴、さん?」
「僕の、負けだ。僕は……誰も好きになる事などないと思っていた。それが…君に」
収まった鼓動が再び早鐘を打つ。
「君を好きになるなんて……僕は、変わってしまった。君という存在に……変えられてしまった」
昴の手が、自分の手に重なる。
顔を上げた昴と目が合うと、どちらともなく口付けた。

「…んっ、たい…が……」
昴との口付けで、未だに昴の中にあって力を失いかけていたものが再び力を取り戻そうとしているのが昴にもわかったらしい。
「す、すいません。今、抜きますから」
だが昴は首を振った。
「昴は…大河を求める。君と、本当に一つになる気分がどんなものなのか……今すぐ、知りたい」
「昴さん……」
「そういうのは、イヤかい?」
首を振る。
昴が、本当の意味で自分を求めてくれるのが嬉しかった。
「イヤじゃありません。昴さん…ぼくは、あなたを、愛しています……」
昴の頬が、桜色に染まる。
そんな仕草すら愛しくて、身体を起こすと反対に昴を床の上に横たえた。
「…っ…大河……」
すぐに達してしまわないように浅い結合を繰り返しながら口付けを交わし、昴のタイを解き、シャツのボタンを外していく。
もうここが教室であることは頭の中から消え去っていた。
「…っ…はっ……たいが、たいがっ……」
「昴さん…昴さん……っ」
緩やかだったのは最初うちだけで、すぐにお互いの動きが激しくなり夢中になって相手を貪った。
ぴったりと身体を重ね合わせると、まるで元々一つの存在であったかのように身も心も蕩けるような気分だった。
昴の口から漏れるのは喘ぎ声と自分を呼ぶ声だけだったが、その声も突く場所によって微妙にトーンが変わる。
特に眉をきつく寄せて身体を震わせる箇所を先端で突き上げると、昴は悲鳴のような声をあげ首を振った。
同時に内部がきゅうっと締まり、その動きに急かされるように更に自分の動きが早まる。
「た……っ………新次郎っ…!」
初めて、昴が名前を呼んでくれた。
その事に一瞬気をとられた拍子に二度目の終わりはやってきた。
昴の中がこれ以上ないほど細かい収縮を繰り返し、その気持ちよさにさきほどよりも多い脈動を感じながら全てを吐き出した。

「……大河」
「昴さん…」
終わった後は、二人ともしばらく動けなかった。
だらりと床に横たわって視線を合わせながら手を絡める。
それだけでも心が繋がっている、そんな気分になれた。
「愛しています」
もう一度囁くと、昴は潤んだ瞳を細めながら微笑む。
「僕もだよ」
幸せな気持ちに浸りながら眼をあげると十字架が見えた。
今ならあれに貫かれても構わないと思えるほど、満ち足りた気分だった。


その日から、昴とのひそやかな日々が始まった。
表向きは今まで通りの友人同士、けれど裏では恋人…と呼ぶのもこそばゆいがそんな関係になっていた。
もちろん、周りの人間には気付かれないように細心の注意を払うのも忘れない。
特に、担任が厄介だった。
彼は未だに昴に言い寄ろうとしている。
昴は
「もう彼とは寝ないよ」
と言って適当にかわしてはいるようだが、それでも気が気じゃなかった。

「昴さん、もうすぐ新学期ですね。今度も一緒のクラスになれるといいなぁ」
「…そうだね。もう、そんな時期か」
昴が音楽室の窓の外を見上げる。
最近はまた昴に教えられてピアノを弾いていた。
初期に比べれば少しは上達した…と思うが念願の『Je te veux』を弾けるようになるにはほど遠かった。
もうすぐ新緑の季節がやってくる。昴と会って半年以上が経過した。
自分の人生の中で一番濃いと思われる季節だったけれど。
過ぎ去ってしまうとあっという間な気さえした。
「昴さんは…」
「なんだい?」
「いえ、なんでもありません」
「ふぅん……」
昴が顔を覗き込むようにして軽く口づけを落としてくる。
「す、昴さん!部屋以外ではしない約束でしょう」
「…なんだか君が元気がないような気がしたからちょっと元気付けてあげようと思っただけだけど」
悪びれもなく言うこの人は相変わらず天邪鬼で気まぐれなところは変わっていない。
捕まえたと思えば手の中をするりと抜け出していってしまうような、そんな人だ。
「……余計心臓に悪いです」
「言いたい事があるなら言ってご覧」
「じゃあ言いますけど…昴さんは最近ピアノを弾いてくれませんね」
ずっとここに居てくれるんですか、そんな事を聞けずにとっさに話題を考える。
「…そうかい?お手本としてならいつも弾いてるじゃないか」
「そうじゃなくて…前みたいに弾いて欲しいんです。昴さんの好きな…」
「ああ…『Je te veux』か。大河は本当にその曲が好きだな」
「だって昴さんが一番最初に弾いてくれた曲ですし。昴さんの弾くのが聞きたいんです」
「やれやれ…君が弾けるようになるまで言われそうだな」
昴は苦笑しながらもリクエスト通り『Je te veux』を弾いてくれる。
半年経って聞いても昴の奏でる音色は繊細で優雅で、それでいて内に情熱を秘めたような甘く切ない気持ちにさせる。
穏やかで静かな曲の、時折激しさを増す瞬間に心を揺さぶられるのもやっぱり変わらない。
弾き終えた昴に拍手をすると、昴は意味深な笑みを浮かべて呟いた。
「この曲の意味は?大河」
「それは……」
きょろきょろと辺りを見回し、当たり前だが誰もいないのを確認して昴を背後から抱きしめる。
「あなたが欲しい、です……」
「僕は曲の意味を言えと言っただけで行動に移せと言った覚えは無いけれど?」
からかうような瞳が上目遣いに見上げて昴はくすくすと笑った。
「ぅ……そ、そういうわけじゃないですけど」
挑発されたとはいえ昴の思惑に簡単に乗せられてしまう自分が情けない。
「昴さんは…弾くときにぼくが欲しいと思いながら弾いてるんじゃないかなぁと思って」
「おやおや、随分言うようになったね。そんな事などないと言ったらどうする?」
「……落ち込んで、立ち直れないかもしれません」
「それは困るな。拗ねた君の機嫌を直すにはまた弾かなければならないからね」
そこまで言って、お互い顔を見合わせ笑い合う。
真実がどうかなんて、言葉にしなくてもわかりきっている。
後ろから抱きしめても振り払うでもなくそっと手を重ねてくれる事が、何よりの証拠なのだから。


だが、そんな幸せは長くは続かなかった。


「新次郎」
前回よりやや苛立った口調の叔父に呼び出されたのは、それから間もなくの事だった。
「一郎叔父……」
「久しぶり…というほど日が経ってないのに俺が来た理由はわかるか」
「……」
「俺の言った事を、覚えているか」
『わかっているな、くれぐれも間違いなど起こさないように、勉学に励むんだぞ』
前回会ったときに叔父はそう言い残していた。
「一時は俺の耳にも入ってこなくなったから安心していた。だが……」
ぱさりと机の上に写真が数枚置かれた。
そこには中睦まじく寄り添う自分と昴の姿が…写っていた。
「これは……!」
そのうちの一枚はキスしているものまであった。
いつ撮られたのか、頭がぐらぐらした。
「九条昴についても調べさせてもらった。お前がそれほど夢中になる彼…いや彼女の事もな」
「!!」
「……やはり知っていたのか。九条昴が女だと言う事を」
自分の反応を見て叔父は深々とため息をつき、そしてこう言い放った。
「新次郎、お前は明後日にでも家に戻す。それまで部屋で荷物をまとめておけ。……九条昴も当然ながら同じ処分だ」

そのまま見張りをつけられ部屋に戻されると一歩も外へは出させてもらえなかった。
「昴さん」
部屋の壁を叩いても反応はない。
もしかしたら昴は違う部屋に閉じ込められているのかもしれない。
頭は混乱したままで夜になっても落ち着くことは無かった。
何に驚けばいいのか、何を考えればいいのか、これから何をすればいいのかもわからなかった。
学校を追い出されて家に帰される…それはすなわち昴に会えなくなることだ。
イヤだ…!
そこまで考えてようやく事の重大さに気付いた。
昴と離れ離れになる、そんな事など耐えられない。
なんとかしなければ…でもどうすればいい?
考えても結論など出はしないまま眠れない夜が明けて、朝になった。
「……」
扉の外の様子を窺うと一晩中見張っていたのか、人の気配を感じる。
こうしている間にも昴は実家に帰されているかもしれない。
逸る気持ちをよそに何も出来ない自分が惨めだった。
なんとかして一目でも昴に会いたい。
そう思っていた矢先だった。
コンコン、と窓ガラスを叩く音にはっと目を向けるとなんと窓の外に昴が居た。
「すば…」
「……」
思わず声をあげそうになった自分を見て、昴は『静かに』と人差し指を口元にあてる。
「………」
こくりと頷くと窓を開け、昴を招き入れた。
「昴さん!」
小さな声で名を呼ぶとその身体を力いっぱい抱きしめる。
たった一日のはずなのに、もう何年も会ってなかったほど懐かしい気持ちでいっぱいだった。
それは昴も同じだったらしく同じようにぎゅっと抱きしめ返してくれる。
昴の髪、身体、香り、全てが愛しくてこの人と会えなくなるなんて考えられもしない。
だが、昴は耳元で囁く。
「良かった、君が部屋に居て……僕は別の部屋に居たから…抜け出してお別れを、言いに来たんだ」
「!!」
眼を見開き、呆然と昴を見ると昴は悲しそうに微笑んでいた。
「大河、君に会えてよかった。短い間だったけれど…君と過ごせて楽しかった」
「……」
必死に首を振る。
自分が言って欲しかったのはそんな別れの言葉じゃない。
まるでもう二度と会えないような、そんな言葉など言って欲しくなかった。
「イヤです」
昴にしがみついて、尚も必死に首を振る。
「昴さんと離れるなんて…ぼくはイヤです」
「大河……」
昴は駄々をこねる子供のような自分の髪を撫でながら、静かに首を振る。
「僕だって、君と離れたくない。でも仕方ないんだ」
「でも…」
「僕のことは、忘れてくれ」
優しい笑みを浮かべたまま、昴は残酷な台詞を吐いた。
「そんなの絶対にイヤです。…今がダメでも、いつか必ず迎えに行きます。だから、だから…」
「それは、無理だ。僕は……」
「失礼します。朝食をお持ちしました……、!!」
目の前の昴の事に頭がいっぱいで部屋の外に気を配るのを忘れていたからか。
そう言って開け放たれた扉と、向けられた視線を感じた瞬間、無我夢中で昴の手を引いて部屋を飛び出していた。
「大河!」
昴が伝ってきた屋根の上を、出来るだけ遠くへ。
されど翼を持たぬ人の身に逃げ場などありはしない。
すぐに端に行き当たる。
自分の部屋からは幾人かの人間がこちらを見ていたが足場の悪さからか外に出てこようとする者はいなかった。
「……大河」
たなびく風に煽られて、互いの髪がゆらめく。
こんな時でなければ気持ちよいと思うほど、清々しい青空と爽やかな風が眼前には広がっていた。
「何処へ、いくつもりだったんだい?」
昴は困ったような表情のまま首をかしげる。
「空へ……」
思わず雲ひとつない空を見上げながら言うと、昴も同じように空を見上げた。
「…空か」
「ぼくに翼があれば、あなたを抱いて飛んでいけるのに」
「人に翼は無い。それは無理な話だ」
それとも…と昴は笑う。
「目に見えぬ翼を駈って二人きりの世界にでも行くかい?」
「!!」
比喩的なたとえではあったが、それがどういう意味かはなんとなくわかった。
4階建ての寄宿舎とはいえここから飛び降りたら無事では済まないだろう。
「……」
ちらりと下を見る。
空の透けるような青と対照的に、くすんだ地面。
だけど何故か見ていると吸い込まれそうな気がして、慌てて視線を昴に戻す。
「ぼくは……」
ドクン、ドクン、ドクン……。
頭の中に心臓があるんじゃないかと思えるほど、脳の中から脈打つ音がする。
瞬きを忘れた瞳の奥がチカチカして、震える手を握りしめると手の平が汗に濡れていた。
「嘘だよ」
そんな動揺する自分を見て、頬を包み込むように昴の細い指が触れる。
「そんな顔を…しないでくれ。君を困らせるつもりはなかったんだ」
「昴さん……」
風の音を切り裂くようにして礼拝堂の鐘が鳴る。
それを合図に昴は言った。
「さぁ、戻ろう。もう気は済んだだろう……」
「昴さん」
そう言って歩きだそうとする昴の腕を掴む。
「本当に、嘘なんですか」
「大河」
「あなたが望むなら…ぼくは、何処へだって……」
その先は、言葉にならなかった。
感情に胸が詰まって、息をするのも苦しい。
「……大河」
昴が自分の手を取る。
その手には、いつの間にか昴のネクタイが握られていた。
「僕は、死を美しいものとは思わない。無垢なる魂の行き着く先が天国とも思わない」
昴は自らの手首にそれを巻くと、手首ごと目の前に差し出した。
誘うような、拒むような、曖昧な表情を浮かべて。
「でも、君となら…君が僕と一緒に居る事を選んでくれるのなら……自由な世界に行けるのかもしれない」
躊躇いもせず、差し出されたネクタイを自分の手首にも絡める。
昴は少し驚いたようだったが、やがてネクタイの両端を掴むときつく縛り上げた。
触れ合う指先を、ぎゅっと絡めあう。
「不思議な気分だ……今なら、この空を飛べそうな気分さえしてくる」
昴の表情は、とても穏やかだった。
「……飛べるかもしれませんよ。見えない翼があるかもしれないじゃないですか」
「そうだな……大河。君に会えて、良かった」
「ぼくも、昴さんに会えて幸せです」
微笑みあう二人の心は、今一つだった。


『気をつけるんだよ。悪魔に魅入られた人間の行き着く先は…破滅しかないのだから』


破滅。
これを破滅と呼ぶのなら、そう呼ばれても構わない。
彼の人に魅入られた事が罪ならば、罰も甘んじて受け入れよう。

それが、決して許されぬ禁断の恋をした、ぼくの運命―――――。

END


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